『日日是好日』
第三話『カオルと黄色いメモ』 P1


 右手には小さな黄色い紙、左手には携帯を持ったままボクは途方に暮れている。

 さっきまでの夕焼けはいつの間にか夜の暗闇へととって代わり、眩しくてギラギラした色使いのネオンがあちこちに灯り始めた。

「ネオン嫌い」

 そんなことを言ってる場合じゃないと分かっていても、どうしても好きになれない繁華街のどぎついネオンに眉根を寄せた。

 帰りたい。

 もう何度そう思ったか分からない。

 こんなことなら素直に電話すれば良かった……と電池のなくなった携帯に視線を落とした。

 携帯はすごく便利だと思うけど電池がなくなったらただのガラクタだと思った、なんか色んな機能が付いてるけどボクが使いこなせるのは電話とメールだけ。

 なんか今流行りらしいってガクさんが大きさの不揃いな動く絵が散りばめられた読みにくいメールを見せてくれたことがある。

 名前があったはずけどもう覚えてない、だってボクにはそんなこと出来そうになかったから。

 その時はただガクさんがどうしてそんなメールを貰ったのか(文面は普通だったけど)そればかりが気になってそんなことどうでもいいと思ったくらいだ。

 って今はそれはどうでもいいんだけど。

 そんなメールを打つのもやっとのボクは話に聞いたことがある「ナビ」という機能を使ってみようと思ったのが今から三十分ほど前。

 でもまぁ……電池がなくなってまだその時と同じ場所に立っているのだから結果は言うまでもない。

 どうしよう。

 ボクは夜の繁華街の中心で完全に迷子になっている。

 右手の小さな黄色い紙にはガクさんの男っぽい豪快な字で居酒屋の名前と簡単な地図が書いてあった。

「すぐ分かるよ」

 ガクさんがそう言ってくれたから大丈夫だろう、なんて高を括っていたのが大きな間違い。

 ボクは方向音痴だ。

 しかも普段あまり出掛けない、特に夜の繁華街にはよほどの用事がない限り一人では来ない。

 それをこうして一人電池の切れた携帯と役に立たないメモを持ったまま立ち尽くしているのには理由があった。

 話は数日前いつもより早めに帰宅したガクさんがその日の夕飯の野菜炒めを準備している時まで遡る。

 ボクはもやしのヒゲを取るようにと言われて、いつもするようにダイニングテーブルに腰掛けてその作業に没頭していた。

 細かいことは嫌いじゃない。

 手先が器用だとか思わないけどボクは結構単純作業が好きなんだ。

 それでボクがもやしのヒゲを取っているとどうやら準備の終わってしまったガクさんはボクの向かいに腰掛けて少し手伝ってくれた。

「そうだ、今度の金曜日な飲み会で遅くなるから」

「飲み会?」

 ボクにはあんまり馴染みのない言葉。

 そんなに友達が多いわけじゃないし大勢と集まってワイワイ騒ぐのはあんまり好きじゃない。

 それに「飲む」と言えるほどお酒を飲めなかった。

 だけどガクさんはよく飲み会に参加している。

 明るくて頼りになって男らしいガクさんだからきっとそういう席でもいつも輪の中心にいそうな気がする。

 それが出来ないボクにはちょっと羨ましい。

「そう。この前営業に異動になっただろ? それで歓迎会やってくれるらしいんだわ」

 あぁ、そういえば。

 ボクのようなフリーでイラストを描いているような職業には関係ないが、会社勤めをしているガクさんには季節が変わったりするたびに人事異動があるらしい。

 ガクさんの行ってる会社は大きな製紙メーカーなんだけど最初聞かされた時はピンと来なかった。

 けれど「キサラギ」の名前が入ったティッシュやトイレットペーパーを見せて、こういうのを作ってる会社だよと言われてテレビのCMでもドラッグストアの安売りでもよく見かけている物ですごく驚いた。

 そんな大きな会社に通うガクさんにとっては初めての人事異動、今までは「企画」にいたらしんだけど今度は「営業」に行くことになったらしい。

 ガクさんの明るい性格ならきっと大丈夫だろうなって思ってたら案の定その異動にガクさんはとても喜んでいた。

「だからその日は飯、一人で食うんだぞ」

「うん。分かっ……」

 分かったと言おうとして頭の中で何かが引っ掛かった。


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