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少し走った後、彼は前に一度訪れたことのある公園の駐車場に車を停めた。
前に来た時には春の初め、公園を彩る桜がとても綺麗で素敵なのに、地上で繰り広げられる酒の宴の騒がしさに二人で苦笑いしたことを覚えている。
今は公園内にあるテニスコートの辺りだけが昼間のように明るいだけで、人影は見当たらないし街灯の少ない駐車場も車は疎らだった。
彼は車があまり停まっていない駐車場の端に車を停めてエンジンを切った。
急に静かになった車内、大通りから外れた場所にあるせいか、近くを通る車の音も聞こえず、文字通り静寂に包まれた。
「タバコいいか?」
「あ、うん」
車内では灰皿もないし滅多にタバコを吸わない彼が、窓を薄く開けて携帯灰皿を取り出した。
彼がタバコに火を点けた瞬間に一瞬だけ車内が明るくなったけれどすぐに暗くなってしまう。
彼がどんな顔をしているのか見たかった。
真正面から彼の顔をまともに見ることも出来ないのに、そんなことを思っていると細く長く吐き出された紫煙が窓の隙間からするりと逃げていく。
「さて」
そう切り出したのは彼、覚悟を決めていた私は膝の上に乗せた手をグッと握り締めて次の言葉を待った。
「遅い反抗期はいつ終わるんだ?」
「はい?」
突拍子もない彼の言葉に声が裏返った。
今、何て言った?ううん、耳は悪くないからちゃんと聞こえてた。確かに彼は「反抗期」とか口にした。
言うに事欠いて「反抗期」などと言われるなんて、ここは冷静に大人の男女らしく話を進めていくシリアスな場面に違いないのに、沸々と湧きあがる怒り。
「中学生じゃないんだぞ。いや……中学の頃の方が可愛かったか、何をするにも嫌だとかいらないとか、すぐに反抗的な態度を取るだけだったからな。ったく……ご両親まで巻き込んでお前はいつになったら大人になるんだ? 自分で稼ぐようになったんだから、金の大切を学んだかと思っていたのに、まったくお前は……」
ハア、と呆れたような溜め息で締め括られた。
私が悩んで悩んで悩んで眠れないくらい悩んで考えて出した結論、身体が引き裂かれるような辛い思いをして決断、会いたくて堪らなかったけれど会わないと決めたから我慢した日々、それを「反抗期」などという一言で片付けられた。
子供のワガママだと言わんばかりの彼の口調に、湧きあがった怒りはあっという間に臨界点を突破した。
「違う!!」
「なら、何が違うのか説明してみろ」
感情を剥き出しにして半ば叫ぶように返した言葉に、彼は表情を変えることも釣られて声を荒げることもしなかった。
長くなったタバコの灰を細い指で携帯灰皿に落として再び口元に運んでいく、少しだけ煙たそうに眉を顰める仕草をしてから、身体を少しだけこちらに向けて私をジッと見る。
「そ、それは……」
何から説明すればいいんだろう、どう言えば私の気持ちを、悩んでいたことを彼に伝えられるんだろう。
頭の中で考えても上手く考えがまとまらない。
私は思い付くまま気持ちを声に乗せることにした。
「私は高卒で頭も良くないから英語とか喋れないし、工場で働いてるからいつもこんな格好だし、着物なんて浴衣しか着たことないし、無駄遣いしてるわけじゃないのになんかお金なくて、今日の夕飯だってさんまの干物と野菜炒めで、誰に食べさせるわけでもないから料理の腕なんかちっとも上達しないし、それから……」
「すまん、お前が何を言いたいのか、少しも理解出来ないんだが」
「だ、だから……っ、私は……普通の家に生まれて、これといった取り柄もなくて、選挙権もない子供で歳だってすごく離れてて、背だって高くないし、と……隣に並んでも不釣合いで、だから……私はそばにいない方がいいかも、って」
最後は消え入るような小さな声で呟いた。
「言いたいことはそれで全部か?」
「う、うん」
もっと伝えたいことは他にあるような気がしたけれど、私は頷くことしか出来なかった。
「そんなことで、こんな回りくどいことをしたのか? 携帯の番号を変え引越しまでして、ご両親に口止めまでして、親友のはずの妹にさえ何も伝えない。連絡が取れなくなってアイツがどれほど落ち込んでいるか分かるか? どれだけ傷ついているか想像出来るか?」
わずかに怒りが滲んだ彼の声に、最後に見た彼女の泣き出しそうな笑顔が浮かんだ。
連絡を絶つと決めた時、彼女の顔が浮かばなかったと言ったら嘘になる、連絡先だけでも教えるべきとも考えたけれど、自分のことだけで精一杯の私は親友のことも見ないフリをしてしまった。
「ごめ……んなさい」
「謝るならアイツに直接謝ってやれ。来月に一度帰って来る、その時にちゃんと話をしろ」
「あ、……うん」
「それから、今お前が口にしたこと全部だけどな」
「う、うん」
「想像通りすぎて逆に驚いた。こうもお前の脳内が単純だとは思わなかった」
「私なりにちゃんと考えたの!! 社会人になれば歳の差なんて気にならなくなると思った! 胸を張って隣に立っていられるんだって思った! だけど……歳の差とかそんなことの前に、私とじゃ色んなことが釣り合わないじゃん!! そっちだってそう思ったからお見合いしたことだって私に言わなかったんでしょ!?」
本当はずっと黙っていようと思ったけれど、つい勢いで口から出てしまった。
彼は驚いたように少しだけ目を見開いたけれど、すぐにいつもの表情に戻って一つ溜め息を吐いた。
「聞いたのか?」
「…………」
「和恋。誰かに聞いたのか?」
「……うん。あの日、おつかい頼まれて家に行ったら、お義姉さんが教えてくれた。とってもお似合いだって、美男美女だって、綺麗な人だって、すごく嬉しそうだった」
「なるほどな」
納得したように小さく頷いた彼は、短くなったタバコを携帯灰皿に押し込んだ。
途切れた会話に再び沈黙が車内に広がる。
時計の音もない静かな時間、いつまで続くか分からない沈黙に1秒が1分にも1時間にも感じてしまう。
「それで……」
どのくらい経ったのか彼が再び口を開いた時に、駐車場の遠くの方で話し声が聞こえた。
彼の耳にもその声が聞こえたのか、口を噤んだ彼は声が聞こえなくなると、待っていたかのように口を開いた。
「お前は、別れることを選んだ、そういうことでいいんだな?」
「だって……それしか……」
そう言うしか出来ないじゃん。
私は射るような彼の視線から逃れるように膝の上に置いた手に視線を落として俯いた。
じわりと滲んでいく視界、涙が零れてしまわないように、弱い気持ちが溢れてしまわないように、目も口もきつくきつく結んだ。
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