ダンボールが一つ、また一つと片付いていき、部屋の中から最後の一つが消えて、ようやく生活感のある部屋になるまでに、随分と長い時間が掛かったけれど、荷物を解いて部屋を整えている間は余計なことを考えずに済んだ。

 その間、彼から連絡はなかった。なかったというのは正しくない、引越しただけではなく携帯の番号も変えたのだから。
 不審がる両親を納得させるにはかなり苦労したし、変わった番号も住所も誰にも教えないで欲しいというと、ますます両親の不安を煽ってしまったらしく、引越し直後は毎日のように電話が掛かってきた。

 連日の電話攻撃も部屋が片付くのと同じように収束していき、久々に静かな夜を迎えたのはいいけれど、テレビを見ても雑誌を読んでも頭に浮かぶのは彼のは顔ばかりだった。

 今頃、何をしているんだろう。
 午後八時過ぎ、きっとまだ仕事をしている。あの電話からしばらく経ったけれど、忙しいと言っていた仕事は落ち着いたんだろうか、もしそうだとしたら連絡をして来てくれたんだろうか。
 彼は繋がらなくなった携帯をどう思っただろうか。

 番号は変えても携帯に残っている彼の番号を画面に出して、どうしても番号を削除出来ない未練がましい自分に呆れてしまう。
 自分から姿を消すようなことをしているのに、声が聞きたくてたまらないし彼が私を探してくれていたら嬉しいと考えてしまう。

「私って最低……かも」

 かもじゃなくて、最低なんだよ。と心の中で自分に突っ込んだところで、気持ちが晴れるわけでも、未練が断ち切れるわけでもない。
 ただただ寂しさばかりが募っていく、寂しさに負けて発信ボタンを押してしまいそうになる指を堪えている途中で、自然と画面が暗くなって何だかホッとする。

「寝よう。うん、そうしよう。明日も仕事だし、今は仕事に打ち込む! うん、それがいい!!」

 暗い気持ちを吹っ切るように、わざと大きな声を出して言ってから、部屋を暗くして布団の中に潜り込んだ。
 モヤモヤしているから眠れないだろうと思っていたのに、暗闇で目を閉じれば荷解きの疲れのせいか、答えの出ないことを悩む前に意識を手放していた。



「おつかれー」
「おつかれさまー」

 同僚たちと笑顔で挨拶を交わして、一日中建物の中にいた開放感から外に出るとグーンと大きく伸びをした。

 外は夕陽を水平線の向こうへ送った後らしく薄闇が広がっている。ついこの間までこの時間になってもギラギラとした熱を放つ太陽を憎らしく思っていたのに、季節が過ぎていくのはあっという間だと一番星が瞬き始めた空を眺めて思う。

 季節は過ぎた。
 新しい住まいやご近所の雰囲気に慣れ、生まれ育った場所のように慣れ親しんで、同じアパートの世話焼きオバちゃんが第二の母となってしまったくらい、季節は過ぎたはずなのに、気持ちは越して来た頃と変わらない。

「いやいや……それはちょっと言いすぎ」

 何かのヒロインになったつもりの心の中の自分に思わず突っ込んでしまう。
 世話焼きオバちゃんは世話焼きオバちゃんなわけで、懇意にしてもらうまでに時間は掛からないし、他県へ引っ越したわけでもなく隣町なのだから慣れ親しむもない。

 環境を変えて再出発と思っていたのに、気持ちの中が変わらなければ何も変わらないということを痛感中だ。
 彼の前から姿を消すという幼稚な作戦は成功していると思う、断言出来ないのはもしかしたら彼の仕事が今も忙しく姿を消したことに気付いていない、というお粗末な結末が待っているような気がしてならないから。
 ただ作戦が成功しているとしても、未だに携帯の中にある彼の番号を消せずにいるという現実が、そもそも作戦の意味がないということに気が付かないフリをしている。

 結局、私は今も彼のことばかり考えていた。

「ほんと、なーんにも変わらないんだもんな」
「何が変わらないって?」

 同僚たちと別れて駐輪場へ向かう途中、一人暮らしを始めてから多くなった独り言をポツリと漏らすと、後ろから元気な声が飛んで来た。

「あ、お疲れさまでーす」
「おう、お疲れぃ!」

 いつでも元気な同じ職場の先輩社員が、片手を上げながら近付いて来る。
 年が二つしか変わらないせいか、母親ほど年の離れた大先輩たちよりは話しやすく、先輩の気さくな性格もあって最近は一緒に食事をするようにもなった。

「今日、飯行かね?」
「あー、今日はパスで。すみません」
「んだよ、付き合い悪ぃぞー」
「奢りなら喜んで付き合いますよー」
「はぁ!? 割り勘に決まってんだろ。車のローンがいくら残ってると思ってんだ」
「じゃあ、四日後以降ならいつでも、ってことで」

 給料日前だということを暗に告げると先輩は納得したように笑って、右手にぶら下げていた鍵を顔の横でチャリンと振った。

「送ってやろうか」
「いや……私、自転車あるし」
「んだよー、そんなこと言うなよー」
「先輩、アレですよね。車に誰か乗せたいだけですよね」

 乗せたいだけとはやんわり言った方で、買ったばかりの愛車を自慢したいだけで、先輩の誘いに何の意図もないことは周知の事実、変な勘繰りをする必要は1ミリもない。
 中古で買ったらしい赤いスポーツカー、センターラインのない田舎道をエンジン音を響かせて走る様は、カッコいいというよりも一昔前のちょっとヤンチャな人のようで、正直あの車の助手席に乗ることは遠慮したい。

 嬉しそうに鍵をチャリチャリさせている先輩の向こうには、愛車というだけのことはあってピカピカに磨かれた赤い車が見える。
 赤い車を見ながら脳裏に浮かぶのは彼の青い車。
 アクセルを踏むたびに大音量のカーステレオが聞こえなくなる先輩の車、会話を邪魔しない程度に流れる音楽を邪魔しない静かな彼の車、乗った瞬間に窓を開けたくなるむせ返るほどの芳香剤とお世辞にも上手とは言えない先輩のブレーキング、彼の運転は車の色と同じで一言で言うと綺麗、走り出す時も止まる時も曲がる時も、まるで魔法をかけたみたいにスッと動く。

「じゃあ、また今度なー」
「あ、はい! お疲れさまですっ」

 特にガッカリした様子もなく背を向けた先輩に慌てて頭を下げる。

 頭も心も彼のことでいっぱいになっていることを、ことあるごとに突きつけられるたびに起こる何とも言えない感情に、すぐに頭を上げることは出来ずそのまま額をサドルに乗せて深いため息を吐いた。


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