長く続いた雨が上がって久しぶりの太陽が顔を出し、なだらかな斜面を埋める葡萄畑をキラキラと照らしている。
 眩しさに目を細めて風で揺れる葉が奏でる音と色彩を眺めていた視線を上に上げると、作業小屋の赤い屋根の上にある風見鶏がカタカタと音を立てていて、まるで久々の晴れ間を喜んでいるように見えた。

「和恋ー? 早く行こうよー。みんな待ってるってー」
「はーい」

 声がした方を振り返ると幼なじみが風に揺れる長い髪を押さえ、葡萄畑の下に見える二階建ての豪奢な洋館を指差している。

「競争だからねっ!」

 小さい頃と変わらない声と笑顔で彼女は「ヨーイ、ドン」と掛け声を発するより早く、一目散に畑と畑の間にあるでこぼことした舗装されていない道を駆け下りて行く。

「もうっ! ずるーい!!」

 私よりも身軽に駆け下りて行く後ろ姿、風になびく亜麻色の長い髪、足元で揺れる雑草や土の香り、記憶の中にある光景と何一つ変わらない。
 もうこうやって彼女の後ろ姿を追いかけることはないかもしれない。
 昔は漠然と考えていたことがいよいよ現実になった今、必死に追いかけても追いつかない彼女の後ろ姿が滲んで見えなくなった。

「和ー恋ー? 早くー! お肉なくなっちゃうよー」

 半分以上も駆け下りてしまった彼女が振り返った。
 ぼやけた視界でも脳裏にはえくぼを作って笑う彼女の顔を思い浮かべられる。
 小さな頃は朝から晩まで葡萄畑を駆け回り、時には畑を越えて山の中に入って迷子になってしまったこともある、おてんばという言葉がピッタリの彼女だけれど、育ちの良さを折に触れ感じることがあった。

 見渡す限りの景色が彼女の家の持ち物と言っても過言ではない。代々この土地を治める地主であり広大な葡萄園がある通り有名なワイン農家でもある。
 ここで作られるワインは都会のデパートに並ぶだけでなく、多くの愛好家たちが直接買いに来るほどらしい。


「やっと来たね」

 麓で待っていた彼女と一緒に屋敷の前の庭へ行くと、肉の焼ける香ばしい香りとよく知った顔たちが出迎えてくれた。

 大型のバーベキューグリルの上には串に刺さった肉や野菜が並び、その前でトング片手に立っている彼女の父親が陽に焼けた顔に陽気な笑顔を浮かべている。

「ほらほら、主役がいなくちゃ始まらないでしょ」
「もう、お母さん。ちょっと待ってよー」

 隣にいた彼女は母親に腕を引かれ引き摺られるまま輪の中心に連れて行かれる様子を苦笑しながら見送って、内輪のパーティにしては賑やかな顔ぶれへと視線を巡らせる。

 お目当ての姿をすぐには見つけられず、少し残念に思っていると注意を引くために鳴らされた金属音にざわめきが静まっていく。

「今日は皆様お集まり頂きありがとうございます」

 よく通る声で挨拶を始めた彼女の父親の横、その横にはさっきまでのおてんばさは微塵も感じさせない彼女と、終始にこやかな笑みを浮かべる母親の姿があった。

 長くも短くもない父親の挨拶のあと、両親に背を押されるように一歩前に出た彼女はニコリと微笑み、自分を見つめるすべての人に視線を向けるようにぐるりと辺りを見渡した。

「今日は私の壮行会という名の我が家恒例のバーベキューにお集まり頂きありがとうございます」

 ペコリと頭を下げる彼女の姿に周りからは温かな笑いが零れる。
 私たちはこの春に高校を卒業した。
 私は進学はせずに隣町にある工場に就職した、大学へ行く理由も見つけられずなりたい夢もない、そんな理由から進学を熱心に勧めてきた両親の気持ちを無下にして、ほぼ相談もせずに一人暮らしと就職を決めてしまった。

 自分の選んだ道が良かったのか悪かったのか分からないけれど、少なくともこの数ヶ月間の社会人生活は順調で、最初は緊張して気疲ればかりの職場も今では嘘のように慣れてしまっている。
 社会人としてのスタートは上々なはずなのに、これからアメリカへ留学するという彼女の姿は目が眩みそうなほどキラキラと眩い。

 コミカルな表情と下品になりすぎない冗談を交えながら、集まってくれた人への感謝と親元を離れる寂しさ、それから両親への気遣いを忘れない彼女の挨拶に胸の奥がチリッと痛む。

 今、感じているのは羨望とも嫉妬ともいえる。

 子供の頃には感じなかった差は、年を重ねるごとに顕著になっていった、それは何も家柄だけではなく、容姿や勉強でも目に見えて分かる差がついた。
 救いだったのは彼女の大らかな性格に助けられて卑屈にならなかったこと、お互いに胸を張って親友だと呼び合える仲はきっとこの先も変わらない。

「皆さん、グラスは行き渡りましたかー?」

 一際大きくなった声にハッと顔を上げると、いつの間にか周りは手にワイングラスを持っている。

「はい、和恋ちゃんはジュースね」

 目の前にグラスを差し出されたグラスを受け取って顔を上げると、彼女の一番上のお兄さんのお嫁さんだった。
 もうすぐ2歳になる次男を抱いて横には5歳になったばかりの長男、そしてふっくらとした腹部には待望の女の子。
 生まれる姪の顔を見られないことをひどく残念がっていた彼女が、生まれた毎日写真を送って欲しいとお兄さんにお願いしているらしい。

「寂しくなっちゃうね」
「……はい、そうですね」

 乾杯!と高らかな声のあと、あちこちでグラスを合わせる音がして、私もお姉さんとグラスを合わせた。


 本日の主役の彼女はさすがに忙しそうで、昔から娘のように可愛がって来た農園の従業員に囲まれたかと思えば、近所のおじさんやおばさんたちに捕まっている。

 三日後には出発してしまう彼女ともっと話をしたいと思うけれど、ここに集まっている人たちは皆同じ気持ちらしく、私は彼女の元へ行くことを断念して両親のそばで食べることに徹することにした。

 皮がパリッと焼けたウインナーに上顎を火傷しそうになりながら頬張りながら、側で交わされる私の彼女の両親の話に耳を傾けた。

「寂しくなるわねぇ」
「和恋ちゃんも一人暮らしして、寂しいでしょ?」
「家は車で30分の距離だもの。平気よ平気」

 車で30分は近いようで遠い。30分も走れば風景はがらりと変わり、緑に囲まれたこの景色が近付いて来ると、帰って来たという気持ちが大きくなった。

「そういえば、今日は……君は?」

 耳に飛び込んで来た名前に鼓動が跳ねた。

「何だか、どうしても外せない仕事があるとかで。こんな日くらい都合付けられないのって言ったんだけど、あの子は変なところで頑なで困っちゃうわ」
「お兄ちゃんはお父さんの跡を継いでくれるし、……君は一流商社にお勤めで、……ちゃんはアメリカ留学。頼もしいじゃないの」

 それに比べて……と続かないことにホッと胸を撫で下ろして、皿の上の野菜の串に視線を落としてからそっと息を吐く。

 一流商社に勤める彼女の二番目のお兄さんは、一番上の見た目からしておっとりとしたお兄さんとは違い、冷たく近寄りがたい雰囲気で切れ長の目を覆う眼鏡のせいか生真面目そうに見える。
 見えるというだけで見た目とは裏腹に面倒見の良いお兄さん、ただ見た目を裏切らず怒らせると怖く、小さい頃は彼女と私で宿題を見てもらいながら何度怒られたか分からない。

 親友の優しいお兄さん、遠くも近くもない関係から一歩進んだのは、半年ほど前のこと。
 きっかけはよくありがちなことで、恋の悩みを聞いてもらっているうちに恋愛の対象になってしまっていた。

 親友のお兄さんを好きになるなんて彼女を裏切っているようで、何度も諦めようとしたけれど動き始めてしまった恋心を止めることは出来ず、彼女に打ち明けることでこの気持ちを諌めようと決めた矢先、お兄さんの方からカマを掛けられる流れで告白をしてしまった。

 晴れて恋人同士になった時には彼女の留学はすでに決まっていて、彼女と離れ離れになってしまう前に打ち明けなくちゃと思いながら、結局言うことは出来ず今日まで来た。

 隠し事をしているという後ろめたさはあるけれど、正直に話してしまうことで彼女との関係に亀裂が入るのも怖い、そのことについて彼は一定の理解を示して打ち明けるのは私のタイミングで良いと言ってくれている。

 早く言いたい、でも言いたくない。
 親しい人たちに囲まれて朗らかに笑う彼女の顔を曇らせたくない。
 いつまでも仲の良い姉妹のような親友でいたい。
 それでも……叶うことなら親友の彼女に祝福されたい、お兄さんの彼女が私で良かったと思って欲しい、自分勝手な欲は止まることを知らない。

「それはそうと……君もそろそろいい年でしょ? 結婚とか話はないの?」
「あの子は昔からそういうことは一切言わなくて、相手がいるのかいないのか聞いてもはぐらかすばかりなのよ」

 母親同士の会話に鼓動が早くなる。
 困ったわとため息を吐く彼女の母親に、思わず心の中で「ごめんなさい」と謝った。
 はぐらかしているのはきっと私のせい、私がいつまでも彼女に打ち明けられないからで、両親からの追求をかわす彼の姿を思い浮かべて申し訳なく思う。

「でも、きちんとした相手がいれば紹介しているはずよ。きっと今は相手がいないんじゃない?」

 親しい間柄とはいえ母親の突っ込んだ物言い、お喋りな母親に苛立ちつつも「きちんとした相手」という言葉にひどく動揺してしまう。

 有名なワイン農園の次男に釣り合う相手、という意味なのは聞くまでもない。
 一番上のお兄さんのお嫁さんはそういう意味では申し分のない家柄、お見合いではなく学生時代からの付き合いの二人は、誰からも反対されることなく祝福されて結婚した。

 自分は……と考えて、それ以上は考えることを心が拒んだ。
 考えるまでもない、親友に打ち明けられないだけでなく、この関係は誰に打ち明けたところで祝福されるはずがない。

「そうだといいわ。実はね……あの子にお見合いの話があるのよ」
「まあ!?」

 母親が大袈裟に驚くのと同じくらい驚いた私は思わず顔を上げて顔を寄せて声を潜めた二人に視線を向けた。
 周りには聞こえないようにとヒソヒソと言葉を交わすけれど、辛うじて聞こえてくる会話に一言一句聞き漏らさないように耳を傾ける。

「……銀行の支店長のお嬢さん、あの子の2つ下で今はデパートにお勤めらしいんだけど、何年か外国で暮らしていたことがあるらしくて英語が堪能なんですって。あの子がいずれ海外に転勤になっても、そういう方なら心配することないし、願ってもないお話だって主人と喜んでいるのよ」
「まあ、良いお話じゃない」
「そう思う? あの子に話す前にお受けして良いものか悩んでいたんだけれど……どうも向こうのお嬢さんの方はあの子のことを知っているらしく乗り気らしいの」
「言うことないじゃない! 決めるのは当人同士だけれど、お相手が乗り気ってことは……君もその気になるかもしれないじゃない」

 これ以上は聞いていられず近くにあったテーブルに皿を置くと、誰に見咎められることもなくそっとこの場を離れた。


つづく

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