第三音楽室のひみつ
秀徳高校の音楽室は、なかなか知られていないが全部で三つある。
主に授業で使われるのは一番大きな部屋の第一音楽室と防音設備の整っている第二音楽室で、残る第三音楽室は・・・実際のところ、音楽室とは名ばかりの“物置”であった。
置いてあるのは古びたピアノが一台と、埃のかぶった譜面台が何台か。あとは吹奏楽部の準備室に入りきらなかったのだろう、これも年季の入った木管楽器やいくつかの小楽器。それだけだ。
日常においてほぼ使われることのないその部屋は、ある意味秀徳高校唯一のデッドスペースと言っても過言ではない。この第三音楽室に“学校の七不思議”の噂がないのが逆に不思議なほどである。
そんな第三音楽室のカーテンと窓をそろそろと開け、眞城セツナは流れ込んで来た初夏の風に思わず頬を緩めた。
(すっかり、あったかくなったなぁ)
心の中で呟いて、指先を揉みほぐしながら窓際から少し離れた位置に佇むピアノの椅子に腰掛ける。
今日は何を弾こうか。
初夏に合わせて子犬のワルツ?
それともロマンチックに乙女の祈り?
あぁ、そうだ・・・愛の夢。
第三番はリストの名曲だ。これにしよう。甘く蕩けるメロディが耳の奥で流れて、セツナはすぅっと息を吸い込んだ。
静かに差し伸べた手を受け入れてくれる白い鍵盤。
最初はゆっくりと、少しずつ早くなって。流れてだしたピアノの音は爽やかな風に乗って校舎に溶けていった。
ピピーッ!!
「よぉし、30分休憩だ!各自水分補給とストレッチしっかりやっておけよー」
待ちに待っていたホイッスルと大坪主将の声に、俺は内心ガッツポーズをした。季節はまだ初夏とは言え、日中の日差しの強さは夏本番と大差ない。体育館に立ち込める熱気とが相まって、少し長く動くだけで体の内側から吹き出るような汗が出る。
幸いなのは、風が幾分か冷たいことくらいか。
マネージャーからドリンクとタオル、あとコールドスプレーを受け取っていそいそと外の空気を吸いに体育館の裏に回った。
いつもは緑間と少し談笑
(談笑?あれは高尾が一方的に話しかけてくるだけなのだよby緑間)してから行くのだが、今日緑間は監督に呼び出されているのでいない。
いつもよりホンの少しだけ早く、体育館を後にできた。
俺、高尾和成には、最近見つけたお気に入りの場所がある。
そこは体育館の裏手にある、人の少ない音楽室・・・の、窓の下だ。ちょうどいい具合に大木が日陰を作ってくれているし、校舎の壁が爽やかな風を遮ることもない。
そよそよと優しく吹く風が汗ばんだ肌を滑っていくのが気持ちいい。
でもそれより一番、心地良い理由は。
「お、やっぱり今日も弾いてる」
窓に近づくにつれて聞こえてくるのは、なめらかに流れるピアノの音色だ。
知らない曲だが、妙に耳に心地よくて思わず頬が緩む。校舎は少し高床になっていて、ただ窓の外に立っただけでは音楽室の様子は伺えない。一度どうしても気になって木に登って中を見てみたら、ピアノを弾いているのは一人の女生徒だった。
窓側に背を向けていたので顔はわからなかったが、まっすぐ、腰まで伸びている紺色の髪が印象的な女の子。一年生だ。つまり同い年。
名前も実は知っている。この学年であんなに綺麗な紺色の髪をしているのは、彼女だけだから。
眞城セツナちゃん。隣のクラスの、園芸委員。
彼女は放課後、いつもこの第三音楽室でピアノを弾いている。
それに気づいたのは本当に偶然だった。入学して一週間も経たないうちだったと思う。練習につまづいて、どうにも気が滅入ってしまったとき。体育館を抜け出しふらふらと歩いたら、ここにたどり着いた。
とにかく疲れて何も考えたくなくて、倒れこむように木の根元に座り込んだ。
そんなの時聞こえてきたのが、彼女のピアノだった。
曲名は知らない。ゆっくりとした曲だったと思う。
音楽室の窓の外に座り込んで、綺麗な綺麗なピアノの音を聞いた。
彼女の音色は溶ける。溶けて、体に染み込んでくる。しばらくそうして彼女のピアノの音を聞いていると、不思議とぽろりと涙が出た。
これは高尾和成一生の不覚だったけど、高校に入って初めて声を押し殺して泣いた。
いくら練習しても、天才には−・・・キセキには、届かない。
生まれた世界がそもそも違うのだと痛感したあの日、悔しくて自己を見失ったあの日。
見も知らぬ彼女のピアノに、大丈夫だよと、言われた気がしたのだ。
その次の日、俺はとある覚悟をした。緑間真太郎に、俺のバスケを認めさせてやる。あいつ以上に練習してやる。キセキがなんだよ、俺だって、やってやる。
いろいろなものが吹っ切れた。
そう言えば緑間を「真ちゃん」と呼ぶようになったのは、その時からだった。
曲が切り替わる。落ち着いた雰囲気の曲から、弾むようなテンポの早い曲へ。
相変わらず曲名は知らないけど、これもすごく綺麗な音だ。
音楽室の窓の外に腰掛けて、彼女の演奏を聴く。
もはやライフスタイルに組み込まれてしまった一連の行動は、俺の中でとても大きなものになっていた。
休憩時間が残り十分程度になったところで、俺は持っていたドリンクをぐびっと飲み干し、彼女に気づかれないようにその場所をあとにする。別にストーカーとか、そういうんじゃないけど。
なんとなく、彼女に気づかれないように演奏を聞くのがマイルールになっていた。
もし気づかれて、放課後に弾いてくれなくなっちゃったら嫌だし。
「今日もありがと、セツナちゃん」
曲の最後の高い音を余韻に残し、彼女の演奏は終局を迎えたようだ。
やはり溶けるように染み込んでいくピアノを背中で感じて、俺は気合十分に体育館を目指した。
彼女は俺を知らないけど、それでもいいんだ。
彼女には何も変わらずピアノを弾いていて欲しいから。
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