初対面です
マンションの階段を駆け下りた朝の勢いは今どこに。
新設校のもつ魅力の大きさを甘く見ていたらしい。その場から動けず、セツナは困り顔で立ち尽くしていた。
「ラグビー興味ない!?」
「将棋とかやったことある?」
「日本人なら野球でしょー!」
「水泳!チョーキモチイイ!!」
「う、わぁ・・・」
入学式もつつが無く終わり、今は新歓もとい部活勧誘の嵐(というより既に台風の領域だ)がセツナの行く先を塞いでいた。真っ黒な人波に思わずごくりと生唾を飲む。
誠凛高校は去年設立したばかりの真新しい学校だ。歴史は浅い代わりに真新しい校舎と設備、そして真新しい存在が持つ独特の高揚感と溢れんばかりの希望に満ちている。
高校デビューを目指し何もかもを新しくして臨むつもりの学校生活に、これ以上うってつけの場所はないと思って決めた高校だったが・・・確かに入試の倍率はそれなりに高かった。やはり、真新しいものはそれだけで人の関心を多く惹くのだろう。
緊張から早鐘を打つ心臓を抑えつつ、セツナはそっと胸に手を置いた。
(・・・な、何をためらっているのセツナ。生まれ変わるって決めたじゃない。この程度・・・うん、この程度の人ごみに怖がっているようじゃ、いつまでたっても明るくて物怖じしない性格になんてなれないんだから・・・!)
胸においた手のひらをぎゅっと握る。
目指すは男子バスケ部のブース。設立一年にして決勝リーグまで登りつめたと聞くそこは、おそらく誠凛の中で一番厳しいはずだ。中学までのセツナならまず有り得ない選択肢であった運動部に入れるかどうかが、今のセツナの命運を分けていると言っても過言ではない。
生まれ持ったこの性格を変えるには、それくらいのことをしないとダメだ。
相変わらず騒がしい眼前を見据え、もう一度ごくりと生唾を飲み込んだ。
(怖い。こわい、けど)
よし、と覚悟を決めて、わぁわぁとごった返す荒波に一歩踏み出した。
「す、すみま、せん・・・っ!通してくださ、っきゃあ!!」
だがしかし、いくら覚悟を決めたところで、活きのいい新入生を獲得しようと奮闘する上級生の熱気と新たな生活に胸躍らせている一年生の勢いに勝てる訳もなく。
案の定いくらも進まないうちに無数に舞っていたチラシを踏み、足を取られて派手に転んでしまった。ざりっと嫌な音がして膝に鋭い痛みが走る。瞬間的にぎゅっと眉根を寄せて耐えるが、それよりも衝撃で放り出してしまったスクールバックの中身がばさーっと路上に散乱してしまったのを見て背筋が凍った。
「すみっ、すみません!!!」
慌てて散らばってしまった筆記用具やノートやケータイを拾って人ごみから撤退する。ひょこひょこと右足をかばい歩きながら確認するが、幸いにも壊れたり汚れてしまったりしたものはなさそうだ。ほっとしたら「何やってんのあの子」と声が聞こえ、今更だがカッと顔に血が集まってとても恥ずかしくなった。
高校一年生にもなって本気で転ぶだなんて、注意散漫もいいところだ。幸先悪くてめげそうである。
じわりと涙が浮かんだ。膝も痛いが、それより胸中を支配する焦燥感と恐怖感に押しつぶされてしまいそうで。
ふー、と息を吐いて落ち着こうと試みるが、なかなかうまくいかなかった。
そうして唇をかんで俯いてしまったセツナの、その背後に近づく影がひとつ。
「あの」
「ひっ!?」
「ハンカチ、落としましたよ」
急にかけられた声に肩を跳ねさせ、慌てて振り返るとそこに一人の男子生徒が立っていた。胸に付けられた造花を見るに、どうやら同じ一年生らしい。頭の中が不安でいっぱいだった為、セツナは後ろに立たれていることに全く気づかなかった。肩にスクールバックを下げ手に文庫本を持ち、無表情にこちらを見る彼の瞳は綺麗な水色で思わず見蕩れてしまったが・・・彼に見覚えはない。
知らない人だ。
また早鐘のように鳴り出した心臓をごまかすように深呼吸を繰り返して。何度か息を吸えば、少しだけ落ち着いた。
彼の手が差し出しているのは、なんだろうか。それには見覚えがある。
「あ、それ、私のハンカチ・・・」
「はい。落とされていたので。汚れてませんから」
白いタオル生地に四葉のクローバーと猫が刺繍されたそれは、間違いなく今朝のラッキーアイテムであるバニラのアロマを染み込ませたセツナのハンカチだった。
どうやら先ほど転倒した時に飛び出したハンカチを回収し損ねていたようだ。せっかくのラッキーアイテムも、忘れられては形無しである。
しかしセツナが気づかなかったそれを、彼はわざわざ拾い上げ追いかけてくれたらしい。ありがたい。彼はきっと優しい人だ。そう思ったら、張り詰めていた神経が少し緩んだ。
もしかしたら転んだ場面を見られたかもしれない可能性にまた羞恥心と緊張がこみ上げるが、ここで動揺しては彼に失礼な気もする。あえてその事実を無視して、セツナは丁寧に畳まれ直されたハンカチを受け取り深々と頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ」
セツナの下がる頭につられたのか、つい、と彼の視線が下に下がる。
彼の瞳と同じ綺麗な水色の髪がさらりと揺れた。
「・・・膝、大丈夫ですか」
「えっ、いや、その、だ、大丈夫です」
「血が出てますよ」
「みっ、水飲み場で洗うので」
「それならあっちにあったので、案内します」
「おおおおおおお構いなく」
会話が続くに連れ、一度落ち着いた心臓がまたばくばくと煩くなりはじめた。
こんなに長く、男の子と会話をするのは初めてだ。小中とエスカレーター式の女子校に通っていたセツナは、生来の大人しい気質も相まってあまり異性と関わりを持てなかった。要は、初・男子と二人で会話。
どうしよう、と不安が募る。
それにやっぱりあの転倒を見られていた。全身が沸騰する、というのはこういうことかと泣きそうだ。
「小さくても、傷は傷です」
「は、い」
「ちゃんと手当した方がいいですよ」
「そう、です、ね・・・」
どもるセツナに対し、彼は落ち着き払っていた。
その余裕を分けて欲しいと思う。極度の緊張と混乱で頭の中が真っ白になりかけていたセツナは、視界にふいと入り込んだ手のひらを認識するのに少し時間がかかった。
「・・・え、握手ですか?」
「違います。水飲み場、行きましょう。ボクと一緒に行けば、さっきみたいに人波に飲まれることもないと思います」
無表情のまま、何も持たずに差し出された手のひらのその意味を、噛み砕いて。
理解して、目眩がした。
彼は。彼は、初対面のセツナに、手を繋いで水飲み場まで行こうと言ったのだ!
僅かに続いていた思考が完全に停止して、セツナは口をぽかんと開けたまま硬直した。
初めてだ。こんなの初めてだ。どうしたらいいの。
かちんこちんに固まってしまったセツナの答えを、彼は辛抱強く待っていた。
いや、無表情に変化はなく本当にセツナを待っているのかどうか、実際のところ確かではないのだが・・・
しばらく無言の時間が流れる。
こんな時、以前のセツナはどうしていただろうか。まず間違いなく、何かしたら理由を付けて逃げていた。初対面の人と一緒に歩く、ましてや手を繋ぐなんて有り得ない。
そんな、そんな順応力の高いこと。
でも、ふと。
これはもしかしたらチャンスなのではないだろうか?
セツナは地味で社交性の欠片もない自分を変えたくて誠凛に来たのだ。なら、以前と同じ反応をしてはいけないのは明白である。
ここで一緒に水飲み場に行けば少しは変われるのではないか?
本日三度目の生唾を飲む。
声が震えないように喉に力を入れて、相変わらず無表情で、でも差し出した手はそのままに待ってくれている水色の彼に向き合った。
「で、は・・・その、よろしくお願いします・・・」
「はい」
男の子にしては色白に見える彼の手にそっと手を伸ば・・・す、のは、流石にコミュニケーションレベル1のセツナには難易度が高すぎた。代わりに90度頭を下げる。
彼は何かを感じ取ってくれたらしく、小首をかしげつつもくるりと踵を返し。
ついてこい、ということなのだろうか。セツナを気遣ってかゆっくりとしたペースで歩いてくれる彼の後をひょこひょこと歩きながら、水色の彼に心の中で何度も感謝した。
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