媚薬 10
「おっ! 如何なさいました?! 美凰様!」

 朱衡は慌てて立ち上がり、美凰の傍へ来た。

「…。なんですか、わたくし…、少し気分が…」

 美凰はぐったりとなって、朱衡の腕に寄りかかった。

「お気を確かに! 美凰様! 桃箒っ、急いで瘍医を呼んで来てください!」

 桃箒はがたがた震え、顔面蒼白になって頸を振った。
 朱衡は普段の怜悧さからは考えられないくらい焦った様子で、桃箒を怒鳴った。

「何をしているっ! 早く瘍医を呼んで来なさいっ!」
「ちっ、違うの…、朱衡様! ごっ、ごめんなさいっ!」

〔うわーんっ! どうしようっ! ひっ、姫様に…、姫様に飲まれちゃった!〕

 混乱してどうしていいか解らなくなった桃箒は双眸を潤ませ、泣きながらその場を走り去った。





 ぐったりとなったままの美凰は朱衡に抱え上げられ、執務室に運び込まれた。

「桃箒は一体どうしたのだ! とにかく瘍医を…」

 美凰の玉体をそっと長椅子に横たわらせると、朱衡は侍官に声をかけようと立ち上がった。
 その時…。

「…朱衡…、さま」

 苦しげな声で呼ばれたので朱衡が美凰の傍に慌てて戻ると、美しい双眸がとろんとした様子で朱衡をじっと見上げている。
 そして白い繊手が朱衡の腕に伸びてきた。

「…、美凰様?」

 濃い紫色に翳った双眸に見つめられ、初めて見る美凰の艶めいた媚態に朱衡はどきりとした。





 帰城した尚隆に伴われた桓タイは、おどおどとその後ろから付き従っていた。

「北宮では女どもが姦しいだろうから、とにかく俺の部屋で待っていろ。后妃を呼んで支度を整えさせてやるからな」
「はは…」

 金波宮の正寝にはいつも出入り自由だが、他国の正寝ともなれば話は別である。
 がちがちに緊張していた桓タイは抱えた団子を握りつぶしてしまうまいと、包みを持ち直した瞬間…。

「うわーん! どうしようっ!」

 前方から物凄い勢いで桃色の物体が飛んできて、ものの見事に熊男にぶつかった。

「うおわっ?」
「きゃっ!」

 ひっくり転がったのは、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになった桃箒であった。

「こっ、これは大変な失礼を…、お嬢ちゃん。すまない…」
「ああ、いいいい。桓タイ、お嬢ちゃんなんて、こいつにはそんな気を使わんでいいぞ!」

 焦る桓タイに尚隆はやれやれと首を振ると、転がった桃箒の首根っこをつまみあげた。

「延王君、女の子にその扱いは…」

 桓タイの抗議は高らかな笑い声に無視された。

「こいつを『お嬢ちゃん』なんて甘く見てると酷い目に会うぞ。桃、今日はどうした? 何をべそかいとるのだ? またぞろ六太と揉めたのか? それとも他の悪戯がばれて香蘭にでも叱られたか?」
「しっ、尚隆ぅぅぅっ! ごっ、ごめんなさいっ〜! ほんとにごめんなさいっ!」

 鼻水まで垂らして泣きじゃくる桃箒に、尚隆は呆気にとられてくつくつ笑った。

「珍しいな? お前が自分から謝るなど滅多にない事だぞ。一体何をやらかしたんだ? また美凰の大切なものを壊しでもしたのか?」
「とっ、とにかく、謝ったから…、ほとぼりが醒めるまで、二郎様の所に行って来る…」

 尚隆は眉を顰めると、つまんでいた桃箒の襟首をしっかり掴み直した。

「そのうろたえた態度は尋常ではないな。よし、俺が力になってやるから理由を話せ」
「やだっ! 離してよ〜っ! 莫迦尚隆〜っ!」

 王の尊名を呼び捨てにする少女に、桓タイは吃驚していた。

〔この子は一体?!〕

「暴れるな! 上着に鼻水がつくだろうが!」

 明らかに焦っている桃箒の態度に、尚隆は上機嫌の様子でにんまりと笑った。

〔俺は、帰国したら頭痛持ちになりそうだ…〕

 熊男はそう心の中で呟いて、溜息をついた。

 延王の意地悪そうな笑いに、尚隆が本当に力になる気などなく、この子供の嫌がる事をとことんしてやろうと目論んでいるのだという事がはっきりと読み取れる。
 何度目かの頭痛のする額を桓タイは手で押さえた。





「朱衡さま…、美凰は、あなたをお慕い申し上げております…」

 美しい双眸に見つめられ、朱衡は固まってしまった。
 頭の中は真っ白になっている。

「どうぞ抱いてくださいませ。少しも早く…」

 美凰はそう云うと朱衡の胸にすがりついて、芙蓉花の様な唇を漢の唇に寄せた。

「こ、后妃様! どうぞ、お気を確かに!」
「わたくし、気は確かですわ。あなたが好きなの…」

 そう囁くと、美凰は朱衡の唇にくちづけを落とした。





 がーん…、がーん…。
 窓から覗いた室内の光景に、頭の中を鐘が鳴り続けている。
 眼の前で起こっている出来事があまりに衝撃的で、尚隆の頭の中は真っ白だった。
 愛する内(つま)が、自分の目の前で他の男を口説いている。
 相手は雁国一の堅物の上、信頼して余りある秋官長…。
 その朱衡の胸に后妃がしなだれかかり、愛の告白をしているのだ。
 しかも美凰自らが接吻を…。
 泣きじゃくっていた桃箒が力の抜けた尚隆の手からぽとりと地に落ちる。
 桓タイも何が起こったのか解らず、団子の包みを抱えたままおろおろと尚隆を見上げると口をぱくぱくさせた。

「ごめんなさい! ごめんなさい! あたしのせいなの! これのせいなの…」

 そう云うと桃箒は、懐から見覚えのある翡翠色の小さな玻璃瓶を取り出した。

「尚隆の書棚から、最初に見た相手を好きになる媚薬を…。あたしはお茶に混ぜて朱衡様に飲ませようと…。そしたら間違えて姫様が飲んじゃったんだもん! わぁ〜ん! ごめんなさいっ!」
「なんだとっ! 桃、お前っ!」

 尚隆の激怒した声に再び激しく泣きじゃくる桃箒を、桓タイが訳のわからないまま宥めすかした。





「美凰様! 后妃様!! どうぞお心をお鎮めなされませ!!!」
「朱衡さまはわたくしがお嫌いなの?」

 無理矢理接吻され、腰を抜かしてその場にへたりこんだまま立ち上がれなくなった朱衡は、いざり寄ってくる美凰から逃れようと首を振りながら後じさる。

「とんでもございませぬ! 決してそのような…」
「それなら美凰を今ここで抱いてくださいまし…、もう堪えられませぬ」

 顔面蒼白で隣に立ち尽くしていた延王尚隆の顔は、嘗て見たことのない恐ろしい怒りの表情に満ちていた。

「え、延王君…、どうか御心をお鎮めになられて?! げっ!!!」

 美凰が朱衡の愛を求めている言葉に真っ青となり、続いて接吻をせがむ姿に怒りの余り真っ赤になった尚隆は、腰に佩いている剣をすらりと抜き、桓タイが引き止める間もなく乱暴に扉を足蹴にして開け放つと執務室に姿を現した。

「朱衡っっっ!!! 貴様ぁぁぁ!!! 美凰から離れろぉぉぉ!!!」
「しゅ、主上?!」

 朱衡は、抜き身を片手に憤怒の表情でこちらに向かってくる主を見て、更に眼を白黒させた。

「あら、陛下…。わたくしはこれから朱衡さまに抱いて戴きますのよ。どうか邪魔をなさらないでくださいませ」

 尚隆が剣を抜いている姿であるのを気にも留めず、美凰は後じさりしている朱衡にしがみついた。
 がーん!!! 
 媚薬のせいとはいえ、美凰の言葉と態度に尚隆は再び衝撃を受けた。
 おそらく、この上もなく間抜けな顔をしていること間違いないだろう。
 尚隆の全身が、怒りの余りぶるぶる慄えた。

「美凰っ!!! 朱衡から離れろっ!!! こちらに参れっ!!!」
「嫌でございます!」
「うぬぅ〜!!! 赦さんぞっ!!!」

 尚隆は地団駄を踏み、床に剣を叩きつけるように突き立てると、朱衡にしがみついて離れまいとしている美凰を、無理矢理引き剥がした。

「いやぁ〜! 朱衡さまぁ〜!」

 朱衡は自らの冠が歪んでいるのも解らないくらい取り乱し、その場に平伏したまま気絶してしまった。
 騒ぎを聞きつけた官吏たちが、次々に執務室に駆けつけてくる。

「如何なさいました? 秋官長様! お気を確かに?!」

 気を失ってしまった朱衡を、官吏達は長椅子に寝かせると、慌てて瘍医が呼ばれた。

「ああんっ〜 お離しくださいませぇ〜 わたくしは朱衡さまのお傍にぃ〜」

『媚薬』が口走らせている事とはいえ、嫉妬に眼が眩み、心臓が爆発しそうだ。

「黙れっ! 黙れっ!」

 あっけにとられている官吏たちを尻目に、身もがきする后妃を荷物の様に肩の上に抱え上げると、尚隆はそのまま北宮鴛鴦殿に向かった。

「えっ、延王君! どうかお待ちを!!!」

 桓タイは右手に団子を、左脇にぐちょぐちょになってぐったりと白目を剥いている桃箒を抱え、尚隆の後を追いかけた。

_16/61
[ +Bookmark ]
PREV LIST NEXT
[ NOVEL / TOP ]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -