勅使としての雁国首都関弓は玄英宮を訪ね、務めを終えた驍宗一行は延后妃の勅命で北宮鴛鴦殿に招かれていた。
通常、後宮には王以外の男が入ることは叶わなかったのだが、后妃の勅命とあっては誰にも止めることは出来なかったし、なおかつ延王尚隆は延麒六太と共に、奏に公式訪問に出かけていて不在であった。
北宮鴛鴦殿は春爛漫であった。
今年はいつにない暖かい気候のせいか、花々が慌しく咲き乱れている。
驍宗は自国では見られない夢の様な風景に、唯々驚くばかりであった。
「これはこれは、乍将軍! 一別以来でございます」
出迎えに現れたのは見覚えのある女官、明霞であった。
「これは、明霞殿。お久しゅう存ずる」
驍宗の丁寧な一礼に明霞はうっとりとなった。
明霞は戴での滞在中から、凛々しい美男の驍宗贔屓であった。
「ようこそ、雁へ。后妃様もお待ちかねでございます。氾王陛下から書簡を頂戴されました時から、もう大変なお喜びようで…」
「突然のご訪問、どうぞお赦し戴きたく…」
「乍将軍なら、いつでも大歓迎でございますわ! ささっ、こちらへどうぞ! 美凰様におかれましては只今、氾王君に乞われて詩歌のお手ほどきの最中でいらっしゃいます」
ゆっくり歩む回廊の彼方の院子から、甘やかで麗しい声音が心地良く驍宗の耳に届いた。
相見時難別亦難 相見るときは難く別るるも亦た難し
東風無力百花残 東風 力無く 百花残(くず)る
春蚕到死糸方尽 春蚕 死に到って 糸方(まさ)に尽き
蝋炬成灰涙始乾 蝋炬(ろうきょ) 灰と成って 涙始めて乾く
李商隠『無題』
あなたに逢えることは滅多に無く、それだけに別れる時はいっそう辛い
春風は衰え、花々はすべて散ってしまった…
それでも蚕は死に到るまで糸を吐き、蝋燭は灰となるまで蝋涙を流し続ける
同じようにあなたを愛する気持ちは、命尽きるまで変わりはしない…
「躬はこの詩が気に入りましたぞえ、貴妃」
氾王は、品の良い美しい料紙に綴られた流麗な手跡に溜息をついた。
「本当に…、素敵な詩歌ですこと」
四阿に設置されたトウに寝そべって菓子を口にしながら、梨雪はうっとりと美凰を眺めやった。
「氾王君は晩唐の詩人がお好みですのね…。李商隠は俊才で名高かったお方ですけれど、官界の派閥闘争に巻き込まれて不遇の人生を歩まれましたの。その境遇のせいかご自分ではどうすることも出来ない思いや憂愁の詩が多うございますわ」
そう云いながら美凰は、次の詩歌を料紙に書き綴る。
「それではこの詩歌は如何でしょう?」
賈氏窺簾韓掾少 賈氏簾を窺って 韓掾は少(わか)く
フク妃留枕魏王才 フク妃(ふくひ)枕を留めて 魏王は才あり
春心莫共花爭發 春心 花と共に発くを争うこと莫(なか)れ
一寸相思一寸灰 一寸の相思 一寸の灰
李商隠 『無題』
昔、賈の令嬢は簾越しに韓掾を見て恋に落ちたといい
魏の甄(しん)皇后は曹植に死後のかたみに贈る枕でしか、
想いを遂げられなかった
恋心は花と競ってまで咲かせるものではない
一刻の愛の燃焼は一刻の後に灰を生む
一寸の相思はやがて、一寸の死灰となることが必定なのだから…
「でも、人を愛せば何かが己の内に残るものよ。たとえそれが一寸の灰だとしても、それはその恋の証だと思うのだけれど?」
梨雪は美貌の少女の姿に似合わぬ穿った事を口にする。
「そうじゃな。一寸の灰となろうとも、咲かせてならぬ真の恋など天地の間に在りはせぬ。それが清冽なものであればなおのこと…。躬はその様に思うのじゃがのう」
氾王の視線は、回廊に佇む男に向かっていた。
美凰は氾王の言葉に微かに肯いていたが、不意に感じた強い視線に繊頸を廻らせると、美しい青菫の双眸を見開いた。
「まあ! 乍将軍!」
「ご無沙汰致しております…、延后妃」
驍宗は四阿の前まで歩み寄り、美凰の前で膝をついてひれ伏した。
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