春城飛花 3
 その日の更夜、玲秋の部屋を訪なう男の姿があった…。
 本来、女官は一部屋を二人で使用するのだが冢宰邸では一人に一部屋という待遇を与えられていたので、他人に気兼ねすることなく個人の時間を過ごす事が出来たのである。

「玲秋…、玲秋!」

 寝支度を整えていた玲秋が周囲の様子に気を配りながらそっと扉を開けると、外に立っていたのは彼女の元夫、鄭沢東であった。

「あなた…」
「玲秋! 逢いたかった…」

 しかし玲秋は、鄭沢東が伸ばしてきた腕から逃れる様に身を捩ると苦悩に満ちた表情で云った。

「あなた…。暫くいらっしゃらないで戴きたいの」
「なんだって?!」

 玲秋の言葉に、鄭沢東は信じられないといった様子で声を上げた。

「ここは恐れ多くも冢宰様のお邸。わたしは出戻りの身ですし…」
「冢宰に何か云われたのか?」
「いいえ。でも皆様の手前…」
「……」

 哀しげに俯いた玲秋の姿に鄭沢東は苛々した様子で眉根を寄せ、唇を噛み締めた。
 楽しく遊んでいた玩具を急に取り上げられた子供の様な表情をしている夫に気づかぬ玲秋は、辛そうに言葉を続けた。

「あなた、どうか解ってくださいな。わたし…、わたしとっても酷い事を云われているのよ」
「お前はわたしの気持ちより、自分の体面の方が大事なのか?!」

 夫の怒鳴り声に、玲秋は驚いた様子で双眸を見開いた。

「そんな! そういうわけでは…」
「もういい! 解った。おまえがそういうつもりなら、もう来ない!」
「あ、あなた…」

 吐き捨てる様にそう云った鄭沢東はくるりと踵を返すと、さっさと扉に向かった。
 そして扉の前でふいに振り返られ「止めないのか?」と冷たく云われた瞬間、玲秋の心の中の何かが凍りついた。 
 そんな二人の一部始終を、美凰の臥室から抜け出してきた尚隆が物陰から窺っていた…。





 こっそり足音を忍ばせて戻ってきたにも係わらず、后妃の臥室には灯明が灯された上、尚隆が好む気心のきいた酒肴と夜食の膳が用意されていた。
 内の相変わらずの手際の良さに尚隆は瞠目し、それからくつくつと笑った。

「流石は我が女房殿! 褥の中では意地悪だの酷いだのと散々俺の事を貶していたに…」

 小卓前に腰を下ろした良人に向かい、美凰はふわりと微笑んだ。

「いやな事を仰せでいらっしゃいますのね? 折角お好きなものを整えてお待ち申し上げておりましたのに…」

 尚隆の傍に寄り添った美凰は、良人が手にした杯に酒を満たした。

「如何でございました?」

 尚隆は芳醇な酒を一口含むと、口許を軽く歪めて哂った。

「…。鄭沢東が玲秋の許を訪れていたぞ」

 良人の表情に気づかぬ美凰は、痛ましげに三日月の眉を顰めた。

「まあ…。それで?」
「まっ、色々とな…。とにかく明日、朱衡の家人という触れ込みで俺自ら丁窄峰個人の許を訪れる事にする。男の方からも事情を聞きたいからな」
「……」
「どうした?」

 美凰の愁いに満ちた表情に、杯を傾ける尚隆の手が止まった。

「なにやら…、鄭沢東どのも、随分と身勝手な様に思われまてなりませぬ」
「……」
「毎夜毎夜、仮にも一国の宰相の公邸へ忍んでお通いになられる程に玲秋さんを愛しく思っておいでなら、なにゆえ彼女の潔白を信じて、守って差し上げないのか、なにゆえ離縁などなさってしまわれたのか、と…」

 尚隆を一筋に愛し、彼の愛を一心に受けて長い年月を生きている美凰にとって、鄭沢東の行動は不可解以外の何物でもないらしい。

〔流石は我が妻…。感情に流されていようとも、本能的に見るべき処はきちんと見ている…〕

 尚隆はほっとした様に相好を崩した。

「……」
「わたくしの故郷である崑崙ならいざ知らず、この十二国では婚姻は互いの恋慕の情が総てではございませんの? いくら官吏の家柄とは申せ…」
「まあ、いま少し様子を見る事に致そう。存外、明日になれば玲秋もそなたと同じ様な言葉を口に致すかも知れぬ故な…」
「?」

 不思議そうに自分を見つめてくる美しい青菫の瞳を愛しげに見返し、尚隆は妻に向かって酌を促した。





 翌日…。
 延后妃美凰から、夕刻まで休暇を貰った李花は相変わらず食欲のない玲秋を誘い、午後は四阿で飲茶をしようと提案した。
 昨日にも増して愁いを漂わせている友人から聞かされた昨夜の顛末に、李花は溜息をつきながら話を切り出した。

「それではご主人は、怒って帰っちゃったわけ?」

 玲秋は静かに頷いた。

「『止めないのか?』て云ったあの人の顔を見た時、何て云ったらいいのかしら…。わたし…。そう、眼から鱗が落ちるってこういう事なのかって思ったの」
「……」
「庶民と違って、官吏の家では当たり前の結婚をして、夫は愛し尊敬するべきものだという慣例にわたしはただなんとなく従ってきたんだわ。自分は本当にあの人を好きなのか、考えてみようともしなかった…。でもあの時、初めて彼の本当の姿がはっきりと見えたのよ」
「玲秋…」

 手にしていた茶杯を静かに置くと玲秋はそっと立ち上がり、四阿から見渡せる池の水面に視線を注いだ。

「両親からわたしを追い出すように云われて一言も庇ってくれなかった男。わたしの無実を信じてもくれなかったくせに、離婚した後も我が物顔に振舞う権利があると思っている弱虫で自分勝手な男!」
「……」
「彼はわたしを愛してるって云うけれど、そんな愛…、わたしはいらない!」
「玲秋、落ち着いて…」

 美しい顔を覆い、零れる涙を必死で拭い続ける友人の傍に寄った李花は溜息をつきつつ玲秋の肩を抱き寄せ、懸命に慰めた。
 その様子を、しだれ柳の木陰から心配げに伺っている美凰の背後から、遠慮がちに声がかかった。

「美凰様…」
「まあ! お義母さま…」

 振り返った美凰の眼に唐媛の姿が映った。

「え? 玲秋さんに再婚話ですって?」
「然様でございます…」

 話があると促され、唐媛の居間で花茶を振舞われていた美凰は義母の言葉に美しい双眸をぱちくりと見開いた。





 美凰が唐媛から玲秋の再婚話を聞かされていた頃、尚隆は秋官長大司寇楊朱衡の使いの者としての触れ込みで丁窄峰の私邸を訪れていた。
 無論、玲秋との不義騒動の是非を確かめる為である。

〔ぎょっとする様な緑色だな…〕

 士大夫(エリート)必須の教養というご多聞に漏れず、丁窄峰は絵画を嗜んでいるらしい。
 構図は『洛神図』に見えて、なかなかの筆致だとは思うものの、この色はどうにもいただけない。
 普段から画や書には興味を示さぬ漢も、流石にこの濃い過ぎる緑色には眩暈を覚えた。

「どうもどうもお待たせいたしまして! 秋官長大司寇様のお使いでいらっしゃるとか…」

 客間に現れた丁窄峰は、朱衡の家人として私邸を訪れた尚隆に向かってぺこぺこと頭を下げた。
 王に次ぐ最高中枢権力者に媚びようと必死の様子を隠さない。
 その軽佻浮薄の様子を尻目に、尚隆は絵から眼を離さずに呟いた。

「変わった色を使うのだな?」

 侍女に上等の花茶を淹れさせながら、丁窄峰は揉み手状態で尚隆に近づいた。

「流石にお眼が高い! 実は崑崙出身の山客から仕入れている『西洋』とかいう国の絵具を使用しておりましてね」
「……」
「色々なこねを使って…。高価な上、稀少なものですので大変苦労いたしましたよ!」

 尚隆は卑屈に微笑んでいる丁窄峰を、上から見おろす。

「今日は主人の代理として、貴殿に少しばかり聞きたい事があって出向いて参った」

 秋官長の華奢な姿からは想像も出来ない逞しい偉丈夫を、丁窄峰は畏怖を持って見上げた。

〔なんだ? この威圧感は? 秋官長の使いとはいえ、たかが侍官の一人だぞ?!〕

「な、なんでしょうか?」

 尚隆は大剣を腰から外し、片手に持したままどかりと椅子に腰掛けると侍女が淹れた花茶を一口含んだ。

「単刀直入に伺おう。鄭沢東の夫人だった玲秋を知っているな?」

 その名前に、窄峰の表情がさっと青褪めた。

「え? え、ええ。み、見かけた事は、あ、ありますが…」
「ふむ。俺の聞いた話では大変親しい関係(なか)だとか?」
「……」

 尚隆は尊大に、太く長い指で卓子(テーブル)をとんとんと鳴らした。
 丁窄峰から見れば、非常に無作法な事この上ない態度である。

「玲秋は元々冢宰邸で女官として働き、離縁した今現在も冢宰邸に出戻っている。出来の良い、気心の知れた者として夫妻からも可愛がられている事から、彼女の身の上を案じたお心お優しい王后陛下が主上をお頼りなされ、主上から密命を受けた我が主人が、事が事だけに密かに某に調査せよとの命令を下されたというわけだ」

 その言葉に丁窄峰は顔面蒼白となった。

「こ、后妃様が、し、主上に?!」
「然様。后妃様と冢宰ご夫妻は親娘も同然である事は其許も存じていよう。そして主上や秋官長が、王后陛下の願い事にどれ程お弱いかもな」
「……」

 再び立ち上がった尚隆はにやりと口許を歪ませ、がたがた震えだした丁窄峰の頭上から更に脅しの言葉を呟いた。

「玲秋は非常な取り乱しようでなぁ。離縁されたのは其許のせいだから自刎して遺書に其許との密通を全て暴露して役所に訴えてやると…」
「?!」
「そうすれば、其許を不義密通で処罰させる事が出来るとな…」
「ば、莫迦な! どうかしている! わたしと彼女の間で疚しい事なんか全然…」
「良人を始め、何人もの人の居る所で玲秋の胸の事をあげつらったそうではないか! それで何もなかったで通ると思うのか!」
「あっ!」

 手にしていた大剣の鞘で尚隆が床をどんっと突いた。
 重たげな金属音の響きに驚愕した丁窄峰は、恐怖に身を竦ませた。

「どうだ? まだしらを切り通すつもりか?」

 尚隆の厳しい声音に丁窄峰はひっと喉の奥を詰まらせ、その場にがっくりと膝をついた。

「お、お許しを! ど、どうぞお許しを! ほ、ほんの自慢の…、自慢のつもりだったのでございます! お、男なら、だ、誰だって持っている、が、願望というやつで…」
「……」
「ど、どうぞお助けを! わたしは、何もしておりませぬ! ほ、本当でございます!」

 涙と鼻水に塗れながら床に這いつくばって自分を伏し拝み、許しを請う男を無言で見下した尚隆はふうっと溜息をついた。

〔やれやれ。やはりそういう事か。これだから男というものは厄介なのだ。美凰に眉を顰められそうだな…〕

 不義密通は潔白である事がはっきりとした。
 しかし、夫婦の間に入った亀裂はどうすればよいものか。
 昨日の鄭沢東と玲秋の様子を思い浮かべ、尚隆は複雑げに逞しい顎を引き締めた。

_28/61
[ +Bookmark ]
PREV LIST NEXT
[ NOVEL / TOP ]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -