春の淡雪 2
「なにこれ? キャラメル?」
「あっ、け、決して怪しいものではございません! 若さまの…、叔父上さまから…、昨日、書斎のお掃除をしている最中に頂戴しまして…」
「ディーノ叔父から?」
「は、はい。とてもお優しい…、紳士でいらっしゃいますのね? それに…、目を見張る程にお綺麗なお方です…」
「……」

 美しい頬をうっすらと染めた美凰が、他の男を褒めたことが癪に障った。
 だがその感情がなんなのか、今の雲雀にはまったく解らなかった。

「君…、ディーノ叔父みたいな男を綺麗だと思うわけ?」
「……」
「遊び人の放蕩者だよ、あの人は…」
「…、そ、そうなんですか?」
「そうだよ。君ってああいうのが好みだったんだ?」

 漠然とした喪失感の様なものが雲雀の胸裡に浮かんだ。
 些か辛辣に聞こえる雲雀の言葉に、美凰は耳朶まで真っ赤に染めて俯いた。

「そんな…。それはあのう…、叔父上さまも…、それはとてもお美しいお方とは思いますが…、わ…、わたくしは…」

 もじもじしている様子に更に苛立ちが募る。

「なんなの? 気持ち悪いね。言いかけてやめる中途半端は嫌いだよ」
「あのう…、わたくしは…、若さまの方が…、数段凛々しく、お綺麗だと…、思います…」
「……」

 急に眼前が明るく開けた様な心持ちになった自分に瞠目した雲雀は、差し出されたキャラメルを少し乱暴に手に取り、包み紙を剥くとむっとした顔をしつつ口の中に甘い菓子を放り込んだ。
 滅多に口にしない子どもの菓子は、母との対面で荒んでいた、そして唐突な美凰の言葉に対処しきれないでいる雲雀の心をほんのりと和らげてくれた。

「…、男に対して綺麗って言葉はどうかと思うけど…。まあ…、褒め言葉として有難く受け取っておくよ。けど君も気をおつけ。子どもだからって油断してたら…、あの叔父のことだ。キャラメルの代償に酷い目に遭いかねないからね」
「……」

 美凰は困った様子で俯き、寂しそうな苦笑いを口許を浮かべた。
 その微笑があまりにも儚く美しく、そして艶っぽい様子に雲雀は再び瞠目した。

〔子どもが見せる微笑じゃない…〕

 立ち上がろうとした美凰の白い繊手を、雲雀はいつの間にか我知らず掴み締めていた。

「君…」

 柔らかな、溶けてしまいそうな繊手の肌触りであった。
 一方、不意に手頸を掴まれた美凰は狼狽の面持ちで、雲雀の大きな掌からするりと手を滑らせた。

「あの、若さま…。ご気分がましになられたのでしたら…、車寄せにお出かけのことをお伝えして参りますね。早めにご出発なさった方が…、今日はお天気がとても心配ですし…」

 そう言うと、真っ赤な顔をした美凰は、雲雀の方を見ようとせずさっと立ち上がって慌しく居間を出て行った。

「……」

 美凰の全身からキャラメルと共に漂った甘い香りが、雲雀の鼻孔をいつまでも擽り続け、白魚に似たほっそり小さな五指が掌からすり抜けたことが、何故かしら彼に大きな虚脱感を与えていた。



 その日を境に、雲雀にとって美凰という娘の存在が日に日に大きく胸裡に巣食うことを、彼はとどめることが出来なかった。
 十七歳と十三歳という歳の差。
 公爵家子息と女中という身分差。
 軽侮すべき好色漢の父が、いつか手をつけるのであろうという漠然とした恐怖。
 そして、どんなに美しい女であれ、囚われたくないという恐ろしいまでの自身の潔癖症…。
 雲雀は懸命に自分に尽くす美凰を無視し、そしてまた忘れてしまおうとこっそり花街に通い始めた。
 学友達にどんなに誘われても足を向けることになかった男と女の虚偽の世界。
 だが、眼前の肉色の女達にめくるめく官能の世界を覚えさせられても、その世界を共にしたいと望む女は、質素ななりで毎日雲雀の部屋を掃除し、衣服を整え、食事の給仕をし、そして彼の為に羞かんだ様子で紅茶を淹れてくれる、将来の美貌を思わせる心優しい寡黙な娘だったのだ。

〔彼女が…、美凰が欲しい…。僕は美凰が欲しい。彼女でなくては…、総てを曝け出せない…。そしてあの羞かんだ様子なら、美凰もきっと僕の事を好きでいるに違いない…。でも、僕は僕が怖い…。あの初々しく愛らしい娘を、僕はどんな眼に遭わせようとしている? 僕は…、僕は…、彼女に恋をしている…〕

 悶々と思い悩む状態でやがて二年近くが経ち、師走の二十五日に美凰は十五歳になった…。



『よっ! お美凰ちゃん! 新年おめでたいね! 雲雀は在宅?』
『あっ! おめでとうございます、山本子爵さま…』
『ああ、武でいいよ。相変わらず掃除とか一生懸命だね。風邪はもういいの?』
『はい。お陰さまで…。あ、師走にはお見舞いのお花を…、有難うございました…』
『なぁに、庭に咲いてた花だし気にするな。とにかく元気そうで良かったよ!』
『有難うございます』
『これ…、お年玉!』
『まあ! キャラメル!』
『頑張るお美凰ちゃんにご褒美だ!』
『で、でも…、いつもいつもお心遣い戴いて…』
『遠慮するなって! キャラメル一箱でお美凰ちゃんの笑顔が見れるなんて安いもんだぞ!』
『……』
『まあ、あんま安売りするのもどうかと思うんだけどな?』
『……』

 学友の近衛士官服姿を眩しそうに見上げる美凰の、初々しい中にも艶を秘めた微笑み…。
 その様子を一部始終目撃し、そして訪ねてきた山本の『なあ雲雀。お美凰ちゃんをどこかの華族の養女にしてさ、俺の嫁に貰える様に何とかできんものかな? 獄寺か六道にでも相談してみっかなぁ〜 俺ん家、お前達みたいに御一新以前から続く名門とかじゃない成り上がりだろ。そうややこしくなくお美凰ちゃんと結婚できるんじゃねぇかなぁ〜とか思ってさ…』という言葉を聞いた瞬間、雲雀はついに決意した。
 美凰を自分のものにしてしまおう。
 あの微笑を、誰にも見せずに自分だけのものにしてしまおうと…。



「千鳥、美凰に一人部屋を与えてくれる? 出来るだけ…、いや…、僕の部屋のすぐ近く…、そうだね…、この棟の一番端にある納戸に寝起き出来るようにしてくれる? あそこは書斎から一番近いから丁度いい」
「わ、若様?! そ、それは…」

 狼狽する千鳥に雲雀はきっぱりと言い切った。

「女中部屋は遠いからね。僕の用事を言いつけるのにいちいち時間がかかるからいやなんだよ。零落したとはいえ、美凰は武家の出身だから読み書きに堪能だし手跡も綺麗だ。大学の書物を複写させるのに重宝してるから…。いいね? 頼んだよ」
「……」
「それから…、今更だけど母上に告げ口したら承知しない」
「……」

 千鳥は雲雀と春香の間に起こった事を知っている人間である。
 千鳥以外にその禁忌の行為を知るものは、雲雀の執事である草壁のみであった。

「欧羅巴を外遊なさっておられる父上はまだ一年は帰ってこない。最近の母上のお気に入りは持田侯爵の次男坊みたいだけれど…」
「恭弥様…」

 哀しそうに顔を歪めた千鳥に向かって、雲雀はにっと笑った。
 冷たい微笑だった。

「とにかく、一切の邪魔は赦さないから。いいね?」
「承知…、いたしました…」

 千鳥は諾と答えるしかなかった…。
 この二年に亘る若君の懊悩の様子を、そしていずれ時が来れば公爵の妾として一軒を持たされるのであろう自分の運命を知りつつも、心密かに凛々しい若君を恋い慕う美凰の初々しい娘ごころを知る千鳥としては、例え将来がなくともこの一瞬だけは、若い二人の淡い想いを尊重してやりたいと思ってしまったのだ。
 だが、千鳥は誤ってしまった…。
 実母に童貞を奪われた経緯から、雲雀が女に対して余りにも禁欲的な性癖である事を危ぶみつつも、まさか美凰に対して力で捻じ伏せる様な真似をするとは夢想だにしていなかったのだ。
 手を握るだけでも顔を赤らめる様な、そんな淡い恋の様子を見守ってやろうと思っていたのだからおめでたい。
 二年の間に美凰を想う心がすっかり捻れ歪んでいた雲雀は、娘らしい恋心を自分に対して抱いているとは知る由もない身勝手な若君は、美凰が一人部屋に移ったその夜、強引に彼女の身体を犯したのである。

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