雲雀の手がゆっくりゆっくり、美凰の髪を梳く。
ときどき耳に手が触れてくすぐったかったけれど、指先のあまりの心地よさに美凰はなすがままになっていた。
「…、美凰…」
なんという優しい声なのだろう。
「はい…」
答える美凰の声はまるで童女の様だ。
彼は髪を梳くのをやめた。
「僕のこと…、恨んでいるだろうね?」
雲雀は低い声で尋ねた。
これはひとときの幻だと美凰は思っていた。
だから、覚めない内に本当のことをすべて喋ってしまおうとも…。
「…、とても…」
「……」
「僕は美凰を奪われることを阻止できなかった。父上に逆らうことも、叔父上と戦うことも…。そしてどうすることも出来なかった君を恨み、僕自身が行動することはなかった…」
「……」
自分を責めないで欲しかった。
そうすればする程、今までの自分が惨めに思えてくるし、何より“後悔”などという言葉は彼には相応しくない。
「あなたさまはまだ…、名跡を継いでおいでにならないお立場でいらしたのですもの…」
「うん…」
「美馬侯爵さまがお亡くなりになられた正式なお知らせを…、まさか恭弥さまがお届けくださるなんて…。こんな風にお目にかかれることは…、二度とないと、諦めておりましたのに…」
美凰の呟きに雲雀は口を噤み、黙り込んでしまった。
この会話は一年以上前、叔父の死を知らせに美凰が住まう妾宅を訪れた時に交わしたものである。
そしてそのまま、雲雀は消え入らんばかりに自らを羞恥していた美凰を口汚く罵倒しながらその場に押し倒し、必死になって赦しを乞う彼女に暴力をふるい、思うさま陵辱したのだ。
美凰の記憶は混乱している…。
すぐさま美凰の記憶障害を看破した聡い雲雀は、防御本能をもって彼女の記憶を自身に有利なものにすげ替えようと試み始めた。
身勝手で狡猾なことをしている自覚はあっても、今この場で美凰に罵られ、拒否される事だけは耐えがたかったのだ。
「今まで…、さぞ辛かっただろうね?」
雲雀の手が、美凰の額の上に乗せられた。
骨ばった大きな掌は冷たくて、気持ち良かった。
美凰は答えずに、曖昧に微笑んだ。
「わたくしのこと…、赦してくださるの?」
「…、ああ…。不可抗力を恥じる必要は…、ないんだよ」
雲雀の手が美凰から離れた。
彼は膝の上で両拳を握り締めた。
「僕の方こそ…、本当に、すまなかった…」
美凰はゆっくりとかむりを振った。
「身体は汚れてしまいましたが…、心だけは以前と変わらず恭弥さまのものでした…」
「うん…」
「ずっとずっと…、お慕いしていたの…」
「…、解っているよ」
「こんなわたくしでも…、嫌いにならない?」
「ならないに決まってる! 君は汚れてなんかいないよ!」
「恭弥さま…」
彼は、美凰を否定しなかった。
とても不思議だった。
さぞかし罵倒され、彼の気が済むまで痛めつけられるかもしれないとさえ、思っていたのに…。
〔ああ、これはやっぱり夢なんだわ…〕
だからこそ、美凰の望み通りの答えを彼は呉れているだけなのだろう。
今なら何を言っても彼は頷いてくれるのかもしれない。
何をしても許してくれるのかもしれない。
すべては夢だという結論の下、そんな甘えた考えが美凰の頭を過った。
美凰は雲雀の方へ手を伸ばかけ、手頸に包帯が巻かれていることに吃驚したのか、漸く感じ始めた激しい痛みに美しい顔を顰めた。
「駄目だよ! 無茶しないで!」
「わたくし…、怪我をしましたの?」
雲雀は目許を鋭く眇めつつ、美凰の手頸をそっと撫でながら囁いた。
「君は…、僕の為に貞操を守ろうとして自殺を図ったんだ」
「……」
解らないという風に頸をかしげて乾いた唇をわななかせた美凰を、雲雀はじっと見つめた。
「僕をとても愛しているから…、必死だったんだね…」
「で、でも…、どうして、そ、そんなことに?」
雲雀は美凰の記憶を取り戻させまいと、必死になって言い訳を口にした。
「詳しい事は君が元気になったら話してあげるよ。それに…、怪我が酷かったから君は随分と混乱しているんだけど…、叔父上が亡くなって一年が経つ。君と僕はこの春に結婚したんだよ。君は僕の大切な妻になったんだ」
その言葉に驚愕した美凰は、双眸を見開いて雲雀を見つめた。
「嘘…、そ、そんなこと…、嘘です…」
「嘘じゃないよ。君は僕の妻だ」
「……」
静かな部屋に、衣擦れの音が響いた。
あまり自由のきかない美凰の身体をそっと抱き起こした雲雀は、壊れ物を扱うかの様に優しく彼女を抱きしめた。
「き、恭弥さま?」
「しぃ…。黙って…」
「……」
夢の中なのに、彼の匂いをはっきりと感じることが出来るのは、なぜなのだろう。
雲雀の背広の肩口に、美凰は黙って頬を預ける。
彼の身体はしなやかで、それでいてとても硬かった。
やがて、そっと身を起こした美凰は、不思議そうな顔をして雲雀を見つめた。
そんな美凰の唇に、雲雀は触れるだけのくちづけをした。
「…、好きだよ…」
「恭弥さま…」
渇いて干からびてしまいそうな、もう本当にこれ以外は自分の中にはなにも残っていない様な、心底からの気持ちを吐露した雲雀は、美凰の顔を直視するのに耐えず思わず俯いてしまった。
〔記憶を取り戻さないで…。お願いだからこのままでいて…。僕は…、君とやり直したいんだ…。君と、そしてお腹の中の子どもと三人で…、幸せになりたい…、君を幸せにしたいんだ…。だから…〕
「ああ…、嬉しい…。恭弥さま…」
「美凰…」
「そのお言葉…、夢では…、ありませんのね?」
見開かれた美しい双眸から滂沱の涙が零れ落ちる。
その涙は哀しみのそれでなく、深い喜びに満ちていて、それは美しいものだった…。
その姿に、雲雀の心はきりきりと痛んだ。
〔ああ…、彼女を取り戻したいが為に大罪を犯したというのに…、僕はどうしてつまらない復讐心に駆られてしまったのだろう。最初の最初から…、この道を選び取る事だってできた筈なのに…。つまらない矜持から…、僕はなんという愚かな間違いをしでかしてしまったのか…〕
「ああ…、夢ならどうぞ…、覚めないで…。信じられない…。裏切り者のわたくしを赦してくださった上、わたくしを…、わたくしを妻に娶ってくださったのですね…。嬉しい…」
雲雀の強い腕が、ぐったりしている美凰の身体を支えた。
「…、夢じゃないよ。ちゃんとした現実だ。手頸に痛みを感じるだろ? 夢ならこんなに痛いかい?」
「恭弥さま…」
その腕の確かな温かさに、美凰は思わず動かせる腕を雲雀の背に廻し、彼がもうどこへも行ってしまわない様にきつく縋りついた。
「好きです…」
「美凰…」
背に爪を立てて、胸に顔を押しつけ、ただ眼を閉じて彼を感じる。
夜が明けても忘れないように。
どんなに遠く離れても、決して忘れてしまわないように。
この夢が覚めない様に美凰は必死で意識を繋ごうとするものの、いつしかそれは雲雀の体温に溶けていく様に少しずつなくなってゆく。
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