滅國の皇女 1
 大明の崇禎十七年(一六四四年)三月十九日
 李自成の大軍は北京を陥し、明王朝を滅ぼした。
 同年五月二日、摂政王多尓袞に率いられた清軍が、李自成軍を破って北京に入城、ここに中国最後の王朝『大清帝国』の幕が開ける…。


 悧角からあらましを聞いた六太が『北宮に女人を容れる』との勅命を伝えるや否や、王宮は上へ下への大騒ぎとなった。
 北宮は王后の住まう宮殿。つまりは尚隆が妃を娶るという意味だ。
 やがて王が重体らしき女を抱き、美しい妖獣に乗った桃色に輝く小さな娘を伴って帰還した…。
 二ヶ月ばかり前のことである。


 白金色の細い光が天空を流れ、尾を引いて燕寝の方角へと消えてゆく。
「戻ったな」
「台輔でございますか?」
 朱衡はふと空を見上げる。微かに麒麟の燐光が認められた。
「今日はここまでで構わんだろう? 後は任せる」
 尚隆は最後の決裁書に眼を通し終わり、御璽を押すと椅子をひいて立ち上がった。
「北宮にお戻りでございますか?」
「不満か? お前たちの望みどおり毎日ちゃんと政務はこなしているぞ。街にも出かけておらん」
「美凰さまとやら申されるお方のお加減は如何でございます? 我らとしても王后候補でいらっしゃるのなら早々に拝謁し、ご挨拶申し上げたいもの…」
「毎日同じ言葉ばかり聞かされて耳にたこだ。そう急くな。その内ゆっくり会わせてやるさ」
 苦笑しながら出てゆく王の背姿に常の覇気を感じられず、朱衡は小さく溜息をついた。
 確かにここ二ヶ月ばかり、一切の文句を言わずに黙々と書類の決裁を続け、玉座を温め続けている尚隆に、朱衡たちは腫物に触るような心持だった。
 帷湍などは、王が真面目に朝議に現れた初日早々『いくら三十前で歳が止まったとはいえ、あまりに女遊びが過ぎて男の機能がおかしくなったんじゃないのか!』などと、不謹慎な言葉を呟く始末だったが、まもなく禁軍将軍成笙に重大事を耳打ちされ、王の挙動不審の謎が漸く解けた。

「北宮鴛鴦殿に昨日容れた美人、俺の女房に警護をさせるとの勅命があった。北宮に伺候した香蘭曰く『王は恋をなされたらしい』とな。どういうことか判るか?」
「……」
 成笙の妻である香蘭は美人の上、頭の良い女剣客として名の知れた武人だが、現在は尚隆に乞われて北宮鴛鴦殿に住まう傷病の山客、美凰の傍近く、警護の任にあたっている。
 凡そ恋愛の話に似つかわしくない成笙の固い表情に、朱衡も帷湍も驚きの色を隠せなかった。
「恋だと? あいつがそんなタマか!」
「しかし主上には珍しく、いつにないご執着のご様子ですからね」

 重傷の身を玄英宮に運び込まれて三日後、漸く意識を取り戻した異邦人。
 その知らせを聞いた尚隆が執務を放り出し、官吏たちが留める間もなく疾風の様に北宮へ駆けてゆく姿を目前にすれば頷ける。

 北宮鴛鴦殿には冢宰の院白沢とその妻の唐媛、そして香蘭以外数名の口の堅い女御ばかりが選ばれて出入りを許され、異邦人の世話をしていた。
 唐媛は雁には珍しい崑崙からの胎果であったので、白沢も若い頃から崑崙の事については何かと詳しかったのである。
 尚隆が美凰の世話を白沢夫妻に命じたのもそういう配慮からであった。
 最初の内は戸惑いつつも、美凰が僅かな期間で次第にこちらの世界を理解出来る様になったのは、やはり唐媛の力が大きかったといっても過言ではない。



「やれやれ…、まったく気分の悪い!」
 六太は心底、憤慨した様子で溜息をつきつつ、ぐったりとした様子で卓子に腰を下ろした。
 麒麟は生来慈悲の生き物、その姿や優美で性格も至って大人しく、乱暴な態度や言葉などは一切ない筈なのだが…。
 延麒六太は胎果であり、戦の辛さや餓死寸前の体験は嫌というほど知り尽くしている分、過激な気性を否めない。
「蓬莱は、漸く戦の時代が終わって、徳川なんとかって奴が平穏な国造りを始めて起動に乗り出したってぇのに、隣の国はひでぇもんだぜ」
「……」 
 尚隆は崑崙から帰ってきたばかりの六太の報告を、白沢夫妻とともに黙って聞いていた。
「李自成という賊軍が、主である皇帝を裏切って首都に攻め上り『紫禁城』と呼ばれる宮城に迫った。毅宗ってぇ皇帝は首吊って自裁、三百年近く続いた明王朝は滅亡した。死に先立って皇帝は皇后と二人の皇女を斬った。賊の辱めを受けぬようにってな。皇后と小さな皇女の遺体は見つかったって聞いたから、どうやら上の皇女が美凰らしい」
「まあ、なんとおいたわしい事…」
 唐媛は目頭を拭っている。
「理由はともかく、母と妹共々に父親に斬られたとは…。痛ましいことですな」
 白沢も溜息をつく。
「加えて、戦の発端は美凰を巡るものだったらしい」
 尚隆はすっと眼を眇めた。
「……」
「元々傾いていた王朝だったのは間違いないが、『大明の至宝』と謳われた皇女の美貌が風の噂になって李自成を呼び込み、今は『大清』って国号を名乗っている『満州族』ってぇ、李自成を追討して紫禁城を奪取した北方の騎馬民族の総大将の耳にも届いたってこと。メルゲルハーン・ドルゴンという名の王らしいが、そいつが美凰に岡惚れして戦を興したってのが巷の噂」

 夢の中で、美しい雛を抱いて立ち尽くしていた美凰の姿が思い出される。
「それに、これもあんまりいい知らせじゃないな」
「なんだ?」
 六太は肩を竦め、主の顔を窺うように一気に喋った。
「そのメルゲルハーンっての、お前に似てる。おれでも一瞬、見間違えたくらいだもんな」
「…、そうか」
 やはり美凰の自分に対する微かに感じられるよそよそしさはそういう意味だったのだ。
 別人という理解はあるものの、自国を滅ぼした敵に容貌が似ていれば、
 それだけでも辛いことだろう。
 だが宮城奥深くで暮らしてきた皇女が他国の男の顔をどうやって知ることが出来たのか…。
 尚隆の思考は六太の声にかき消された。
「いずれにしても何らかのきっかけで触が起こり、こちらの世界へやってきた。しかも美凰は胎果だ。蓬莱にも崑崙にもこの世界ですら、あんなに美しい眼の色した者はいない」
 六太の言葉に白沢夫妻も頷く。
「帰してやれないこともなかろうが、帰ったって国はない、家族も居ない。ここで暮らすのが一番いいとおれは思うぜ。尚隆、お前の希みもそうなんだろ?」
「……」
「仙でいらっしゃらないのに言葉が通じ、しかも書くこともおできになる。その上、台輔の様に使令のような獣を連れていらっしゃる。いえ、転変なさるあの姿は妖獣にはとても見えませぬ。まるで、恐れ多くも台輔と同格の神獣…」
「お身体がご回復あそばされた後、一度奉山へお連れし、碧花玄君にお伺いをたてられてみては如何でございましょう?」
「うむ、それは俺も考えていた」
 三人のやり取りを尻目に、六太は桃を頬張りながら立ち上がった。
「んじゃ、おれ、鴛鴦殿に行くわ。久しぶりに美凰の顔見たいし、ちび桃と約束あっから…」
「六太、崑崙のこと、余計なことは一切言うなよ」
「わーってるって。心配すんなよおっさん、んじゃな!」

 六太は美凰の血の匂いが漸く消えた頃から、毎日のように鴛鴦殿へ顔を出している。
 元来、人懐っこい性格の六太だが、美凰には心から引き寄せられる不思議な魅力があるらしい。
 無論、彼の目当ては美凰だけではない。
 彼女が連れていた不思議な獣たち、如星と桃箒に会うためでもあった。
 特に、美しい桃色の猫娘にはただならぬ興味を覚えているし、いい喧嘩相手だった。
 使令の悧角も、如星には配下のように付き従っている。
 狼同士のなにかがあるのだろうか…。

「唐媛、美凰の足の具合はどうだ?」

 尚隆の問いに、唐媛は痛ましげに溜息をついた。

「主上、『纏足(てんそく)』は一朝一夕にどうなるものではございません。子供の頃から造り上げられたものですし、胎殻が割れて御足の指が元通りになったとは申せあの小ささ。歩行にもかなりのご困難が見受けられます。美凰さまにおかれましては『纏足』が相当お嫌だったとの事、ご賢明にも縛られては隠れて紐を解くということを繰り返していらっしゃったと伺いました。幸い『延命珠』の力がお背中の傷よりも纏足に効果があったご様子、しかも前向きに歩行の訓練をされていらっしゃいます。いずれにしても、気長に養生なさいますれば…」
「気長にか…」

 初めて玄英宮に連れて来た時、瘍医に見せる為に臥床へ横たえて靴を脱がせた瞬間を思い出し、尚隆は首を振って立ち上がった。

「しかし、民族の習性というものは恐ろしいものでございます。あのような惨い姿の足に美の造詣を感じるというのですからな」
「……」

 なんということだろう。
 世にも美しい皇女は世にも哀れな足の持ち主だった。
 美凰の身の丈は五尺程度、にも拘らず靴の大きさが五寸と満たないのだ。
 それは世に言う中国三大悪習のひとつ『纏足』によって人工的に造られたものであった。

「足を元通りにしてやれるのであれば、残りの『延命珠』を使えばよい。背の傷のこともある」

 窓辺に寄って外を見れば、遠くに鴛鴦殿の美しい花苑が見える。
 親しく親書を交わしている隣国の慶東国より、最近購入して移植した花々だった。
 甘い香りが風に乗って尚隆の頬を撫でてゆく。

「しかし、宝重は残り僅か。主上や台輔に万一のことあらば」
「構わん。勅命だ!」

 白沢夫妻は驚きに顔を見合わせた後、王の背中を見つめる。
 尚隆の視線の先には、芳しい花苑の中を間もなく午後の散策に現れるであろう、誰より美しい皇女の幻しか映っていなかった。

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