(緊張、する)
空野葵は彼女史上、これまでに無いほどばくばくと心臓を鳴らせていた。彼女が腰を下ろしているのは、彼氏である剣城京介の部屋の中。付き合い初めて約一ヶ月になる二人は、サッカー部の練習の無い日に剣城の家で勉強会をする約束を交わしていて、今日がその日なのだ。どうしてこんなに緊張しているのかというと理由は彼女なりにちゃんとあって、空野は今日初めて彼の部屋に入ったことになるからである。男の子の部屋というと、幼なじみである天馬の部屋しか葵は入った事がなかったため、慣れない環境に対して極度の緊張状態に陥っていた。もっとも天馬はあくまでも幼なじみ、さらにもう今では兄弟のようなものだから、お互いに恋愛対象にはならなかったので異性の部屋に入るという行為は実質初めてといっても良いかもしれない。未知の領域、剣城京介の私室。異常なほどに唸る葵の心臓は、どうやらしばらくはおさまりそうにない。正座した足にぎゅっと固くなっているこぶしを乗せている葵を、剣城はちらりと見遣り、そして小さく言葉を発した。
「……あのさ」
「はぃい!?」
あのさ、と一言呼び掛けられただけなのに、ただでさえいつもよりも激しい心音はさらに激しくなり、心が跳ね上がる。と、同時に肩もびくりとなり、それに驚いた剣城も同じような反応をしていた。ああもう、剣城の声が低くて色気があって無駄にかっこいいのが悪いのよ!と半分惚気ながら葵は頭の中で意味の無い責任転嫁をする。いろいろと挙動不審な行動をしながら赤面する葵を見て、剣城はどうやら少し呆れ気味のようだ。おまえ、なんでそんなに緊張してるんだよ。笑いを漏らしつつそんな事を口にする彼に対して葵は目をぐるぐるとさせながら、だって、ちゃんとした男の子の部屋に入るのなんて初めてなんだもの!と訴えるように叫んだ。女子が好みそうな小物でごちゃごちゃと溢れかえっている葵の部屋に比べて、剣城の部屋はシンプルで男らしいし、きちんと整頓されている。棚や机の上には最低限の物しか置いておらず、時折目につくカラフルな物はすべてサッカー関連の雑誌やグッズだった。それは当然といえば当然の事なのだろうが、普段から意識はしているといえど、この部屋を見ていると剣城の男の部分が強調されているような気分になって葵はなんだかそれが気恥ずかしく感じるのだ。思わず、緊張から浅い吐息が漏れる。恋するって、付き合うって難しいよね、と友達の一人が愚痴を零すように言っていたが、葵はそれを今強く実感していた。本当に難しいし、それに恥ずかしい。いつものように上手く喋れないし、立ち振る舞いもおかしくなってしまう。剣城のすべてのものにドキドキしてしまっていては、この先自分の心臓ははたしてちゃんともつのだろうか。かあっと熱くなる頭を冷まそうと、葵が瞑想でもしようかと真剣に考えはじめた折、正面からぷっ、と吹き出すような笑い声が聞こえた。
「おまえ、面白いな」
本当に可笑しそうな様子で、口に服の裾を当てながら笑いをこらえる剣城を見て葵は目を丸くしたが、それと同じくらいにむっと軽い怒りが込み上げてきた。
「なっ…!ひどい剣城!」
「……冗談だよ」
「冗談っぽくなかった!」
「うん、冗談じゃないからな」
「やっぱり酷い!」
唇を尖らせて怒っているのを示す葵に対して、はは。と乾いた声をあげながら剣城は笑った。――あ、こんなの初めて見るかも。と葵は少しだけ緊張の溶けた頭でふと思う。目を細めていて、屈託のない剣城の笑顔を、葵は初めて見た気がしたのだ。
「剣城はさあ」
「ん?」
「家の中では気ぃ抜いてんだね」
「…そうか?」
「うん」
だってそんなに、笑ってるの見たことないし。葵がテーブルに肘をつきながらそう言うと、剣城は口元の辺りに手を当ててその周辺を確認する。そして、自分の頬の筋肉の緩み具合を確かめているのか、指で肌をつまんでいた。葵としてはそうやって剣城が顔を確かめること自体が非常に珍しかった。学校や部活で葵と会う時の剣城はいつもだいたい寡黙で、笑うとしても口角を少しだけ上げて微笑むだけな事が多い。最初の頃に比べれば随分と打ち解けたものだが、それでもどこか澄ましたような姿勢を彼は見せるのだ。それなのに家の中では声をあげて笑っているのなら、もしかしてこちらの方が本質なのだろうか。葵は今まで剣城が常に冷静沈着なのは元からではないかと考えていたが、案外それは虚勢に近いのかもしれない。
「…そんなに笑ってたか?」
「うん」
葵が迷いなく頷きながらそう伝えると、剣城は口に指を当てて少し意外そうな顔をした。え?と葵もその予想外の様子を見て驚く。私、何かおかしいこと言ったかなあ。ううん、事実を言っただけだし問題ないよね。
「……気づかなかった」
「え?」
――その、刹那。剣城の方から声が飛んできて、彼の曇りのない凛とした瞳が葵をすっと真っ直ぐに見据えた。彼の瞳が燈す光のすべてが、葵に一心に注がれる。そして葵はというと急に自分に視線を向けられて、どくどくとまた心臓が跳ねるのを感じていた。な、なんなんだろう。剣城の瞳はいつもよりも真剣味を帯びている。表情筋はそんな彼の行動に対しての対応に追いつかず、葵は口を少しだけ開けたまま間抜けな顔をしていたが、頭の中はそれの5倍の速さで状況を整理しようと必死になっていた。とくり、とくり。響く心臓の音がやけに煩い。胸をときめかせながら、葵は剣城の顔をじっと見つめる。とても端正で、肌なんか真っ白で、吊り上がった瞳が映える剣城の顔。そのきつい目元が、ふいにふっと緩んだ。
「気づかないうちに、隙を見せられるくらいお前に気を許していたんだな」
「え…?」
きょとんとした表情を浮かべる葵に対して、剣城は淡く微笑みながら言った。
「素を出せるくらいにお前に惚れてるって言ってんだよ」
――ぼっ。
擬音で表すならこのような表現になるくらい一瞬にして葵の頬は真っ赤に染まる。みるみると頬の温度が上昇しているのが葵自身に一番よく分かった。や、やだ、いきなりそんなこと言わないでよ!ぱたぱたと顔を仰ぎながら不意打ちを仕掛けてきた剣城に抗議すると、言葉を投げられた剣城は焦る葵を見て勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「嫌か?」
「うえ…!?」
ずいっと身を乗り出しテーブル越しに近づいて、上目遣いになりながら葵の顔を覗き込む剣城に、う、と言葉に詰まって葵は何も言えなくなる。こういう行動は、付き合い始めてから葵が知った剣城の狡い所だ。剣城が葵に惚れている、と言ったように葵もまた剣城のすべて骨抜きにされているのだから。こんなに顔を近づけながらの問いに、葵がノーと言えることはまず無い。
「い…嫌じゃ、ない、けど」
「なら、いいだろ?」
「う…」
「俺の勝ちだな」
――もうっ、卑怯よ!あとなんの勝負なのよ!
そう叫んでやりたくなった葵だったが、先程の台詞は飛び上がるほど嬉しいものだったから苦し紛れに唸ってみせるだけで後は何も言わない。真っ赤な顔で剣城をちらりと見れば、やはり楽しげに笑う剣城の姿が見えて、葵の心にふわりと柔らかいものが落ちる。いつの間にか、あんなにも自分を縛っていた緊張も少しだけ溶けていて、気持ちも軽い。剣城の微笑みに癒されたのかどうかは分からないが、それでも彼の笑顔は葵を安心させるものとなっていた。ふふふ、と自然に漏れた笑いを彼の耳が拾い、いきなり笑い出してどうしたんだ?と不思議そうに剣城が尋ねる。その声色はいつもより甘く、日光浴をしている時の猫のようだと葵は思った。別に、なんでもないよ、と葵も返しながら、彼女は軽く痺れてきた足を崩した。固まりから解放された足が自由を歓喜するように、すうっとした冷たい空気に包まれる。ふうと息をつきながら葵は訪れる爽快感に体を任せ、もっと笑ってよ。と、これまた猫撫で声を出しながらそう囁いた。剣城はそれに対して少しの間を置いてから、考えてみるよと曖昧な言葉を返す。そしてそのあと再度、先程笑った理由を聞いてくる剣城に対して、答える代わりにほんの少しの仕返しをしてやろうと、気づかれないように彼の後ろに手を伸ばした。
恋は砂糖まみれ/20120416
Title by 君想歌
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3000打企画。くおん様へ
res:くおん様、いかがでしたでしょうか?リクエストに沿えていたら嬉しいです…がそれが不安でもあります。もっと初々しい京葵を書きたかったんですが撃沈。本当に素敵なリクエスト、ありがとうございました!