『明日、卒業式ね』

 そう呟いた彼女の後ろで、まだ時期には早いさくらの花びらが静かに舞っていた。






「――おいしい!」


 閉ざされかけていた久遠冬花の耳を、かちゃりと微かな金属音が叩いた。伏せた瞳をゆっくりと開く。長い夢から覚めたような心地のなか、冬花は顔を上げて目の前に座る木野秋の表情を伺った。眩しすぎず暗すぎず、ちょうどいい具合に降りそそぐ光が彼女の顔を優しく照らしていた。彼女をまばっているうちに、冬花の小さな世界に徐々に色や音が戻って行く。冬の終わりの冷たい風がカフェに隣接したテラスを駆けた。この風が何もかもさらったときに初めて、春のはじまりはようやくこの町にもやって来るのだろう。
 桜はまだ、咲いていない。

「冬花さん、」

 柔らかい声は、金属音とは違う感触をもって冬花の鼓膜をふるわせた。はい、と返事をする瞬間も幸せで、冬花はほんとうはこちら側が夢なのではないかと不安になる。つい先ほどまで、自分は何を見つめていただろうか。不確かな記憶を絞りに絞って冬花は考える。視界はどうにもぼやけていて頼りなかった。混濁した――けれど目を覆いたくなるくらいに鮮やかな光を放つどこかの景色に、躰ごと飲まれてしまいそうだ。
 ふう、と息を吐き出して、冬花は自分がここにいることを確認する。もう息は白く染まらないけれど、辺りを包む空気はまだまだ寒々しい。ふうわりと微笑む秋の表情だけが、しつこく残った寒さに温かい雰囲気を与えている。

「冬花さんのもおいしそう」
「一口いります?」
「あら、いいの?」
「はい。おいしいですよ」
「――ありがとう、じゃあ、いただきます」

 自分のスプーンを冬花に渡したあと、身体を乗り出して「あーん」と子どもっぽく口を開ける秋がどうにもほほえましくて、冬花はこぼれそうになった笑い声を必死に抑えながら、1分ほど前に運ばれてきた――と冬花は記憶している――小さな白い皿から、注文したチーズケーキの端を掬い、秋の口の前に差し出す。秋はぱくりとそれに食い付いて、口にふくんだケーキを咀嚼しながらスプーンを受け取った。少しだけ濡れた唇に心臓の鼓動が早くなる。

「うん、おいしい!」
「良かった」
「冬花さんもどうぞ、私の」
「いえ。私は大丈夫です」
「へ、遠慮しなくていいのよ?」
「ほら、実はダイエット中なんです」
「あら」
「また今度いただいちゃってもいいですか?」
「ええ。…でも、そんなに痩せているのにダイエット?ちゃんと食べなきゃダメよ、冬花さん」

 まるで子どもを諭す母親のような口調で秋は言った。彼女が心から自分を気遣ってくれていることを冬花はよく分かっていたので、今は素直に肯定の返事をする。ほんとうはダイエットなどしていない。けれど、秋の食べかけをもらうなんてことをしたらただでさえうるさい心臓がついに爆発してしまいそうだったから。
 冬花の秋を見ている目が、秋が冬花を見ている目とは明らかに違っているということに気がついたのは、決して最近のことではない。
 ひそかに秘めて、秘め続けて、冬の風に晒されてしまわないよう大切に守っている気持ちがある。それはいつの間にか芽生えていて、以来ずっと冬花の胸を締め付け続けている泣きたいほどに優しい気持ちだ。打ち明けたいと、声を大に叫びたいという衝動に駆られることもある。だけどそれはあまりにもろくて壊れやすいものだから、小さな丸い石を投げられただけできっと崩れてしまうだろう。だからとても口には出来ないし、またそれ故に冬花の秋に関する選択は極めて慎重に行われる。何をするにだってとにかく気を遣い、いつだって、冬花はそろそろと道の隅っこを歩いてきた。この気持ちが彼女にばれてしまわないようにと、砦を壊してしまわないようにと、そしてそれでも、大好きな彼女のそばにいられるようにと祈りながら。


「そういえば、もうすぐ卒業式ね」

 跳ねた毛先を冷えた風が揺らしている。その瞬間、冬花の思考は言い様のない衝撃に襲われて停止した。
 あれ?

「――え、」
「ほら、雷門中の卒業式。夏未さんや春奈ちゃんとも話してたじゃない」
「…あ」
「ふふ。どうしたの冬花さん。今日はなんだかずっとぼーっとしてる。寝不足?」
「い、いえ。大丈夫です。すみません」
「別に謝らなくてもいいのよ。私は冬花さんが心配なだけだもん」
「…ありがとうございます。昨日深夜にどうしても見たい番組があって、それで」

 我に帰ったあと冬花は慌てて取り繕った。聡明な彼女のことだからすべて気付かれてしまっているのだろうが、それを考慮する前に冬花の意識はほぼ反射的に動いていたのだ。なんだろう、この既視感は。冬花は秋の話に頷きながらそのデジャヴの正体について思考を巡らした。冬花の記憶が正しければ昨日は仕事が終わったあと家に帰ってすぐに寝たはずなのに、今日は寝不足であるかのように気がつけば意識が飛んでしまっている。冬花の躰や思考回路を表現しがたい浮遊感が包んでいるような、そんな気分だ。なにもないはずの空っぽの記憶に手を伸ばしてそれを確認しようとしてみるが、やはり不意に訪れた不思議な感覚は消えてくれなくてどうしようもなかった。彼女を恋おもうときのような痛みはない、けれどただ、「知っている」という思いばかりが朝もやのように冬花の胸に蔓延している。

「来年は、うちの親戚が雷門に入学するんだ」

 秋は冬花の顔色を伺いながらそっと話を続ける。冬花の方も、今度は返事をするタイミングを逃さなかった。

「えっと、たしか"天馬くん"でしたっけ」
「そう、正解よ。本当にサッカーが好きな子でね、ほんのちょーっとだけだけどどこか円堂くんに似てるの」
「へえ!」
「今の中学サッカーって、私にはよく分からないけれどフィフスセクターだとかなんだとか…いろいろ大変みたいね。豪炎寺くんのこともあるし、」

 秋はテラスから見渡せる景色に視線を遣った。寂しい色に染まった枯れた木々も、午後の空気の中につめたく溶けている。

「天馬はあきれるくらい無鉄砲だけど、どうしてか誰にもできないことをやってみせる子なの。…まだ芽は出てないんだけどね。私にはなんとなく分かるんだ。あの子が入学したら、雷門がどんなふうに変わるのか楽しみだなあ」
「…秋さんは天馬くんのこと、すごく信頼してるんですね」
「そう?」
「ええ。表情とか声とか、やっぱり分かっちゃいます」
「…うん、そうだね。そうかもしれない。――それに怪我したら冬花さんがしっかり手当てしてくれるんでしょう?」
「お安いご用です」
「ふふ、なら安心ね!」

 自分だけでは処理しきれない感情を抱えたまま、冬花は秋との雑談に没頭した。ケーキもドリンクも少しずつ、また確実に減っていく。卒業式の話題から始まった会話はそこから徐々に発展し実にたくさんのことに興味や関心を向けた。中学生時代のこと、同級生の現在のこと、木枯らし荘の個性的な住人たちのこと、勤め始めた病院で冬花が出会ったサッカー好きの男の子のこと。

「――それにしても、やっぱり外は寒いね」
「でも、私は今のこんな空気好きですよ」
「うん、私もよ」
「秋さん、」
「なあに?」
「雷門の卒業式がある頃には、もう暖かくなってると思いますか」
「…どうなんだろう。でも意外と、私たちが思っているよりずっと近くまで来ているんじゃないかしら。春は」

 秋と二人で話す世界は冬花ひとりで見るよりもずっときれいに思えた。何気ない日常が、なんともないちっぽけな出来事が、たったひとつ彼女の言葉を介するだけで一瞬にして鮮やかな言の葉へと姿を変える。

 幸せだな、と、不意にそんな思いが沸き上がってきた。そこに胸を裂こうとする切なさが全く無い訳ではないけれど、結局のところ冬花は秋のそばにいられるだけで満たされるから。冷たいまま無理矢理埋めた想いが次に世界を照らしてくれる太陽を待ちわびるように、冬花自身も、ずっとずっと長い間秋のような人間と出会える日を待っていたにちがいない。こんな日々が永遠に続けばいいと噛み締めるように思う。それはいつかの幼い冬花も、きっと願っていたことだから。
 美味しいね、と穏やかに紡がれる声が好き。冬花は沸き上がってきた想いをただ真摯に受け止めた。ところどころに家事の跡が残った指先が好き。面倒見のいいところが好き。こんななんでもない私と、特別でもなんでもない寒空の下、なんでもない時間を一緒に過ごしてくれるところが、好き。そう、あなたの、あなたのすべてが、
――秋さん。
 中身のなくなったティーカップがふわりと浮き上がる。それは幻だったけれど、その明らかに現実離れした現象を境に冬花の視界はまたぼやけ始めた。さっきからどうしちゃったんだろう、私。沈む意識の中で考えても全くもって把握できない。正面の秋は、まだ冬花を見つめながらにこやかに笑っていた。――そう、笑っているはずなのだが、顔がよく見えないため正確な判断が出来ているかはわからない。秋さん秋さん、大変です。自分ははたして、ちゃんと秋に語りかけられているのだろうか。試しに声の大きさを上げてみる。秋さん秋さん、私の声が聞こえてますか。どうしましょう。
あなたの声が聞こえない。
 冬花はすっかり霞みきってしまった音のない世界の中に、ふと、こぼれ落ちる小さな花びらを見つけた。まだ咲いているはずのないさくら色。それは空中をすべるように美しい軌道を描きながら地面に落下する。まるで、冬花の存在を導いているかのように。
もうすぐ、卒業式ね。
 どこかで聞いたことのある懐かしい声が、遠くに響く。






「――冬花さん?」

 閉ざされかけていた久遠冬花の耳を、かちゃりと微かな金属音が叩いた。伏せた瞳をゆっくりと開く。長い夢から覚めたような心地のなか、冬花は顔を上げて目の前に座る木野秋の表情を伺った。眩しすぎず暗すぎず、ちょうどいい具合に降りそそぐ光が彼女の顔を優しく照らしていた。彼女をまばっているうちに、冬花の小さな世界に徐々に色や音が戻って行く。冬の終わりの冷たい風がカフェに隣接したテラスを駆けた。この風が何もかもさらったとき初めて、春のはじまりはようやくこの町にもやって来るのだろう。
 ひらりと舞い落ちたはずのさくらの花びらは、もうどこにもなかった。

「秋さん」
「どうしたの、ぼんやりして」
「あの、…あれ、私…?」
「大丈夫?もしかして具合悪いんじゃ、」
「い、いえ!そういう訳じゃ…」
「もう、気をつけてね?明日は卒業式って話、さっきしたばっかりじゃない」
「――、卒業、式」

 冬花は目を見開いた。どうしてか分からないけれど、何度も話題に出ているはずのその単語は冬花の心にどうにもしっくり来なかったのだ。雷門中の卒業式が明日だということ。キャプテンである円堂が卒業するというので、明日は全国から彼と交流のあるみんなが集まってきて記念試合を開催するらしいということ。それはマネージャー同士で何度も話し合ったことだからよく知っている、知っているはずなのだけれど。
 卒業するの、私だったんだっけ?
 目の前で、秋は可笑しそうにふうわりと笑う。深いみどり色のリボンが微かに風に吹かれている。

「ふふ、まだ寝ぼけてる?かわいい冬花さん」
「…ううん…どうやらそうみたいです。私、どうしちゃったんだろ」
「まあ、この気持ちのいいお天気だから眠たくもなっちゃうわ。もう春みたいだもの」
「――そうですね」

 冬花はテラスから見渡せる景色をじっと見つめた。その正解は、冬花が無理に探す必要のない白昼夢の中に溶けているのかもしれない。
 諦めて覗き込んで見ればティーカップの中も皿の中も空っぽだった。冬花は顔を上げ、秋に話しかけた。彼女は、冬花の大好きな――これから先もずっと、ずっと大好きな表情を浮かべて、そこから暖かい光を放っていた。

「秋さん、じゃあそろそろ行きますか」
「そうね。ああおいしかった!またいつか、冬花さんと来たいわ」
「ええ、是非」
「――約束よ」
「約束、ですね」


 冷たい風の中で、少女はまた新しい夢を見始めている。






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一周年リクエスト
拝啓、きみのいる春へ、/20130118
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