※イナダンネタバレ注意







「ねぇ、花が好きなんだって?」

 そう問う声は、とても柔らかいものだった。
 暮れた空の下、フランは人の輪から外れて星を眺めていた。特に理由は無かったが、強いて言うなら浮ついたすずろ心を落ち着かせる為だ。此処は、広い青の前。彼女が作り出した歪な世界の中心に在るこの湖は、何処までも深く、暗く、底に広がる沢山の街が辺りに形容し難い神秘的な雰囲気を与えている。フランは冷たい眼を無意識にぼんやりと巡らせながら、両の足を水に沈め、取り留めのない思考に耽っていた。こんな時、考えるのはいつも同じ過去の事柄だ。死にたいと思うほど苦しいのにどうしようもなくてただ泣き叫ぶ自分と、それを淡々と見つめる科学者たち。それから、心配そうに、また悔しそうに窓を叩くサンとアスタの姿もある。二人だって同じように「実験対象」なのに、彼らはいつだって自分よりもフランのことを心配していた。本当に、哀しくなるほど二人は優しかった。
 地獄のような回想が頭の中で繰り返し流れる。フランは鬱血した唇を噛み締め、それを思い出す程に沸き上がって来る様々な感情を無理矢理押し込めるしかなかった。直視したくない。あんな辛くて悲しいだけのこと、本当は、思い出したくなんかない。しかし、決して忘れてはいけないから。フランが自分の身に宿った憎しみの魂を忘れてしまったら、一体誰が未来を変えてくれるというのだ。忘れては、いけない。強く刻んでおくべきなのだ。
 フランは振り返る。どろどろと沈みかけていた思考を覚ましたのは冒頭の明るい声だった。花、好きなんだって?、と、彼は問い掛けながら、一切の曇りも見えない笑顔を浮かべたままフランの隣に座った。彼の名は松風天馬。サッカープレイヤーで、戦いを全て消去しようとしているフランの敵だった。今は生温い馴れ合いを交わしているが、じき、すぐにその遊びも終わるだろうと彼女は思っている。きっと終わってしまえば簡単なことだから。
 そんな彼女の冷めきった気など、少しも知らないのだろう。天馬はフランが湖に足を浸け、夜空を反射して美しく煌めく水を跳ねさせているのを見た途端ぱっと顔を輝かせ、履いていた靴と靴下を脱ぎだした。それから、再びフランの隣に座って、彼も足を沈める。水面が波打ち、新たに小さな波紋が広がっていく。

「へへ、気持ち良いな」
「え、…あ、うん」
「――で、花が好きなんだろ?フランって」
「…まぁ、うん」
「ヒロからちょっと聞いたんだ、君が花が好きだってこと」

 言いながら、天馬は足を動かし、湖の果てを見つめていた。その言葉を受けたフランは少し前、天馬たちとはまた違った次元からやって来たLBXプレイヤーのうち二人を消し去った時の――更にそれ以前のことを思い出す。山の中、咲いていた野花。綺麗な紫色に染まった小さな花に、フランの心や身体は自然と引き付けられた。自分たちの世界には無い、未来の世界が失ってしまった美しさ。天馬が言う通り、フランは花が好きだった。脳裏に、ひっそりと過去の情景が浮かぶ。優しい両親と素敵な誕生日プレゼント。容器に閉じ込められて何とか存命していた、あの小さな輝き。それはフランの心を癒し、また、後に酷い絶望を突き付けることになるものだった。もう、あの花を見ることは叶わない。皆、世界を一気に壊せる程に強大で馬鹿げた兵器と遺された砂漠の中に沈み、消えてしまったのだから。

「………、」
「でも、フランの世界には花が無いって…ヒロはそんなことも言ってた。…どうして、君の世界には花が無くなってしまったの?」
「……人間のエゴのせいよ」
「――え」
「人間が、皆、自分の醜い欲望を捨て切れなかったせいだわ…」

 目を閉じる。すると星も水面も見えなくなり、ただ寂しい暗闇と深い静寂が彼女を満たす。フランはとても、孤独だった。
 隣で脳天気に笑う彼に、問い掛けてみたかった。どうして戦いを続けるの、と。醜い欲望。それは、貴方だって持っている。欲望とは則ち、戦いだ。彼等だってサッカーという名の戦いの手段を捨て切れていない。説明したところで分かってもらえる筈もないだろう。その甘い考えや思い込みこそが諸悪の根源なのだと、一体どうして思えないのか。ただひたすらに戦いの殲滅を進めているフランにとって、本当に楽しそうに「戦い」の話をする天馬は不思議な存在だった。天馬だけでなく、ほかのサッカープレイヤーやLBX所持者も同等だ。訳が分からない。未来では戦いによって多くの人々が苦しみ、その道筋を、彼等の運命を悲しいものから遠ざける為には、戦いという概念から葬らなければいけないというのに。何故、あんなにも楽しそうに出来るのだろう。昼間、フランに嬉々としてサッカーを教えて来る天馬の笑顔が、フランの胸を疼かせる。呆れる程に憎たらしい表情。なのに、どうしても彼から目が逸らせない。心臓のもっと深いところ――フラン自身すら知り得ない心の奥で、悲鳴に似た叫びが聴こえてくる。彼女は必死に耳を塞いだ。聴いてしまったら何とか自分を生かしていた強固たる信念が揺らいでしまうような気がして、恐かった。

「醜い気持ちを持った人間…あいつらが悪いのよ…そう、全部全部っ」
「フラン…」
「………、ごめんなさい」
「ううん。俺こそ、ごめんな」
「いや…」
「………」
「………」
「―――あ、あのさっ!」
「?、なに」

 気まずい沈黙が訪れようとした砌、唐突に天馬が声を張り上げる。それまでの空気を保つ為だったのかは分からないが、無理をしたように明るい声だった。フランは不思議そうに首を傾げ、彼の方に視線を遣った。天馬はフランの顔を見ると、途端に飾り立てた様子のない自然な笑顔になり、それから彼は自身の背中に手を伸ばした。草と草とがこすれる音が僅かばかり響き、伸ばされた手はすぐに表に帰ってくる。そして、フランはその彼の手を見て驚愕し、目を丸くした。彼女の目に飛び込んで来たのは、昼間に山で見つけた野花とまったく同じ種類の花で作られた、――手作りの花束だった。

「フランにあげようと思ったんだ」

 驚いて、天馬を見上げる。すると、彼はとても和やかに笑っていた。太陽みたいに眩しいと、そう思う。眩しい上に、その笑顔はフランの知らない優しさをたくさん含んでいた。思わず、フランはどくんと胸を高鳴らせる。天馬のはんなりとした笑顔、何故か床しいその表情に、彼女は見とれてしまっていた。彼の背景となって仄めく星の淡い光が、そして、それを反射して輝く湖の明かりが二人を照らす。幾億ものパラレルワールドが部分的に一つになった不思議な世界は、まるで銀河のようだった。星の海。さざ波によってその煌めきが広がり、フランが心から憎んでいる筈の世界が、とても美しいものになる。いけないことだ、と無意識に叫ぶ表層の心を、フランの深層に潜む「何か」が今だけは必死に押し込めていた。――分からない、と、フランは歎く。何もかも分からない。天馬が自分にこれを贈ってくれることも、自分自身の感情も。戦いが存在する世界が、そしてその戦いを行っている松風天馬が、どうしてこんなに美しく見えてしまうのだろう。――本当に、分からない。
 哀しいような、切なくなるような、そんな不思議な気分だった。様々な感情でいっぱいになった胸は今にも張り裂けてしまいそうだ。不意に彼女は、泣きたくなる。全てを失ったあの日流れきって、もうとっくに枯れてしまったと思っていた涙が、再び熱を持ったまま溢れてしまいそうになる。ああ、自分は一体、どうしてしまったんだろう。どうして、こんなに哀しいんだろう。フランは自身の中で起こり始めた変化に暗れ惑っていた。沸き上がって来た涙はそのまま、一筋の雫となって頬を濡らしていく。それを見た天馬が顔色を変えるのが分かった。

「――フ、フラン!?ど、どうした…え、あっ、だ、大丈夫!?」
「…っ、ごめんなさい…何でもないの、」
「何でもない…って、――そんな訳ないだろ!どこか痛いとか、それとも俺が何か言っちゃったとか、…もしかして、花が嫌だったとか?」
「……!、ちが、本当に違うのっ!」

 必死な顔をして言問い、こちらに詰め寄ってくる天馬を、フランはこれまた必死に落ち着かせようとした。足元でじゃぶじゃぶと激しく水が跳ねる。波紋が大きくなり、そこに映った景色は歪んでしまう。何とか、もうフランの涙は止まってくれていた。だから本当に大丈夫なのだが、天馬はそれでも心配そうに言葉を発している。慌ててしまったせいで混乱に陥っているのかもしれない。どうしよう、これでは収まりが着かない。何かこの場を沈める手立てはないものか、と、フランは混乱した頭を働かせた。そしてふと、一つ忘れかけていたことに思い当たる。泣いてしまった衝撃に隠れていたが、天馬は花束を自分に渡そうとしていたのだった。天馬から目を逸らし、フランは彼の手の方に目を遣った。すると、先程と同じように天馬の手の中で鮮やかな輝きを放っているそれを発見したので、彼女は考える間もなく「ちょっと!」と声を上げる。すると突然のことに驚いたのか、びくんと天馬の肩が跳ね上がる。そうして漸く静寂が訪れ、落ち着くことが出来たフランは深く息を吸った。

「天馬、それ」
「――え?」
「…その花束、くれるんでしょう…?」
「え、あ、その…うん。君が嫌いじゃないなら…」

 怖ず怖ずと、フランの顔色を窺うように、天馬は花束を差し出してくる。フランはそれを、そっと優しく受けとった。そして、その色とりどりの輝きを目を細めて見つめる。決して、豪勢なものでもないし、幼い頃両親がくれた一輪の花のように手間の掛かったものでもないけれど。フランは、その花がとても愛おしかった。天馬は確かに、今も彼女の敵である。戦いを続ける限り彼女が彼を許すことは出来ない。しかし、今だけは、彼の好意が純粋に嬉しかった。不器用に結ばれたリボンや、何かの切れ端を繋ぎ合わせて造ったような有り合わせのレースの、その、すべてが。
 嫌いな訳ないよ、と、語りかけるように呟いたあと、目を閉じて、たおやかに流れていく自身の感情に、この瞬間だけは身を任せる。二人並んで浸けた先の水は、幾重にも広がっていく波紋を作り上げながら今も輝いていて、とても美しい。フランは、本来消さなければいけない筈のこの歪な湖を今なら愛せる気がしていた。そんな気分は実に不思議で奇っ怪なものだったけれど、決して、悪いものではなかった。

「――ありがとう」

 空気が、波が、星が、揺れる。光り瞬いて、歴史の中の極々小さな場面を作っている。
 顔を上げて天馬を見ると、彼は綻んでいた。照れたように笑うその顔が、フランには贈られた花束と同様に愛おしく思えた。尤も、直接口には出したりしないけれど。別れの時は近いから。こうして表面だけ積み重ねられた思い出も、夜が明ければたちどころに壊れてしまうだろう。しかし、その時の情景はきちんとフランと天馬の心の中に刻まれていた。とても大事で、優しい思い出として、揺れる水面と星の景色は彼等の中に浮遊し続ける。手折られた花の束を、去り行くフランは自分への餞別なのだと思った。自分も此処に生きていたという証でもある。だから大切に、壊さないようにと注意しながら花束をポケットに入れ、少しして天馬と別れた。その間も、夜空や水面を彩る星々は二人を包み込むように燦然と輝いていた。


 ――そして、あれから、ずいぶんと長い時間が経った。フランがその時より未来にある自分の世界に戻るまで、時が過ぎる合間に起きた出来事を事細かく記す必要は無いだろう。ただ、フランが彼等から――松風天馬からたくさんのことを教えられたという事実は、今も彼女の中にしっかりと存在している。あの時天馬から貰った花束は、改変された未来で復活していたカプセルに入れて保存をしておいた。見る度に、遠い昔の記憶と天馬たちと過ごした時間とを同時に思い出す。 今、フランの街では、その花と同じ種類の花が至るところに咲き乱れている。彼女は毎日花園を歩き、いつかの彼のように微笑んでいる。澄んだ空の下、美しく咲き誇る花々を見て、何かを悲しむ必要などもう何処にも無かった。






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餞/20121208
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