ひとつ、瞬く。
 ぼんやりとした不鮮明な世界の中で空野葵は目を開いた。瞬間、眩しい白が視界いっぱいに飛び込んでくる。あれ?と首を傾げながら葵は状況を理解しようとするけれど、肝心の頭はぐらぐらと揺れているようで頼りなく、正直なところここが現実なのかすら分からない。
 振り向いた先、結ばれた焦点が映し出したのはどこかの部屋だった。葵の知らない場所だ。暖房がきいているのか非常に暖かく、クリーム色の壁には赤や緑の鮮やかな装飾が施されている。子どもっぽく家庭的な内装の次に意識に染み込んでくるのは定番のクリスマス・ソング。最初に視界に飛び込んできたのは、窓の外に降り積もったやわらかそうな雪だと分かった。どこからか響いているベルの音。美味しそうなご馳走のにおいもする――ああ、そうか、クリスマスパーティーでも開かれているのか。葵の思考は不意にそう完結する。おかしい、明らかにおかしいとは分かっていながらもその結論は葵の中にぽっかり空いた空白にぴったりと収まったのだ。その感覚は支えている現実は、もしくは真実は、いまこの状況には必要ないように思われた。それよりももっと大事なことを知っているような、そんな気分だった。


「まったく…」


 そうして、苛立たしげなその声が響いてきたのもまた唐突で、曖昧だった。
 てっきりひとりきりだと思っていたのに。葵は驚いて、咄嗟に自分の左隣を見る。ひらひらした短いスカートから伸びる白い足。うらやましくなるほど細いすらりとした体躯。どこまでも澄んだ相貌。しゃらん、と記憶の鈴が鳴り、同時に葵は彼女を思い出す。そこには、水川みのりが立っていた。
 水川みのり。イナズマジャパン改めアースイレブンのマネージャー、ミステリアスでクールな性格が特徴――実際は彼女に憑依していたポトムリという科学者の意識が反映されていただけらしいのだが――の少女だ。しかし葵は、隣に立つ彼女の雰囲気を不思議に思った。苛立たしげな表情、お上品とはいえない足の開き方。これは、

「ミノタウロスさん?」

 おそるおそる、彼女の、その「本体」の通り名を呼んでみる。するとすぐに鋭い視線とぶつかった。雑じり気のないその瞳からは例えようのない迫力を感じて思わずたじろいでしまう。葵の予感は、どうやら見事に当たっていたらしい。みのりはみのりでも目の前に現れた彼女は、岩城中のミノタウロスこと女番長「水川みのり」の方だ。事故で死にかけていたところを科学者ポトムリ・エムナトルに憑依された、非常に曖昧な存在の女の子。彼女は機嫌の悪そうな表情で葵の全身をじろりと眺める。なんだか自分の価値を測られているようで居心地が悪かった。外の白さや壁の色とみのりの纏う色のコントラストははっきりとしていて、彼女の存在はまるでそこだけ切り取られたかのように浮いていた。鮮やかで明瞭な筈の境界線が、今はどこか淡い。

「アンタ…空野葵、だったよな」

 みのりは低い声で呟いた。どうやら葵の名前と存在は把握されているらしい。ポトムリと融合していたのだから当然かな、などと考えながら、葵は恐る恐る口を開いた。こちらの「水川みのり」とは面識がないも同然だし、初めてアースイレブンの前に姿を現した彼女が天馬につかみかかっているところを間近で見ているので、正直なところ葵は彼女のことが少し怖かったのだ。

「は、はい…」
「…なにびびってんだよ」
「い、いや、そんな!」
「はー…、まあいいけどさ」

 重たげなため息を吐き出した彼女は窓の外に目を向けた。照り返す光が眩しくはないのだろうか。あまりにも真っ直ぐな視線を疑問に思いながら、葵もつられて外を見る。途端にうっ、と目を閉じる。ほら、こんなに眩しいじゃない。白過ぎる雪はいつだって目に優しくない。心につめたくなった雫をぽつりと落とすだけなのだ。葵はそう思う。そうして、ふたたびみのりを見遣る。視線はもう交わらなかった。

「あの、水川さん」
「……」
「クリスマスだね、きっと」
「…きっと?」
「いや、あのね。…私にも説明し難いんだけど…」
「なんだよ、さっきからうぜぇな。はっきりしろよ」
「う、ごめん…」
「……」
「……」

 ふたりの間に沈黙が降りた。何を話せばいいのか、どんな言葉を選べばコミュニケーションがとれるのか、どうすればこの息の詰まるような現状を打開できるのか――葵にはよく分からなかった。おかしいな、と思う。自分はもっと喋れた筈だ。場を取り持つことが出来た筈だ。周りを支えてあげられる明るさが唯一の取り柄で、自分自身もそれを大切にしてきた筈なのに。どうしてそれが出来ないのか、――しかし、実のところ答えは既に明白だった。会話をしようと試みているその相手が、「正真正銘の」水川みのりだからだ。
 葵は彼女の本来の人格や性格について無知に等しい。その無知は即ち恐怖に繋がり、出かかった言葉を容易く絶ってしまう。やっぱり何も言えなくて、葵は口をつぐんで俯いた。しかしそれについてみのりは何も言及しなかった。クリスマス・ソングの音色だけが葵の耳に高く響き、虚しさや寂しさの波を立てる。
 頭の中はまだふわふわと頼りなくて、ところどころ中途半端な部分だけがやけに冷えていた。ここは何処なのだろう。深々と降り続ける雪を見ながら葵は考える。それはある種の思考停止であり、またある種の前進であった。葵が視認できる世界はどこまでも淡い色に包まれていた。もみの木も、いくつか連なった玩具みたいな家屋も、すべてが雪の純白に染め上げられている。そんな美しく異質な景色。
 やはり夢なのだろうか、とまで至って、葵はそれはどうかなと即座に決めつけるのをやめた。ただの夢にしてはリアリティがあり過ぎる。暖かさだとか気まずさだとか、空気のすべてを敏感に感じ取れているこの状況になんの意味もないとは思えないし、有り得ない。けれど現実世界とは違う場所にあることは確かだろう。ここが現実であれば、ポトムリが放浪する水川みのりの本体を放っておく訳がないのだから。そもそも自分達は、グランドセレスタギャラクシーに参加するために宇宙を旅している最中なのだ。クリスマスを地上で、しかもこんな穏やかなパーティーを開いて迎えるだなんてそんな悠長なことはしていられない。ああ、天馬やみんな、ギャラクシーノーツ号でなにしてるのかなあ。なんだかむしょうに会いたいなあ。思考が色々なことを吸収して深まっていくうちに、いつの間にか、葵の瞳には銀河の暗黒が映っていた。真っ白な雪が、星が、つめたく優しく葵の心に降り注ぐ。もう、ほんとに曖昧なんだから。やんなっちゃうわ。心の中でこっそりとひとりごちた言葉も、雪になる。きらめく星になる。
 沈黙は深かった。
 葵は窓にそっと触れた。透明な硝子は相変わらず眩しい光を反射して輝いていて、やはり曖昧だ。美しい銀河に飲み込まれないよう意識を保ちながら前を向く。あの向こうに、銀河の果てに、本当に天馬を介してカトラ姫が言うような救いがあるのだろうか、葵には未だ疑問に思えてならない。宇宙に生きるすべての人を救えたらどんなに良いだろう、その気持ちはサンドリアスやサザナーラ、ガードンの人々を見てきた葵にだってあるけれど。天馬が真剣に信じているから葵も天馬やカトラのことを信じているが、それでもどうしようもなく不安なのは事実だ。ポトムリが言っていたことは、葵にも分かる。ねぇ天馬、カトラ姫は本当に生きているの?彼女の言っていることは本当に正しいの?私ね、少しだけ――ほんの少しだけ、怖いよ。
 それから葵は、水川みのりのことを考えた。真っ暗な銀河と同じ色をした彼女のことを。どういうことだ、説明しろと天馬に掴みかかった彼女のことを。ポトムリに憑依されていなければ死んでいた、曖昧な存在の女の子のことを。彼女も不安なのではないか、と、不意にそんな気が起こった。死の淵から救い出されたはいい、けれど彼女に取り憑いたポトムリの境遇や目的はあまりに複雑怪奇で難しいものだった。いくら彼女に度胸があったとしても、流石のミノタウロスもまさか地球の運命を賭けて宇宙へ旅立たなければならないとは思わなかったに違いない。しらない宇宙人の魂と融合してしまった彼女は、一体いま、何を思いながら生きているのだろう。それまでどうやって、生きてきたのだろう。それを想うと葵は胸が塞がって仕方なかった。誰も、悪くない。みんなが幸せになりたいだけなのだ。だからこそ。

 雪が降っていた。芯まで真っ白な雪が。それは銀河に散らばった星と似ていて、葵の瞳にとても眩しく映った。いつの間にか暗黒は消えていた。照り返す光が目に痛くて、葵は反射的に目を瞑る。
 隣には本来の水川みのりがいる。ミノタウロス、ねぇ。葵のしらない水川みのりは、不機嫌そうに腕を組みながら、時折舌打ちも響かせながら、それでもその場所にただ立っていた。
 あたたかい空気が、漸く開いた葵の喉を潤した。

「――水川さん、」

 しゃらん、鈴が鳴る。不器用に震えた声だった。朝の光に溶けてしまうような、銀河の隅っこで生き絶えた蚊の鳴き声のような、そんなか細く情けない声しか出てこなかったけれど、その時はたぶんそれで十分だったのだと思う。だって水川みのりがこちらを向いたから。その深い色をした瞳で、葵の姿を確かに捉えたから。

「…なんだよ」
「!…あ、あのね。水川さんは、クリスマス好き?」
「はぁ?」
「――好き?」
「…別に」
「そっかぁ」
「……」
「……」
「…そんなこと訊いて何になるんだ?」

 葵は顔を綻ばせた。ああ、そう、いつもこんな感じだったじゃない。真っ直ぐな視線を受け止める方法を私は知ってるんだわ!
 みのりの眉間には深いしわが寄っていたが、そんなことはもう気にならなかった。ねぇ、水川さん。ただ笑いながらそうやって言葉を続ける。他の誰でもない、水川みのりひとりの為に。

「だって、お友だちになりたい人のことはちゃんと知っておきたいでしょう?」
「…お友だちぃ?」
「そう、私もね、不安なの」
「――、は」
「水川さんもおんなじだと思った。だから、私、あなたの友達になりたい」
「……」
「ねぇ、いつか本当のクリスマスパーティーをしましょう。もちろんアースイレブンのみんなで。宇宙が落ち着いて、みんなで地球に帰れたら――みんなのことちゃんと紹介するよ、大丈夫だよ、だって貴女は確かに生きているんだもん。だから、」
「……」
「水川さん、わたし、」

 みのりはすっかり呆気に取られたように、ぽかんとした表情で葵を見つめていた。驚きに満ちた瞳に葵は満足感と、それから少しの切なさを覚えた。目の奥がツンとなり、ぽろぽろと涙が溢れ出してきた。ごめんなさい水川さん、その言葉を伝えることは出来なかった。何故だろう、どうしてだろう。わからない。わからないことが、どうしようもなく切ない。
 葵にとって先の見えない、果てしない未来は重荷だった。それでも笑っていられたのは、アースイレブンの皆がいたからだ。葵はそれを彼女にも――ポトムリが融合した状態のみのりにも、ミノタウロスであるみのりにも感じて欲しいと思っている。銀河は怖くないよ、貴女はここにいるよ。自分自身にも言い聞かせるように、そっと。星降る闇をきつく抱き締めながら。
 しゃらん、また、鈴が鳴る。
 定番のクリスマス・ソングは徐々に遠ざかり始めていた。美味しそうなにおいも、暖かな部屋の風景も、美しく寂しい雪景色も。泣き出した葵をみのりがどんな表情で見ていたのかはよくわからない。ただただ、彼女はそこにいた。偽物の未来に囲まれて。鈴の音が、煩くなる。葵はひとつ、瞬いた。そして、




「葵、あおいー?」

 聞きなれた、どこか懐かしい天馬の呼び声が聞こえてくる。重たい身体を起こしながら顔を上げて、はーい?と返事をすれば、自動式の扉がすぐ開き、天馬はそこからひょっこりと顔を出した。不思議そうな表情で、葵を見つめてくる。

「葵が昼寝なんて珍しいね」
「ううん、ちょっと疲れてて…ふわぁ、」

 結局夢だったのかあ、と、葵は少々落胆しながら伸びをした。しかし、それなら一体いつから寝入ってしまったのだろうという疑問も残る。毛布だって何故だかちゃんと被っているし、そもそもベッドに入った覚えすらないのだが。記憶の無さに困惑しながら上半身を起こし、手早く毛布を畳んだあと葵は天馬の方に向き直る。そうしてお待たせ、と言いかけたところで彼女はぎょっとなった。何故ならただでさえ丸っこい天馬の目がいっそう丸くなり、その視線は葵を貫かんばかりの強さで彼女に向けられていたからだ。

「天馬、どうしたの」
「――?、あのさ、葵…」
「ん?」

「…泣いた?」

 そう、困ったように尋ねる天馬の眉は心配そうに垂れ下がっていた。なんだか犬みたい、と思いながら葵は頬に手を当ててみる。すると成る程、確かに頬が濡れていた。涙の跡をはっきりとたどることが出来るくらいだし、もしかしたら目も赤く腫れているのかもしれない。けれど葵は笑ってみせた。なんでもないよ、そう言って天馬を宥める。

「怖い夢でも見たの?」
「ううん、違うよ、たぶん」
「たぶんってなんだよー」
「あははっ。ごめん、よく覚えてない」
「もー、…ま、大丈夫ならいいけどさ。ミーティング行こう!」
「それで私を呼びに来たの?」
「うん。もう皆集まってるよ。でも葵の姿が見えないって言われて、けど自分はいま手が離せないから呼んできてって…水川さんから頼まれたんだよ」
「――、え?」


 思考が軽く停止する。今度は、葵が目を丸くする番だった。


「なんだかやけに心配してるみたいだったよ、葵がいないことに気づいたのも水川さんだったし…いつの間にか仲良くなってたんだね!そうだ、あれからミノタウロスには会えた?」


 天馬の話はまだ続いたが、それらはすべて葵の表面を滑り抜けていく。水川さんが、私を心配?どくん、と心臓が高鳴る。そればかりが葵に驚きをもたらした。不鮮明な映像が頭の中に流れ込んできて、それと今とが静かに重なりあう。しらない景色。けれど知ることになった景色。不器用な、はじめての対話。真っ白な雪が、それから独りでもちゃんと輝いている星の光が、じわじわと葵の心に溶け出していく。そしてぶっきらぼうなミノタウロスの顔が頭をよぎった瞬間、瞬く間にそこはもっと暖かい温度で満たされた。笑いたいような泣きたいような、それでもやっぱり笑いたくなるような不思議な気分だった。


「…ちょっとしたクリスマスプレゼントかも」

 葵がぼそりと呟くと、天馬は驚いたように振り返った。

「――え?」
「…ううん、何でもない!それより早く行こっ、天馬」
「えっ、ちょっ、葵〜!?」
「早く早く!」

 勢いよく起き上がって、葵は駆け出した。待ってよ!と後ろから天馬の慌てた声が聞こえてくるが気にしない。どうせすぐに追い付かれてしまうのだし、それに、自分は早く彼女にお礼を言いにいかなければならないのだから。純粋に嬉しかった。意味だとか理由だとか、そういうむつかしい事柄は今は考えない。彼女がいる、彼女が自分を呼ぶ、水川みのりが自分のことを思ってくれるだけで良かったから。――やっぱり、ただの夢なんかじゃないじゃない!
 軽快に走り出した葵の耳に、しゃらん、と鈴の音が響く。
 曖昧でも、不安でも、少しずつ進んでいけたらいい。自分もあの人も、ひとりぼっちのあの子だって。視線を上げれば見渡せる真っ暗な銀河に、少女はそのいつかを夢見ている。きっと、ずっと。優しい雪が降り積もるあの部屋で。






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ふたりのオリオン/20131225
∴happy merry Christmas!
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