暗く冷たい夜の空の下、頭上に広がる宇宙に想いを馳せていたのは遠い昔の話で。八神玲名を捨て、エイリア学園ジェネシスのウルビダとなった頃の私は、もう空を見上げても何も感じなくなっていた。まばゆい星達が煌めく神秘的な存在だったものは、ただ元からそこにある、広がっているだけの存在へと成り下がっている。それに対してなんの寂寥もなかったのもまた事実で、私はただただ自分に与えられた任務を遂行するための道具として訓練をつんでいた。ひたすらに力を求め、同時にお父様への愛も求めて。そんななかどんどんと冷え切っていく心のなかに溜まるのは、醜くて捻くれた激しい憎悪だけだった。憎い、憎い、憎い。私を愛してくれないお父様が憎い。お父様の大事なものを殺したサッカーが憎い。吉良ヒロトに似ているというだけで、お父様の愛情を受けられた基山ヒロトが憎い。私を認めてくれないすべてのもの、世界が、憎い。そんな感情が水のように溢れ出て来たが、私はそれを止めようとも思わなかった。なぜなら、憎しみが何よりも強い力になったから。人を、世界を憎めば憎むほどその感情が私の心を壊し、道具への道を歩ませてくれた。わずかばかりの理性などすぐに消え、私は人間としての価値を失ったがそれでも良かった。特に同じチームにいて、いつも私の欲しいものを持っていたヒロトへの憎しみは、一番に大きい効力を持っていた。だから私はヒロトを嫌い、憎み、そして壊そうと画策した。早く早く、あいつを消したい!なんで私がリーダーじゃないんだ。私ならもっと上手くやれるのに! ぐちゃぐちゃの嵐となった私の怒りはとどまる事を知らなかった。
ヒロトはしばらくして、変わった。冷酷なはずのグランという「キャラクター」は、あの男――円堂守と知り合ってからは、道具としての価値を失い、私にとって果てしない宇宙がただのものに成り下がって限りある大地に堕ちたように、彼もまたただの人間と化していた。私はさらにそれを憎む。むしろ、その憎しみは昔よりもさらに強くなっていたかもしれない。なぜなら、ヒロトがそうなってもまだお父様に愛されていたから。道具としてではなく、人間として愛してもらえるヒロトが、たまらなく羨ましくて、憎い。世界は無情だ、と思う。私は気づいていた。ヒロトがもう、お父様以外のひとにも必要とされはじめていることに。きっと、お父様の計画を壊すのもあいつだ。あいつのせいで、すべてが駄目になる。じきエイリア学園も崩壊するだろう。なんとなくだけど、円堂守を初めて見てからずっと、強くそう感じていた。円堂守には、他のサッカープレイヤーにはないカリスマ性がある。サッカーを純粋に愛し、敵をもその魅力に引き込む力。それはウルビダであった頃の私にとっては、脅威他ならなかった。
結局、私もその「脅威」に引き込まれる事になるのだが。
「玲奈」
聞き慣れた声が私を呼ぶ。あの事件から、今日で一年の月日が経った事になる。私が園の屋上でひとり空を眺めていると、そんな声が後ろから飛んできた。振り返らずに、私は自分の横の椅子を軽く叩いて座るように促した。その人物は素直に、私の隣に腰を下ろす。綺麗な赤い髪が、少しだけ風に揺れた。熱い炎が煌めいているようだと思った。
「ヒロト」
「珍しいね、玲奈が空を眺めてるなんて」
現れたのは、勿論間違える筈も無く、基山ヒロトだった。ヒロトは相変わらずの人当たりの良い掴み所のない笑顔を浮かべる。ただし、その笑みが昔とは違うと感じるのは、それがあまりにも自然な笑顔だからだろうか。昔は何処か無理をして笑っていたようだが、随分と変わったものだな、と思う。
「別に。たまにはこういうのも良いかと思っただけだ」
「ただの気まぐれ?」
「そうだ」
「…本当にそうなのかなあ」
「…は?」
ヒロトが意味深に言うので言葉の真意を聞き返したのだったが、彼はそれに対してもただ笑みを浮かべるだけだった。なんだ、コイツ。今はヒロトに昔のような(といっても少ししか遡らないのだが)、憎しみを抱く事は無くなったが、それでも彼といるのには少しの抵抗感がある。もともと憎しみを抱いていた相手なのだから仕方ない、と言うのもあるけれど、本当の理由はまた別にあった。ヒロトと会話をしていると、なんだか自分が酷く惨めな存在に思えてきて、それがたまらなく嫌なのだ。今だ地面に縛り付けられている私と、もう既に遥か彼方、星が輝く空へと羽ばたいてしまったヒロト。その距離はひどく、遠くて、私たちを繋ぐ糸は非常に脆い。
「ねえ玲奈」
唐突に、ヒロトが優しい声音で囁いた。私はらしくもなくそれに肩を震わせてから、ばっとヒロトの方に向き直ると、彼の星屑を散りばめたような不思議な煌めきをもつ瞳と視線があった。本当は今すぐに逸らしてしまいたかったのに、彼の瞳は私を捉えて離さなかった。飲み込まれそうだ、とぼんやり思う。
「みんな、待ってるよ」
すぐにはヒロトの言っている事がわからなかった。私は訝しげに眉根を寄せて、顔をしかめさせる。
「……なんのことだ」
「玲奈がもう一度笑えるようになること。もう皆、やっと踏み出し始めてるのに、玲奈だけまだ何かに縛り付けられてる。なあ、見えない鎖で玲奈を縛ってるのは、紛れも無い君自身なんだよ」
ヒロトの顔は真剣だった。真っ直ぐに私を見つめて語りかけて来る様子には、ある種の必死さが感じられる。だけど私はその言葉ひとつひとつが惨めな自分を哀れむ為の慰めのように思えて、苛立ちからカアっと頭が熱くなる。素直に彼の言葉を受け取る事は出来なかった。
「…………お前には…、関係無いよ」
「関係ある」
だって玲奈の事が好きだから。
だけれど、私が拒絶しても、彼はきっぱりとそう言い切り、私から視線を逸らそうとしない。優しい、そうまるで幼子をあやすような口調で語りかけて来る。彼の瞳の星がちかちかと燃えあがりながら輝いて、きらめく。
ヒロトは最後にこう囁いた。
「あの宙で待ってるからさ、早くおいでよ」
暗く冷たい夜の空の下、頭上に広がる宇宙に想いを馳せていたのは遠い昔の話だった。しかし、ウルビダという仮の名を捨てた私はまたあの頃と同じ様に、満天の星空を地上に自分を縛りつけながら羨望の眼差しで見上げている。昼間とは違う眩しさに目を細めながら、ただ見つめ続けているのだ。そんなふうに誰よりも遥か空に焦がれながらも、私を縛る"私"の何かはまだ消えてくれそうにない。私の手が掴む事が出来るのは、今は水に浮かんだ月の儚い幻影だけだ。もしいつか、私が鎖を取り払って、また昔のように笑えるようになったなら。それはまだ夢に過ぎないけれど、いつかきっと叶う、そんな気がした。――それまで、どうしようか。いっそ鎖ごと抱きしめて深海に沈み、地上よりは広いそこでまた空を見上げてみようか。幾分か軽くなった心を感じながら、私は隣にいるヒロトの手にそっと触れてみる。ヒロトは一瞬驚いて目を見開いたけれど、すぐに昔から変わらない微笑みを浮かべた。たまにはこんなふうにに優しくしてやるのも、悪くは無いだろう。
早く私を地球から救い出して/20120518
Title by ギルティ