ああ、まただ。俺は何回頭の中でこの言葉を零しただろうか。練習中、マネージャー達が座っている席の方をちらりと見れば、ぼうっとしていて上の空な姿の空野さんが見えた。その澄んだ瞳の視線を辿れば、泥まみれになりながら練習に励む天馬くんがいる。こんな光景は何回も何回も、嫌になるくらいに見せられた筈なのに、俺の胸は今だに酷く痛み、頭の中はすーっと冷めていった。なんだか馬鹿みたいだけど、それくらい俺は彼女に惚れ込んでいるのだとその度に思い知らされる。そして俺の想いと同じくらい、空野さんの想いも他の男に向いているという現実が、俺に重くのしかかった。
(苦しい)
こんな想い、いっそ忘れてしまえばいいのだろうか。まず、何故自分は空野さんを好きになったのだろう。――どれだけ思いだそうとしても、記憶にフィルターがかかったみたいになっていて、明確なきっかけは分からなかった。いいようのない苛々と、もやもやとした霧が俺の心に立ち込めて、それの気持ち悪さに俺は軽く吐きそうになる。気づかないうちに顔色を悪くしていたのか、何人かに大丈夫かと声を掛けられたが、何も言えなかった。

「葵ーっ見た?俺のシュート!」
ふと、天馬くんが無邪気な声で空野さんを呼んだ。顔に浮かべられるは、太陽のように明るい満面の笑み。俺はその笑顔が嫌いではなかったけど、今ばかりはそれが腹立たしくてしかたなかった。悩みなど何もなさそうな笑みは、さらに俺を苛立たせる。別に天馬くんは何も悪くない、そんなことは俺自身が一番よく分かっていた。
「うん!キマってんじゃん、天馬!」
天馬くんの呼びかけに対して、空野さんはこちらも笑顔で答えた。さっきまであんなに腑抜けた顔をしていたのに。天馬くんが一度顔を向ければ、口角をあげて、俺にはけして向けられる事のない甘い笑みを浮かべる空野さん。それを遠くから見つめる事しかできない、俺。なんて、不毛な想いなんだろう。どす黒い嫉みの感情が心の中でぐるぐると渦巻いて、もうなにもかもめちゃくちゃだった。

「ねえ、空野さん」
練習が終わったあと、一人残って片付けをしていた空野さんに声を掛けた。その時ボトルを洗っていた空野さんは、作業の手を止めながら俺の方を見て、なあに?と聞いてくる。小首を傾げながらこちらを見る動作に軽く見惚れながら、俺は自身の視線をキツいそれに変えながら空野さんを見た。

「空野さんって、天馬くんの事が好きなんだよね?」
刹那。俺の言葉を聞いた途端、笑顔だった彼女の顔はぴしりと硬直し、緩んでいた口は堅く結ばれて、瞳は真剣なものになった。あれ?と俺は疑問に思う。こういう事を聞かれた時には、赤面して恥ずかしがるというパターンが多い筈なのだけれど。まさか真顔になるとは予想していなかった。きっと答えてくれなかったとしても、軽く流すぐらいにはしてくれると思っていたからだ。もしかしてこれは何か聞いてはいけない事を聞いてしまった、いわゆる地雷を踏んでしまった状況なのだろうか。たらりと汗が喉をつたい、俺は少しだけ焦っていた。何か言わなければいけないような気がしたが、こんな時に何を言えばいいのだろうか。焦れば焦るほど答えは遠ざかり、俺は黙りこんでしまう。ああ、まずい。どうしよう。

「狩屋は、酷いね」
ふと、そんな声が聞こえた。俯いていた顔をそっとあげれば、そこには眉を歪ませ、目が少しだけ潤んだ、切なげに笑う空野さんの姿があった。その瞬間、先程まで痛んでいた胸はさらに痛み、心臓をわしづかみされたようになる。空野さんの瞳からは涙が今にもこぼれてしまいそうで、でもそれを拭うことは俺にはできなくて。天馬くんがいたら、どうするのだろう。天馬くんなら、涙を拭って、空野さんを心配出来るのだろうか。―天馬くんなら。
「…それに気づいてるなら、私が天馬を好きでも、それは叶わないことって事も、分かってるんでしょ?」

いや、天馬くんにも、きっと出来ない。
空野さんがどれだけ彼を好きでも、それは叶うことはないって、俺だって知ってたじゃないか。さっきだって、天馬くんが一番に自分の活躍を自慢したのは、空野葵ではない別のあの人で。その時の天馬くんの顔には、本人は気づいていないみたいだったけど今までにない色が交じっていて。だから空野さんの想いはかなりの高い確率で、叶うことはない。酷い言い方かもしれないけど、分かりきった事を聞いてしまった罪悪感から俺の、胸も、頭も、割れそうなくらいにぎりぎり痛んだ。きっと辛いのは空野さんも同じで、俺は自分しか見えていなかったただの馬鹿だ。
(でも、それじゃあ)
自分に問うように俺は考える。だったら、空野さんの涙は誰が拭うことが出来るんだろう?俺でもない、天馬くんでも、ない。なら、誰が。こんなの不毛過ぎて、誰も報われなくて、それこそぐちゃぐちゃじゃないか。
「なら、どうして。空野さんはまだ天馬くんを好きでいるの」
吐き出すように俺は言った。自分でも情けないくらい頼りない声がでてしまう。俺じゃ駄目なの、と本当は聞きたかったけど当然口には出せなかった。空野さんは少し溢れてしまった涙の雫を自分で拭ってから、俺の方にしっかりと向き直り、ばかなの?と呟くように言った。先程から好きな女に罵倒されてばかりで、俺の心はいろいろとずたずたになっていたが、ぐっと堪えた。
「狩屋は、恋して、る?」
「…うん」
「じゃあさ、そのひとのこと、簡単に諦められる?」
言われた事をよく考えてみる。俺が空野さんを諦められるか、その答えははっきりと、NOだ。簡単に諦められるくらいの想いなら、こんなに悩むこともなかったんだから。
「そんなわけ、ないだろ」
「……それなら、私も同じだよ」
空野さんが優しく微笑む。涙はとっくに渇いていて、もう泣いてはいなかった。多分だけど彼女は、きっと根本的に俺より強いんだと思う。嫉妬して勝手に落ち込んで、空回りしている自分よりも、ずっとずっと強い。だから本当はもっと辛くて悲しい筈なのに、こんなにも綺麗に笑うことができるのだ。俺には、絶対に出来ない。
「やっぱりね、好きなんだよ。天馬の事が」
空野さんは自嘲するように笑った。ねえ、空野さん。俺も君がどうしようもなく好きだよ。そんな届かない想いを胸の中にしまい込んでから、俺は空野さんに謝った。変なこと聞いてごめん、と深く頭を下げれば空野さんは、気にしてないよと言いながら手をぱたぱたと振ってみせた。それから狩屋の恋、叶うといいね、と言って俺の背中をとんっと押す。そうだな叶うといいね、けど君にそんなことを言われてしまったらもう無理だろうね。とどめを刺すのは、きっと他でもない君だよ。
そうやって行き場のない想いを抱えた胸が悲鳴をあげていたけど、今度は俺はそれを無視した。自分の醜い感情は知らないふりをして、蓋をして閉じ込めて、前を向く。―それでも俺も、やっぱり好きだから。少しだけ道化を演じて、今は無理矢理笑ってみせるよ。
「まー、ぼちぼち頑張るよ」
そういいながら俺が微笑むと、空野さんもいつもの笑顔になった。きっと彼女は、これからも天馬くんを傷つきながらも好きでい続けるだろう。だから、俺も君を好きなままでいるよ。この不毛な想いを捨てるためのごみ箱は、君と同じように、まだ見つかりそうにないから。




不毛/2012.04.02


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