瀬戸水鳥と図書館、それは全く無縁のものだと誰もが考えるだろう。常に活発でいて勉強が嫌いな彼女と、落ち着いた空間の中で勉強や読書を行うためにある図書館というのを結び付けるのはきわめて困難である。だが、瀬戸としてはそれが真に心外な事であった。
(あたし、図書館来るの好きなんだけどなあ)
サッカー部の練習の無い休日、不満げにそう思いながら瀬戸は近所の図書館に足を運んでいた。彼女は周りが考えるよりも本を読むことが好きで、特に図書館まで行ってゆっくりと本を読むということは休日のひそやかな楽しみにまでなっているほどだった。今日も瀬戸は、いつも陣取っている日当たりのいい隅の席に荷物を置いて、行きずりに買った本を取り出した。その本は、今人気らしく店頭で一際目を引いていたので思わず買ってしまった推理小説である。あまり読まないジャンルだったが、新しく好みを開拓出来るのはいいことだろうと考えながらページをめくった。小さな文字の羅列が、瀬戸の目に飛び込んで来る。
今日の図書館は人が少なく、瀬戸を除くと2、3人の高齢者がいる程度で、いつもよりさらに静かだ。ぱら、とページをめくる音や、小さく談笑する声ぐらいが時折耳に届く。瀬戸はそんな雰囲気の中ひたすらに本を読みつづけた。購入した本は、読んでみると彼女が予想した以上に面白い内容だったため、瀬戸はその世界に自然と引き込まれ夢中になってページをめくった。黙々と集中して読み続けた為、400ページ程のその本はあっという間に読み終えてしまう。姿勢を崩して、椅子の背もたれに寄りかかる。瀬戸は長い間集中していた事によって起こる、独特の心地好い疲労感に自身を委ねた。ああ、面白かった。感嘆するようにふうと深いため息をついて余韻にひたる。そして、しばらくそうした後瀬戸はだらんともたれていた体を起こし、開いたままになっていたページを閉じようと本に手をかけた。
「あれ、瀬戸?」
そんな時だった。突然頭上から、よく通る聞き慣れたアルトボイスが降ってきたのは。びくりと驚いて前方に目を向けると、声の主である人物がこちらも驚きながら立っていた。
「…あれ、神童じゃん」
立っていたのはいかにも高級な私服を身に纏った神童拓人だった。手には難しい漢字の並んだ分厚い本を何冊か抱えており、ああ神童らしいなと瀬戸は思った。神童によおと声を掛けて、自分の前の席に座るよう促す。神童は二つ返事で了承し、音をたてないようしているのか静かに椅子を引いて座った。神童の座り方はとても綺麗だ。背筋がぴんと伸ばされていて、真っすぐに瀬戸を見据える。
「まさか瀬戸と、こんな場所で会うとは思わなかったよ」
神童は苦笑しながら珍しいな、と言った。瀬戸は神童のそんな態度に、むっとなり眉をひそめる。
「なんだよそれ、あたしを馬鹿にしてんのか?」
「いやそうじゃないよ。ただ意外だな、と」
「……よく言われる」
「はは、そうだろう?」
神童は口に手を当てて静かに笑う。瀬戸は神童のそんな様子にやはり少し腹がたったが、まあ事実である事は確かなので唇を尖らせるだけにした。そしてふと、神童が瀬戸の閉じかけの本に目を移した。神童は、その本をじいと見つめながら口を開いた。
「…瀬戸、」
「なに?」
「その本、面白いのか?」
神童が興味深そうに瀬戸に尋ねてきた。瀬戸はおまえのその小難しそうな本よりは面白いよ、と皮肉るように言うと、今度は神童の方が顔をしかめてこういう本だってちゃんと読んで理解したら面白いんだぞ、と不満そうに返してきた。さらにその本を瀬戸に奨めて来もしたが、瀬戸にはその気も無く読み終えられる気もしなかったので、神童の申し出を彼女なりにやんわりと断る。神童はまだ眉を歪めて不満げだっただが、瀬戸はそれをさらっと無視して話を切り替えた。
「あたしはあんたの読むような本は読めないけど、神童はこういう推理小説とか読まないのか?」
「いや、推理小説は読む。…だが、そういう最近の流行りのものはあまり読まないな。例えば―、」
神童が挙げた作家は瀬戸でも聞いた事があるような、国語の教科書などに載っている名前ばかりだった。瀬戸は広い家の中の一室で、名高い文豪達の書いた小説を読み耽る神童を想像した。まったく、驚くほど絵になる、と思った。さすが町1番のお坊ちゃまなだけはある。
「…とにかく、あまり読んだ事がないから興味があるんだ」
ふうん、と言葉を漏らすだけでそれ以上そのことについて何も言うつもりはなかったのだが、瀬戸は神童が先程からちらちらと彼女の買った小説を見ているのに気づき、なんとなく彼の心情を察した。ああ、なんだ。貸してほしいならそう言えば良いのに。瀬戸は半ば呆れながら本を閉じ、ずいっと神童に差し出した。
「貸すよ、読むだろ?」
神童は一回瞬いてから、焦りながらいいよ、と遠慮し断ろうとした。瀬戸はそんな様子な神童に対してため息をつきながら、あんなにちらちら見てたくせに読みたいんだろほら持ってけ!と小声かつ強引に、神童の胸に本を押し付けた。神童は盗み見ていたのがバレたのを恥じているのか少しだけ顔を赤らめたが、何秒かの間をおいて顔を背けながらありがとう、と小声で言った。
「今からすぐ読んで返すから」
「いいよいいよ、ゆっくり家で読めって」
「だが…」
「ああもうめんどくせーなっ!じっくり読んでいいから、ちゃんと感想聞かせろよな」
「……分かった。ありがとうな、瀬戸。お前はなんだかんだ優しいな」
さっきまでしかめっつらをしていたくせに、いきなり甘い笑みを浮かべて微笑むのは反則だと瀬戸は思った。瀬戸としては特に礼を言われる事もしていないのに大袈裟に感謝されてしまった。なんだか恥ずかしくなり、思わず顔を赤らめてしまった瀬戸はその赤らんだ顔を隠すようにそっぽを向いた。
「…べつに」
瀬戸はぶっきらぼうにそう言うと、神童はそんな瀬戸の様子を見てくすりと笑いをこぼした。瀬戸はそれがやはり少しだけ気にくわなく、神童を軽く睨んだが、あの笑みに免じて今だけはこれくらいで許してやろうと思った。なんだか、今日は特に気分が良い。
「そうだ!」
そして突然、神童が何かを思い付いたようにポンと手を叩いた。瀬戸はいきなり神童の声のトーンが上がった為酷く驚く。そんな驚いた様子の瀬戸をよそに、神童は前に向き直って小さな子供みたいにあどけない笑顔で言った。
「瀬戸は今日これから予定は無いか?」
「ああ、うん無いけど?」
「じゃあうちに来て勉強会をしよう!」
「……はあ?」
思いがけない誘いに瀬戸はあからさまに顔をしかめた。神童の家で勉強会?何故、といった疑問が頭の中でぐるぐると巡る。だが当の神童はというと実に楽しそうに話を続けた。
「この本を貸してくれたお礼に、俺が瀬戸に勉強を教えるよ」
「ちょ、なんでだよ!」
「…お前、この前のテストで先生に叱られてたよな?」
「うっ」
神童は爽やかな笑顔でさらりと瀬戸の個人情報を漏らし、瀬戸は直面したくなかった事実を突き付けられ言葉に詰まった。彼女は此処に来るまでの事を思い出していた。実は来る前に寄った本屋で、本当は参考書を買う予定だったのだ。結局勉強用の本が置いてあるコーナーには近寄る事すらしなかったのだが。
「次のテストの点数も低かったら、お前部活にしばらく出られなくなるぞ?」
「ううっ」
「…点数、正直あれはまずいと思うぞ」
「うううっ…って、なんでお前があたしの点数知ってるんだよ!」
「部室に広げっぱなしの答案用紙があったら、そりゃ片付けるだろ」
瀬戸は一気に地獄の底まで突き落とされたような気分になった。彼女は普段から本を読むだけあって国語だけはそれなりの点数が取れるのだが、他、特に理数はからっきしだった。だが部活に行けなくなるのは辛いし、そろそろ勉強をしなければならないと最近自覚しだしたばかりであった。そして、そんなところに神童の誘い。神童はもちろん常に学年でトップクラスの成績をキープしており、彼に勉強を教えてもらっている霧野たちも瀬戸に比べたら断然成績は良かった。よくよく考えてみれば、神童の誘いは受けた方が瀬戸にとってプラスになるのかもしれない。瀬戸はそこまで思考して、この誘いは受けなければいけないという結論に達した。
「分かったよ…しょうがねえなあ、付き合ってやる」
瀬戸は口をすぼめながら渋々了解した。神童はそれを見て仕方ないな、といったふうに肩を竦める。
「…上から目線なのはこの際許すよ。瀬戸には借りがあるからな」
そして神童はじゃあ、ちょっと本を借りて来るから待っててくれと言い残して一旦その場を去った。小走りに去っていく神童を見送りながら、瀬戸は頭に溜まった鬱憤を晴らすかのように大きく深呼吸をして、荷物を片付け始めた。はあ、これから勉強会かあ。瀬戸は勉強をするのがあまり好きではないから、少しだけ口うるさいところがある神童と勉強会をすると考えると憂鬱な気分になる。
しかし、彼の普段は見られない無邪気な笑顔を思い出すと、なぜだか不思議とその憂さも無くなり瀬戸の心はいつもよりも軽やかになるのだった。
神童が来るまでもう少し時間がかかりそうだ。瀬戸は窓の外に目を移し、真昼の光溢れる風景を眺める。流れる時間も瀬戸の心も、驚くほどゆっくりとしていて、穏やかだった。
ゆるやかなカルム/2012.03.30
お題:HENCEさまより