※世界の終末、死ネタ、欝気味など色々注意
世界が、終わる。
地球だけなのか、それとも果てしなく広がっている宇宙全体なのか。それは空野葵には到底分からない事だった。ただ、今日で世界が終わってしまう、穏やかな自分たちの日常が消えてしまうというのは、なんとなくだが理解出来た。それは人間の本能、危機的状況に対する察知能力なのかもしれないが、葵はもうそんな危険な状況についてはなにも感じなかった。否、考えすぎて感じなくなってしまっていた。
(わたし、死ぬのね)
葵は壊れた建物の瓦礫の上をひとりふらふらと、覚束ない足どりで進みながらぼんやりと頭の中で死について考えていた。随分と前から言われていた「大予言」や、「地球の滅亡」。その頃から本気になって信じていたひともいたけれど、大半のひとはテレビに映し出されるそれに半信半疑だった。葵自身もそういうものに興味はありながらも、信じなかった大衆のうちの一人だった。今、当たり前のように続いているこの気怠くも大切な日常が、突然訪れる終焉により壊れてしまうなんて有り得ない。そんなふうにずっと思ってきた。実際にかの有名な先人の大予言だって外れていたし、きっと人々は安心しきってしまっていたのだ。もっとも、早くから人間が危険に気づいていた所でどうにかできた訳でもないのだが。しかしそれでも、と葵は考える。こんなにも突然に訪れる必要があったのだろうか。友人や、両親や、大切な人達と、別れの一つでも告げ合う時間がほしかった。今朝。葵が気がついた時には家があった筈の場所にひとりきりでいた。親の姿は見当たらず、葵は激しく混乱した。訳も分からず泣きながら、朝なのに暗い空の下瓦礫の中をさ迷い歩いていたとき、歎き悲しむ間もなくしずかに死んでゆく人々を見てようやく状況を理解した。テレビの中の映像と自分の置かれている状況とはあまりにも簡単に合致して、ああこれが世界が終わるってことなんだな。と悲しいくらいにすぐ分かってしまったし、そうやって自分を理解させるしかなかった。
(ひとりで死ぬのは、いやだな)
葵は瓦礫の間を縫って、ひたすらに前を向いて進んだ。行く先は決まっておらず、ただ歩くだけだった。止まってしまうと、だんだん近づいて来る死に怯えるように、身体中がたがたと震えがとまらなかったし、何より終わりゆく世界の中ひとりきりでいるのが怖かった。孤独は、何よりも恐ろしい。葵は誰かの温もりを求めてさ迷い続けた。どこまでもどこまでも、終わりのない旅路を進み続ける旅人のように。多分、歩くことそのものが目的だった。
あてもなく歩き続けていたら、いつの間にか雷門中の前についていた。この学び舎も、どこもかしこもがらがらに崩れている。部活で多くの時間過ごしたグラウンドも、友達と笑いあった校舎も、それ以外の建物や噴水や花壇も、シンボルであるイナズママークも、みんな瓦礫やゴミの中に埋まってしまっている。誰の人影もなく、辺りはがらんとしていた。此処でも自分はひとりか、と葵は肩を落として落胆する。だが、死はすぐそこまで来ている。足を止める訳にはいかない。葵が気持ちを切り替え踵を返し、今度は別の方向へと歩きだした時だった。
「おい」
校舎の方から、誰かに声を掛けられた。葵は最初疲れ過ぎたあまりの幻聴かと疑ったが、もう一度名前を呼ぶ声が聞こえたので、声のした方に振り返った。そこには見慣れた少年がぼろぼろの姿で立っていて、葵は目を見開き驚く。
「つるぎ、くん?」
そこに居たのは間違るはずもなく、剣城京介だった。彼の身体は傷つききっていて、煤だらけの身体には、あちこちに出来た切り傷から流れた血がこびりついているし、着ている衣服もところどころ引き裂かれていて、痛々しかった。だがそんな剣城を見て葵は深く安堵する。安心しすぎたあまり泣きそうになり、涙が溢れ出そうになるのを必死に堪えた。剣城は傷ついている。傷ついているけど、確かにちゃんと生きている。一度にいろいろなものを失いすぎた葵には、それが何よりも大切なもののように思えた。葵は剣城くん、と確かめるようにもう一度呼ぶ。剣城は優しい眼差しでそれに応えた。葵はそれがこころから嬉しくて、まだ上手く歩けない足を精一杯動かし剣城に駆け寄った。剣城は瓦礫の上から葵に手を差し延べ、もっと高いところに行こうと、瓦礫の山のてっぺんの方を指差した。葵もそれに賛同し、剣城の手をとって建物の残骸を登り始める。繋いだ手から伝わる温度が、脈拍が、ふたりの生きているという証だった。
瓦礫の山は、見た目はそんなに高さがあるようにも見えなかったが、いざ登りきって下を見ると結構な高さがあった。ふたりが居るそこからは、崩れ、壊された街が一望出来る。どこもかしこも同じような光景だった。葵と剣城は並んで真ん中辺りに座り、無言でその光景を眺めた。ふたりともへらへらと喋る余裕は、ない。
静寂が支配する場所。そこに来て、その日初めて空をじっくりと見ることができた。葵はそのあまりの美しさに息を呑む。空の色はすべてを深く包み込むような藍で、さらにそれは透明な雫のような輝きを含んでいて、いつもより多く見える星たちは、燃えるような赤や艶やかな橙、一際目立つ白、空の藍にも負けない輝きを持つ青など、様々な色を持ちながら煌めいていた。その上には世界の端と端を繋ぐような大きな虹がかかり、地上を明るく照らしている。しばらくすれば、ふわふわとした雪も降ってきた。その雪は綺麗な純白で、葵は自分はこの雪に埋もれて綺麗に死んでゆくのだと思った。冷たい雪の中で、世界の終わりをただ見つめながら。
「俺達、このまま死ぬんだろうか」
剣城が静寂を破り、ぼそりと呟いた。不思議とその声に悲しみは含まれていなかった。あまりにも大きすぎる事実が、ふたりに重くのしかかっていて、悲しむ暇を与えなかったからだ。剣城の問いに葵はうん。と静かに答え、冷たい彼の手をさらに強く握った。剣城もそれに応えるように葵の手を握り返す。剣城の手はとても冷たかったが、微かに体温を感じることが出来た。世界の終わりも自分達の死も、きっと凄く近い。けれど、まだ時間はある。
(最期に何を言おう)
凍ってしまいそうな寒さの為か、また自然に訪れる死の為か。葵もだんだんと眠くなって来ていた。美し過ぎる空の下でまどろみながら、最期に残す言葉を考える。世界への遺言、自分の人生の締めくくりの言葉は何が良いだろうか。生まれ、今まで生きてこられた事への喜びか、今はいない両親への感謝の言葉か、今まで悲しませた相手への懺悔か、それとも。
隣で静かに眠りにつこうとしている、彼への愛の言葉だろうか。
剣城は先程から葵に何か言いたそうにしていた。だが、上手い言葉が見つからないらしく、押し黙ったままだった。だから葵も何か言うのを止める。実際葵も何を言っていいか、どんな言葉が正解かなんて分からなかった。やはり、時間がほしかった。大切な誰かに伝える為の最後のメッセージを考える時間が。ふと今更、自分は剣城に恋をしていたのかもしれない、と思う。いや、葵はきっとずっと剣城が好きだった。サッカーに向き合うときの真剣な眼差しも、たまに見せる優しい横顔も、高みを目指すその志も、すべてが愛しかった。ただ葵も剣城も幼過ぎて、そんな淡く儚い想いには気づく余裕は無かっただけで。それがこんな終わりの時間になってやっと自覚することができたなんて、酷い運命だと葵は思った。切なく、それでいて甘やかな痛みが葵の胸を締め付ける。
世界が、終わる。
本当にその時が来てしまったようだった。空は燃えるような朝焼けに変わり、街じゅうで壊れる音が聞こえる。実際の「それ」は音ではなかったのだが、葵と剣城には確かにそれが音に聞こえた。ある音は嘆くように、またある音は新しい門出を歓喜するように高らかに鳴り響く。葵は迫って来る死に、もう先程までの恐怖は感じていなかった。ああ、結局最期に残す言葉、決められなかったなあ。と、隣にいる剣城を見つめながら考える。もしかしたら遺言など必要ないのかもしれない。どうせ此処で想いを伝えられる事が出来たとしても、それを受け入れてもらえるとは限らないのだから。世界へ言葉を残してもきっと無視されるだけで誰にも届かないだろうし、剣城への愛の言葉など最期の最期に彼を困らせてしまうだけかもしれない。それだったら胸に秘めたまま死ぬ方が、きっといい。葵はそう決心し、深呼吸した。せまりくる閃光、本当に死を迎える一歩手前だった。
「あおい」
彼に名前を呼ばれた。下の名前で呼ばれたのは初めてだった為、葵はどきりとして剣城の目を見つめた。彼の瞳は瓦礫の山の上から手を差し延べてくれた時よりも、さらに優しく温かい光を湛えていた。
「有難う、生まれてきてくれて」
それを聞いた葵が親みたいな事を言うのね、と言うと剣城は可笑しそうに笑う。澄ましたようでもない剣城の、こんなに純粋な笑顔を見たのは初めてだった。少しの間笑ってから、剣城は大切なものを一つ一つ紡ぐように話を続けた。真摯な瞳が持つ光のすべてが、葵に注がれる。
「あのさ、」
剣城の瞳にはいっぱいに煌めく星が散らばっていて、葵はそれをとても美しいと思った。頭上に広がる、あの終わりの空よりもずっとずっと美しいと。理由はよく分からなかった。
「俺、ずっと、お前の事が好きだったんだ」
どくん、と葵の心臓がしずかに高鳴った。剣城は今気づいたばっかりなんだけど、きっとずっと好きだった、と微笑みながら付け足した。葵は締め付けられる胸の痛みに泣きそうになる。本当に、遅すぎるね、こんな死の直前になって。もっと早くに――そう思ってから、自分こそ何も残していなかった事に気がついた。我ながらわがままな自分の考えに、思わず苦笑が漏れる。そうやって温かくなる心とは裏腹に、身体はどんどん冷たくなって、凍える心臓は動くのをやめようとしていた。剣城と葵はそれでも暖かさを求めて、生きたいと望んで、今度は強く抱き合った。愛しい人の心臓よ、どうかもう少しだけ動いていて。そう強く願いながら、ひたすらに互いの温もりを求め合った。ああもっと、私に君の鼓動の音を聴かせて、精一杯に、頑張って耳を澄ますから。絶対に繋いだ手を離さないから。少しでもいいから私よりも長く生きて。お願いだから。
それでもやはり、無情にも終わりは来てしまう。その頃には葵も剣城も死に抗うのを止め、かわりにゆっくりと瞼を閉じた。もうすぐ永遠の終わりが来る。世界に残されたふたりは、幸せで、安らかで、満たされていた。もう何も怖くない。葵はそう思いながら、単純で簡潔で、それでも大切な言葉を選び、口にした。剣城はその言葉に答える代わりに、動かなくなっていた手を最後の力を振り絞って握った。葵もそれを最後に強く握り返す。それからはもう何も分からなくって、彼らの意識はそこで途切れた。同時に、世界も終わる。
例えば世界が滅びたとして、最後に言葉を発するとして、私があなたを、あなたも私を好きだったとして。
ふたりで終焉を迎えられるなら、その時私は、きっと笑っていると思うんだ。
終焉/2012.03.26
お題:HENCEさまより