「君の名前は?」


 にこにこ、なんてオノマトペが直接聞こえてきそうなほど、いつだって明るかった彼の声。
 ガンダレス・バランは時折、それを遠くなってしまった記憶の彼方にぼんやりと思い出す。




 ガンダレスが"彼"と最初に出会ったのは、今はむかし、グランドセレスタギャラクシーが開催されていた頃のことだった。つまり当時は、全宇宙の命運を賭けた壮大な戦いの真っ只中であった訳なのだが――あの頃のガンダレスはというと、その重要性を真に理解してはいなかったにちがいないだろう。何故ならば、まだ幼いガンダレスの思考がいつもどこでも単純明快だったから。たとえ他人の目にその姿がどう映ろうとも、ガンダレスにとっては美しく正しい兄のリュゲルの存在だけがたったひとつの正義であり、揺るぎない真理だったのだ。リュゲルが正しいと言えばそれはガンダレスにとっても正しくて、そのまた逆も然りであった。物心ついたときから、ガンダレスの世界は大好きな兄の存在を中心として回っていた。くるくる、くるくる、くるくると、どこか愚かな軌跡を描きながら。
 ガンダレスはそれだけしか持っていなかったし、また、彼自身も別にそれで構わないと思っていた。決して寂しくはなかった。だって、この世界にはリュゲルがいる。自分自身がいる。世界だなんてそんなもの、その事実さえあればじゅうぶん満ち足りるのだと、ガンダレスはそう信じて疑わなかったのだ。
 だから、ガンダレスが彼と出会ったあの星――緑の惑星、ラトニークにやって来たのも、リュゲルが「行くぞ」と言ったからという、ただそれだけの理由だったはずだ。



「ボクはバンダって言うんだ!」

 美しく透き通った青が、空いっぱいに広がっている日のことだった。
 にこにこ。件の少年は弾けんばかりの笑顔のまま、ガンダレスとリュゲルに向かって元気よく手を差し出した。ガンダレスはそのとびきり高いテンションにおののきながらも、ほぼ反射的に彼の手を握り返した。途端、あたたかい温度がガンダレスの手にじんわりと広がって、がんじょうな甲冑を全身に纏ったような見た目とは対称的にとても柔らかい手だと驚いた。ガンダレスは彼の手を握ったまま、まじまじとその少年――バンダの姿をじっと観察する。にこにこ。にこにこ。得体の知れない少年は、絶え間なく笑ったままだ。

「君の名前は?」

 もう一度、改めて問われてはっとなったガンダレスは、一呼吸置いて自分の名前を小さな声に乗せた。俺は、ガンダレス。さらにその隣、リュゲルがもうバンダの姿など見えていないような態度でラトニーク代表の監督がいる方に歩き始めていたものだから、彼はあわてて大切な兄の名前も付け加えておく。

「それから、あっちはオレの兄ちゃんのリュゲル。すっげーカッコいいんだぞ!」

 ガンダレスが高らかに宣言すると、バンダはぱあっと顔を明るくした。すごい!と興奮した声が森の中に響く。まるでとびきりおいしいご馳走を目の前にしたような表情と、せわしなく動き続ける四肢。なんかいちいち忙しいやつだな――とガンダレスは無意識のうちに自分を棚に上げながら考える。バンダは幼子のようにぴょんぴょんと跳びはねていた。

「ガンダレスくんに、"すっげーカッコいい"リュゲルくん!うん、すぐに覚えるね!教えてくれてありがとう!」

 嬉しそうに、ガンダレスくん、リュゲルくん、と何度も繰り返すバンダの姿はガンダレスにとってとても新鮮なものだった。何故だかは分からないが、ガンダレスが他の紫天王にリュゲルの凄さを語ろうとすると毎回全力であしらわれてしまい、それを日頃から不服に思っている彼としては、彼の思う「カッコいいリュゲル兄像」を素直に肯定してもらえるというのは非常に嬉しき事態だったのだ。案外話のわかるやつじゃないか。思わぬ喜びに、ガンダレスはそれならもっとリュゲルの良さを教えてやろうと口を開きかける。しかしそれは、残念ながら他ならぬリュゲルの呼び声によって遮られてしまった。

「――おい、何をしている?早く来いガンダレス!」
「あっ、リュゲル兄!ちょっと待っててー!」

 すぐ行くから!と続けて叫び、ガンダレスはバンダに別れの挨拶を告げることも、後ろを振り返ることもなく勢いよく走り出す。当時の彼にとってリュゲルの言葉はそれくらい重要で、とても大きな割合を占めるものだったのだ。彼のすべてだったと言っても過言ではないだろう。
 そうして、はぁはぁと息を切らしながら歩きにくい地面を駆け、なんとかリュゲルの元にたどり着いた頃には――彼はもうさきほど知り合ったばかりの少年のことなどあっさり忘れてしまっているのだった。



 ガンダレスがバンダに再会したのは、それから数時間後、ラトニークとの合同練習が行われたときだった。
 一回くらいは一緒に練習をしておいて、ある程度お互いの実力を把握しておいた方が良いのではないかと提案したのはチームラトニークの監督である。他の紫天王ほどグランドセレスタギャラクシー自体に興味がある訳でもなく、単純にすることがなく暇だったというのもあり、バラン兄弟はふたつ返事でその提案を承諾することにした。もろもろの準備を終え、先に来て二人を待っていたラトニークの選手と向き合い、コートに立つ。「兄ちゃんが他のやつらなんか圧倒してやるからな!」となんだかんだはりきっている兄の隣で、ひとり見知った顔を見つけたガンダレスは思わず「あっ」と声を上げた。
(えーっと、たしか…そうだ、バンダ!)
 ガンダレスの霞んだ記憶が一気に鮮明になり、そこでようやく、彼はつい先ほど交わしたばかりのやり取りを思い出すことになる。当のバンダはガンダレスのことを控えめに見つめながら、ひらひらと手を振っていた。

「ガンダレスくん、よろしくねっ」

 練習の始まる前、バンダにそう声をかけられた。ガンダレスは咄嗟に返事することが出来なかったが、彼はそんなこと気にならないとでも言っているかのようににっこりと笑いながらガンダレスの肩をぽんと叩いたあと、すぐ小走りになって所定の位置についた。ガンダレスは目を丸くしたままその姿を見送った。キックオフの笛が鳴り、兄が先手を切って走り出したあとも、彼の掌の温度がそこにしつこく残っていてひどく不思議だった。それは最初にバンダと握手を交わし、笑いかけられたときと同じ気分だった。彼の手は、何度見直したっていかにもつめたそうなほの暗い色合いを保っている。どこにも変化は見られない。それなのに。
(どうしてこんなに、あったかい?)
 うーん、と普段使わないところまで使って考えてみたものの、しかしその謎に満ちた正体はいっこうに分かりそうになかった。



 練習が休憩に入るとすぐ、ガンダレスとリュゲルの元にバンダがとことこと駆けよってきた。そして、「君たち兄弟のためにごはんを作ってきたんだ!」と彼は言う。差し出されたのは硬いつるを編んで作ったらしい手製のかごで、その中には見たこともない植物を半透明の蜜で固めたお菓子(と、思われるなにか)が詰められていた。おお、と、二人とも目をきらきらと輝かせながらかごの中を覗き込む。実はこの兄弟、ラトニークの村へ来る途中に出くわしたマボロシソウにお菓子の家の幻覚を見せられたあと、そのまま何も食べないで練習に入ったのでとてもお腹がすいていたのだ。

「いただきます!」

 二人はさっそくそれにかぶりついた。もしかしたら自分たちにとって危険なものかもしれないという意識はとっくに消え去っており、無防備にもすっかり警戒心ゼロの状態である。けれど実際、バンダがくれたお菓子はファラムの宮殿でさんざん美味しいものを食べてきた二人にとっても非常に美味しいものだった。食感も味も、すべてが他の星の食べ物とは思えないほどガンダレスたちの味覚に合っていたのだ。

「なあ、うまいよコレ!」
「本当かい?良かったぁ、たくさんあるから満足するまで食べてね!……あっ、ガンダレスくん」
「んむ?」

 不意にバンダの指がするりと伸びてきて、ガンダレスの唇の端に優しく触れる。何故か、そのときの彼の周囲は驚くほど静かな空気に満たされていた。そしてその際にも、ガンダレスは彼の持つふわりとしたあたたかさを微かに感じ、目を開いた。
(あ、)

「ごめん。ついてたよ、蜜」

 指についた金色のそれを舐めとりながら、バンダはまた、ガンダレスににっこりと笑いかけた。




「ねぇねぇ」

 あっという間にお菓子を食べ終え、リュゲルが監督の元に行ってしまったあと、残されたガンダレスはひとりラトニークの選手に差し出されたお茶をすすっているところだった。突然響いた声に合わせて顔を上げると、好奇心やら期待やらがない交ぜになったバンダの視線とかち合った。ん?と首を傾げながら、ガンダレスはそのまま何か言いたげなバンダを見つめ返してみる。するとバンダは、身を乗り出さんばかりの勢いで元気よく口を開いた。

「聞きたいんだけど、君たちの住むファラム・オービアスってどんなところ!?」
「ぅえ?」

 バンダの気迫に押されてガンダレスは思わず怯んだが、しかし彼の勢いは衰えない。彼の目は完全にガンダレスとは別の方向を向いていた。

「監督がさ、ファラムオービアスはボクらの想像なんて掠りもしないくらいとってもおっきい星だって言ってたんだけど、それは本当なの?そういえば"カガク"ってのがすっごい進歩してるとも言ってたなあ!あっ、あとあと、空にはきれいな紫色の雲がいつもかかってるっていうのも――」
「ちょ、ちょっと待てっ!」

 唐突なマシンガントークに仰天したガンダレスは、ひとり盛り上がるバンダに慌ててストップをかけた。バンダは無垢な笑顔のまま「どうしたの?」と疑問を返す。

「いや、あんまりにもお前が急ぐからさ……」
「!、ご、ごめん!ボク、知らない世界の話になると口が止まらなくなっちゃうんだ」

 バンダはしゅんとうなだれる。そんな姿を見ていると、最終的になんだか自分の方が悪いような気がしてきてガンダレスはほとほと困り果ててしまった。かくなる上は、と、彼はリュゲルの姿を脳裏に描いてその幻影にすがりつく。いつだってガンダレスの知らないことを教えてくれる立派な兄。生まれてからずっと追いかけ続けていた背中。リュゲルなら、こんなときどうしただろう?
(はっ!もしかしたら…"大人の余裕"をここで異星人に見せつけるべきなんじゃ!)
 そして、ガンダレスが長考の末にたどり着いたのはそんな結論だった。

「おい、お前」
「?、うん」
「ふふん、もう考えはまとまったぞ。おーるおっけーってやつだ。我がファラム・オービアスのことならオレがなんでも話してやろうじゃん!」
「!、ほんとっ!?」

 自慢げに胸を張るガンダレスを見て、バンダはいっそう目を輝かせた。こうも尊敬の眼差しで見られていると、ふだんはいつも誰かを褒める側にいるガンダレスとしてはなんだかむず痒いような照れ臭いような浮わついた気持ちになってしまう。しかし当然、それは決して悪い気分ではない。まるで新しく弟が出来たようだ。すっかり気を良くしたガンダレスはそのままぺらぺらと饒舌に話しはじめた。

「ファラムはな、たしかにすっげぇでっけー星だぞ!建物も、宮殿も、街もなにもかも!夜になると街中がぴかぴか光るんだ」
「へぇ!」
「それでいて強い!あのいまいましいブラックホールさえなけりゃ、ラトニークがいくつあっても勝てないくらいのスッゲー"グンジリョク"を持ってるんだってリュゲル兄が言ってた!」
「へぇー!へぇ!」
「――どうだ、すごいだろ?」
「うん、すごいよガンダレスくん!もっと話して!もっともっと、なんでもいいから聞かせてほしいんだ!」
「お、おう。任せとけ!」

 あることないこと、うろ覚えの知識も交えつつバンダに話しているうちに、自然とガンダレスも楽しくなってきていた。バンダが話を聞くのが上手かったからかもしれない。彼のいちいち過剰な反応や、何もかもを新鮮な驚きに満ちたものとして捉える姿勢をガンダレスは気に入った。彼らの会話は白熱し、練習が再開されるまでずっと続いた。その間にもバンダの温度はずっとガンダレスの肩に残っていた。触れた瞬間のあたたかさを保ったままで。




 練習が終わったあと、熱くなった身体を冷ますためにガンダレスがぶらぶらと辺りを散歩していると、ふたたびバンダに声をかけられた。にっこり。それなのに少しもわざとらしさが感じられない彼の笑顔。 「ちょっと話をしない?」と問いかけられて、それを拒否する気にはなれなかった。もしかしたらそのときには、ガンダレスもバンダに対して興味らしきなにかを抱き始めていたのかもしれない。

「あ」

 おもむろに入り込んだ森の中で、バンダがふと声をあげた。そうして次に屈みこんだかと思えば、彼はその手で小さな虫を拾い上げた。弱々しい光を放つ、ガンダレスの見たことのない虫だった。彼はとりわけおだやかな眼差しをその虫に向けていた。木漏れ日がそんな彼の手元をやわらかく照らし出し、ひんやりと薄暗く冷えた森の中に僅かばかりのきらめきを与えている。

「何してんだ?」
「――飛べないままもたついてたから。手助けをしてあげようと思って」

 不審に思ったガンダレスが問うと、バンダは瀕死の状態(であるようにガンダレスには見えた)の虫をそっと撫でながらそう返した。「がんばれ」となだめるように囁いてから、彼は手を高く上げてその虫を放してやる。青白い、ぼんやりとした微かな光と、そんな虫を見送るバンダの姿。光る虫はすぐ見えなくなった。森の中には同じような虫がたくさんいるので見分けがつくはずもないのだが、ガンダレスの目には、その様子が滑稽なものとしか映らなかった。純粋に不思議に思い、小首を傾げる。モヤモヤとした疑問がガンダレスの心の中に立ち込めた。

「なんで?」

 そのうち、気がつけば、口が勝手に開いていた。バンダは振り向いてガンダレスのことを見つめる。夜の空みたいに深い色の瞳。一瞬それに目を奪われて、それでもガンダレスはなんとか言葉を紡ぐ。

「たぶん、アイツ、もうすぐ死んじゃうだろ?スッゲー弱ってたじゃん」
「うん、そうだね」
「じゃあなんで――なんでわざわざ助けんの?」
「え……ううん?……なんでだろう」
「はぁ?」

 めずらしく煮え切らない返答に、ガンダレスが思わず苛立った声を漏らすと、バンダはごめんねと言いながら頭をかいた。

「あはは、……実は、ボクにも正直分からないんだ。けど、ただボクがあの子を助けてあげたいと思ったから助けただけだよ。たとえ残されたものが短くても、少しだけでも、それでも光を放つ時間が長くなるなら、ボクはきっとうれしいと思うからね」

 そこでバンダはまたにっこりと笑った。その顔が、はじめてひどく寂しそうに見えて、ガンダレスは不意にどきりとなってしまう。

「まあ、ボクがそう信じていたいだけなのかもしれないけど」

 そう言って、バンダは何事もなかったかのように歩き出した。そんな彼の背中を眺めながら何かを言いかけた瞬間、ガンダレスはふと思い出す。ガンダレスに触れたときの、バンダの持つ柔らかなあたたかさ。それがどうしてか、先ほどの虫の姿に重なって見えたのだ。いつか、今にも消えてしまいそうだった、青白いあの光に。
 バンダがあの光と同じものを持っていたということにガンダレスが気がつくのは、彼のまぶたの裏に映るバンダの姿が朧げになってきた頃のことになる。





 そのとき、ガンダレスはとっさに動けなかった。
 地球代表「アースイレブン」との試合中。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると、ガンダレスの世界はいつもとは違う軌道を緩慢な動作で描いていた。はたして自分がちゃんとそこに立てているのか、ガンダレスには分からなかった。頭が重い。世界が一気に逆さまになってしまったような気がする。だって、「それ」の訪れはあまりにも唐突だった。それでいてあまりにも、想像以上に呆気ないものだったのだ。


「――バンダ!」


 アースイレブンの、九坂隆二の叫び声が響く。その声にははっきりと涙と嗚咽が混じっていた。ラトニークの選手がすばやく動き、だれかの遺体がフィールドから外に運ばれていく。かつてバンダと呼ばれた選手が、ガンダレスの視界からだんだんと消えてゆく。まるではじめからそこに存在してなどいなかったかのように。
 バンダ・コローギュが、死んだ。
 試合に夢中になりすぎてつい彼を突き飛ばしてしまってから、そう時間は経っていない。彼の、初対面よりいくらか落ち着いた体温はまだガンダレスの肩に残っていて、だからか不思議と悲しみは込み上げてこなかった。涙も出てくることはなかった。というより、バンダが死んだという実感すらあまり湧かなかったのだと思う。知り合って間もないというのもあっただろうけど、もっと別のものがガンダレスに悲しみを与えようとしなかったように思えた。それゆえに、ガンダレスはただ事態の傍観者でありながら、うつむいて己の掌を見つめることしかできなかった。
(バンダが、死んだ?)
 ずっとあとになっても、自分は本当はあの場にいなかったのではないかとを考えることがある。ただの錯覚で、ガンダレスはちゃんとそこにいたのかもしれないし、しかしやっぱりそこにはいなかったのかもしれない。いつかどこかで、たったひと試合のためだけに用意されたフィールドの景色。それが何重にも重なりあって、結果的に、複雑に混濁してしまった記憶は彼の奥底に眠るさまざまな情景を不鮮明にさせてしまうのだ。どちらにせよ、あの日あの場にいたはずのガンダレスが瞬間的に抱いた空虚な塊は彼の心を確実に苛んで、それと同時に、彼をただ呆然と立ち尽くさせた。
 大好きなリュゲルの声が、どうしてか、今はどこか遠くに響いている。





「――ガンダレス」

 ガンダレスの思考は、その声が届いた瞬間風船のようにぱちんと弾けた。顔を上げ、見れば、そこには、もうひとりの"バンダ"がいた。 おう、と小さく返事をしつつ、ガンダレスはぼんやりとファラム・オービアスの街を眺めた。アースイレブンの協力によって、長い間空を覆っていたブラックホールは宇宙から消え去り、この星は久しぶりに元のあかるさを取り戻すことができた。そして、今はそれを祝してのパーティーが行われている最中で、ガンダレスは一通りのご馳走を食べあさったあと、ぶらり抜け出して宮殿のテラスで涼んでいるところだった。薄紫色に輝く空を見上げながら、ちゃんとした太陽の光をここから拝むのはいつぶりだろう、とガンダレスは考えた。小さな頃は、よくリュゲルとテラスに出て星を見上げたものだ。とりとめのない思い出の中で、いつか見た青い光がふと浮かび上がる。

「なんだか、」

 間を開けて、もうひとりのバンダ――バンダ・コローギュの息子である、バンダJr.が口を開く。

「ボクはずっと昔から、ここに来たかったような気がします」
「――、ふーん?」
「何故だかはよく分からないんだけど。父さんから受け継いだ気持ちの影響もあるのかもしれませんね」

 そう言って、バンダJr.はにっこり笑った。ガンダレスは柵にもたれかかりながら、そんな彼を見て複雑な心境に陥っていた。
 ふしぎだ、と思う。死んだバンダとそっくり同じ形をしているのに、その本質は全く違うだなんて。それから、同時におかしな話だ、とも思う。バンダと会話した時間なんてほんのわずかなものなのに、バンダと彼の息子の違いが触れなくても分かってしまうなんて。

「それにしても綺麗な空ですねぇ。おまけにいい天気。ああ、さっそくサッカーがしたくなってきました!」

 溌剌としたその言葉に、ガンダレスはうげぇと舌を出した。

「えぇー、またー?あんなに疲れたんだからちょっとは休めばいいのに」
「もう回復しましたよ!」
「はやっ!」
「そりゃあ、ぐだくだしている時間なんてもったいないだけでしょう?それとも、ガンダレスはしたくないんですか?サッカー」
「いや、べつにそーいう訳じゃないけどさぁ……」
「ならしましょう!実はボク、明日にはラトニークに帰る予定なんです。もしかしたら一緒にサッカーできるのも、今日が最後かもしれないですよ」
「――、」

 ぴたり、と、ガンダレスは動きを止めた。最後かも。確かにそう発された言葉を繰り返しかみ砕き、飲み込んだあと、彼はそっと目を開く。そのときバンダJr.は笑っていた。最後という言葉の意味を誰よりも理解していながら、そんなことなどなんでもないというふうに、あっけらかんとした表情で笑っていた。
 

「……お前はさ、」

 ガンダレスは静かに問いかける。彼のぼさぼさの黒髪がそよ風に吹かれてゆるゆると靡いた。

「自分たちが他の星のやつらよりも早く死んじまうこと、どう思ってんの」

 ガンダレスの言葉を受けて、バンダJr.は空を見上げ、幸せそうに目を閉じた。

「べつに、なんとも」

 なんとなく予想できていたその答えにガンダレスは思い切り口をへの字に曲げた。ラトニーク人の宿命。生まれる前から決まっている生のしくみ。バンダが死んだあと、ファラム・オービアスに戻ってきてからガンダレスはその事実を知った。あまりの衝撃的な事実に愕然となり、しばらくその場から動けなくなったのを覚えている。しかしそれが分かったことにより、バンダの死の真相が明らかになったのも確かだった。寿命が、尽きた。そう、彼らからすればたったそれだけのことなのだろう。むしろ命ある期間が短かったからこそ、バンダの人生は最期の瞬間に鮮烈な光を放つことができたといってもいいのだ。けれどガンダレスはその結論に反論をせずにはいられなかった。どうしようもなく、それを理解したくなかった。正体の分からないとげとげした感情に苛まれる心が寂しいと訴えていることに、彼自身は全く気がついていないのだけれど。

「……ふんっ!なんか、バンダもおんなじよーなこと言ってた気がするぜ!」
「――ふふ、ガンダレス、怒ってますか?」
「怒ってねぇよ!」
「じゃあ、悲しいですか?」

 ガンダレスはうっ、と言葉を飲んだ。話している内容が内容だというのに、何故か嬉しそうに笑っているバンダを見ていると次第に腹が立ってくる。なんだよ。お前は寂しくないのかよ!

「寂しくは、ないですよ」

 何もかも見透かしているような表情でバンダJr.は言う。その姿に過去のバンダがふわりと重なって、ガンダレスは苦しくなった。つめたい棘が刺さったみたいに心が痛い。それでいて、その痛みは、いつかバンダがくれた体温と同じようにじんわりと温かいのだ。

「だってボクらが生きていたことは、ちゃんと、ガンダレスたちが覚えていてくれるでしょう?」

 バンダJr.は静かな声で言葉を続けた。覚えていてくれる。それは願いのような、祈りのような、とにかくきれいな響きを伴った言葉。確かに、そうだ。ほんの短い間しか彼らと過ごしていないにも関わらず、ガンダレスはいま、彼らのことを忘れたくないと強く思う。そしてその思いはバンダJr.にとっても救いになるらしい。やっぱりその真実はガンダレスにとって不思議きわまりない、不可解なことだった。
 けれど、それでも。
 そよ風に吹かれながら、ガンダレスは、思い出の中でいまだ鮮明に光っているあの小さな虫のことを考えた。儚くて、今にも消えてしまいそうで、しかし確かに生きていたか弱い生き物。ガンダレスは自分の掌をじっと見つめてみる。何にも知らないものならば、この手は何でも壊してしまうだろう。けれど。


『ボクはバンダっていうんだ!』


 少なくとも、自分は彼らの名前を知っている。今もしっかりと、この胸に彼の生きた証を抱いている。

「ねぇ、ガンダレス」
「なんだ?」
「――ボク、君に出会えて良かったです。君だけでなく、君のステキな仲間たちにも、地球の皆さんにも、こうやって出会えて本当に良かった。生まれてきた意味はこの場所にあるんじゃないかと思えるくらい、いまボクは幸せです。それにね、父さんだってそう思ってたって、魂が――父さんのソウルが、ボクに教えてくれるんですよ」
「……ふうん、そ。アイツ、ほんと単純だな。オレ、別にアイツのために何もしてないのに」
「そんなことないですよ!」

 バンダJr.はくるっと回って叫ぶ。「ボクも父さんもガンダレスが大好きだー!」と。あまりに純真な叫び声にガンダレスは思わず赤面し、あわてて止めに入った。まったく、親子そろって唐突なとこは心臓に悪い。いつだって恥ずかしいやつらなんだから!
(でも、嫌いじゃないんだよな)
 しかし最終的にそう思い至ってしまい、ガンダレスはぷっと吹き出した。案外、自分もこの親子には甘いのかもしれない。さっきまでうだうだぐじぐじ落ち込んでいたのが嘘のように、心はどこか晴れやかだった。

「おら、んならさっさと行くぞジュニア!サッカーするんだろっ!」

 ガンダレスはバンダJr.の手を引っ張って、サッカーボールを借りに行こうと走り出す。すると後ろから「はい!」とすこぶる元気な返事が聞こえてきた。それがなんだか嬉しくて、ガンダレスはますます笑みを深くした。出来るなら、このままいつまでも彼と走り続けていたいと思う。それが無理ならば、代わりに、ずっと覚えていたいと願う。短い一生を生きる彼らに、他でもないガンダレスが出会えたその奇跡を。


『ボクが、そう信じていたいだけかも知れないけど』


(バンダ)
 ガンダレスは心の中でその名を呼んだ。胸の奥がつんとなり、その影響で不意に浮かび上がってきた涙を必死に止める。そのとき初めて、ガンダレスはバンダが死んでしまったことを悲しいと思った。話したいことはまだまだたくさんあったのだ。リュゲルの自慢は話し足りなかったし、それにもっと自分のことを知ってほしかった。でも、いくら願ったところであのバンダにはもう二度と会うことができない。彼は死んだ。バンダJr.だって、そう遠くないうちにガンダレスの届かない場所に行ってしまうのだろう。そんな後のことを考えると、少し怖い。

『ガンダレスが、覚えていてくれるでしょう?』

 ――でも。
(バンダ、)
 反芻する言葉と共に、青い光が彼の視界を霞めたのち消えていく。廊下を駆ける彼らには窓から差し込んだ陽光が燦々と降りそそぐ。走りながら、ガンダレスはバンダJr.の手をいっそう強く握りしめた。この瞬間、感じた彼の温度をいつまでも忘れたくないと思ったから。
ガンダレスが選ぶべき選択肢なんて、もうとっくに絞りきられているような、そんな気がした。





 一体、これで、何度目の訪問になるのだろうか。
 四方八方、見渡す限りの深い緑の中を真っ直ぐに進む。青年の深い色の髪の毛は周囲の風景に溶け込んで、すっかり同化してしまっていた。ぼんやりとした暗がりの中、名前の知らない虫たちが微かに発光しながら空気を泳ぐように漂っている。それらのもののを、ガンダレス・バランは素直にきれいだと思った。眼前に広がる緑のことを、ラトニークの大地のことを。
 ガサリ、と音がした。
 ガンダレスは立ち止まる。あの頃よりずいぶん高くなった目線から、ふと見つけた懐かしさに心を奪われた。青い光を発している小さな虫と、それらが浮遊する景色の中にひとり立つ少年の姿。つめたそうな、甲冑を纏ったような姿をしているが、しかしガンダレスはその中に秘められたあたたかい体温の存在をよく知っている。だって、何度も見てきた。何度も何度も、果てしなく続く初めての光景を繰り返してきたのだ。
 あの日知った謎の温度の正体を探す必要は、きっともう無いのだろう。
 グランドセレスタギャラクシーが終わってから、相当な時間が経過した現在。広い宇宙の中で、変わってしまったものも変わらないものもたくさんある。そしてそれらすべてが混ざりあい、いま、ガンダレスの前にたったひとつの現実をつくりだしている。


「……、君は?」


 気がつけば、ガンダレスの前に現れた少年は振り返ってこちらを見つめていた。あどけない表情ときらきらと輝く瞳に、ガンダレスは思わず綻んだ。変わらないもの。それはいま、ガンダレスの目の前で優しい光に包まれて佇んでいるのだ。

「あっ、もしかして他の星からの旅行客さんですか!?わあぁ、ようこそ僕らのラトニークへ!……ラトニーク、どうですか?観光はもう済んだ?まだなら、良ければ僕が道案内を……そうだ、僕の名前はですね!」
「いや、言わなくていい」
「え?」
「ちゃんと知ってる」

 見覚えのある早口なテンションにくすくす笑いを漏らしながら、ガンダレスは不思議そうに首を傾げる少年に真正面から向き合った。そうして、ゆっくりと一歩ずつ近づいていく。これは何度目かの大切な始まりのひとつになるだろうと、そう思うから。
(結局また、会いに来ちまったな)
 ガンダレスは左脇に抱えていたサッカーボールを腕で持ち変えて、少年にすっと差し出した。すると明らかに少年の目が輝いて、爛々と光り出す。どうやら「彼も」また、サッカーを愛する運命の元に生まれてきたようだ。少年は次に、まぶしく鮮やかな期待をたっぷりと込めた眼差しをガンダレスに向けながら、一言。

「あなたのお名前は?」

 握手を求める手と共に発されたその言葉を受けて、ガンダレスはそっと目を閉じた。みずみずしい、爽やかな風が吹き抜ける。まぶしいくらいの青い空は、あの日と変わらない色のまま、二人の頭上に悠然と広がっていた。これからも、自分はこうやって何度も繰り返すのだろうと、そう思う。ガンダレスとは違う時の流れの中を生きる彼らと交わした約束を胸に抱えたまま。愚かで滑稽で優しくて、けれどまっすぐに美しい軌道上で彼自身が見つけた、この優しい景色のために。
(バンダ。)
 さあ、もう一度、新しい世界を始めるのだ。今度もふたり一緒のままで。大丈夫。過去を振り返る必要など、もうどこにもないのだから。ガンダレスはゆっくりと口を開け、そのまますうっと息を吸った。


「――オレの名前は、」






end.
ガンバンアンソロ寄稿作品
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