※R-15、性描写有り






 ほの暗い病棟の中は以前訪れた時と殆ど変わっていない。独特の匂いも、飛び交う様々な話し声も。時折すれ違う見舞い人たちが抱えている切り花の色が唯一の変化だった。しかしそれすらも、季節毎に循環していくような微々たる変化であるのかもしれないけど。今の季節ならどんな花が見頃なのだろう。そんなことを考えながら、足を踏み出した。
 ある暖かい日の午後。天気は快晴。いつの間にか7月ももう半ばに差し掛かっている。高校に進学した僕は――雨宮太陽は、真昼間なのにどこか無機質な闇を閉じ込めているような、そんな病院の廊下を一人で歩いていた。美しくもなんともない、ただ、静かな死の匂いだけが漂っている空間は、長い間入院していたのもあって僕を落ち着かせてくれる。やけに響く足音は不思議と厳粛な雰囲気を纏っていた。僕は周囲の人に怪しまれないぐらいにうっすらと微笑んだ。もうすぐ、久しぶりに、あの人に会える。
 ――それじゃあ、今から、僕の初恋の話をしようか。
 端的に言ってしまえば、お世話になっていた病院の看護師に僕は恋をしていた。それも、現在進行系で。勿論、彼女は年上の女性だ。続きがあるものを過去の話のように語るのはおかしいのかもしれないけど、でも、僕はこういう語り口でしか彼女のことを話せる自信が無いのだ。それは彼女が、――久遠冬花という一人の女性が、未だ、清純な少女のままであるからかもしれない。
 冬花さんはとても優しい人だ。朗らかで、いつもテキパキと働いていて、患者さんや同僚からの信頼も厚いようだった。僕も随分とお世話になった。病室を抜け出した僕を逃げた飼い猫を捕まえるように連れ戻してくれたのはいつも冬花さんだった。サッカーボールに触れていたい欲はいつだって病弱な身体に反比例して元気だったけど、本当は治療の為に病室で休んでおかなければならないというのも、よく分かっていたつもり。それでも好きなんだから仕方ないだろうと言って、いつだったか、僕は冬花さんに飛び切りの笑顔を見せてあげた。生温い空気が流れる曇り空の下、多分僕の作り笑顔はほんものの太陽のように光っていた筈だ。けれど彼女は怒った。それから病棟の入口の方を向いて「帰らなきゃダメよ」と叱ってくれた。その時、首筋に垂れている藤色の後れ毛がとても綺麗だったのを、よく、覚えている。心の表面に薄く張られた膜の中で、そんな砂糖菓子みたいな甘い思い出ばかりが今も息をしている。

 本当に、彼女はどこまでも美しく、それでいて真っすぐだった。かの文豪が求めたようなほんとうのさいわいを、その細く小さな身体ですべて受け止めているようだった。霙が彼女に降り懸かる。厳かで、触れてはいけないような空気が辺りに満ちている。
 ただ、彼女は、腕をなくしたヴィーナスでもあった。
 多分、大事な何かが欠落していたんだ。人間的な何か、この世で最も幸福な感情を、彼女はきっと、何処か遠い場所に忘れてきてしまったのだ。久遠冬花という一つ芸術品を完成させる為に。酷く恐ろしい話だ。その完成品がとても、美しいからこそ。
 彼女が失ってしまった感情を、僕は知らない。残り粕すらもう冷たく白いリノリウムの床に零れて消えてしまったんだろうと思う。窓の向こうへと視線を向ける冬花さんの横顔は本当に綺麗だった。瞳は、沢山の優しさと哀しさとをいっぱいに詰め込んで輝いていた。僕はそんな冬花さんの姿を見ているとどうしてか寂しかったけど、けれど、あんまりにも美しいもんだから、その表情に恋をしてしまったのだ。微かになびく艶やかな髪。形の良い、薄い唇。見慣れた看護師の制服。彼女が纏ったそのどれもがキラキラと淡く光っているように見えた。まるでリアルな万華鏡みたいなんだ。
 彼女と二人きりの空気はいつも澄んでいて、それでいて少し歪んでいた。

 足を踏み出す。一歩一歩前へ進む。病院内ではお静かに、と、何ヶ国語にも訳された看板を視界の端に捉えながらゆっくりと歩く。僕の思考は螺旋の形状を成して体内をぐるぐると巡っていた。その通りすがり、ふと、蛍光灯がジリジリと鈍い音を立てているのを見掛けたが、いけないなあと思いながらも僕はその下を素知らぬ顔で歩き去った。心が不安定になるような不快な音。それだけが、僅かに耳に残り、中々消えてくれなかった。それを掻き消そうと僕はまたサッカーのこと、それから冬花さんのことを考える。ああ、そういえば。
 ――彼女を抱いたのは、一体いつだっただろうか。
 好きだった。純粋な恋だった。だからこそ、彼女を抱くことになった時、僕は言い知れぬ孤独と、恐怖と、罪悪感と、それから高揚を味わった。そう、一度だけ、たった一度だけだけれど、冬花さんが僕に身体を許したことがある。いけないことだと分かっていても身体は収まってくれそうになかった。彼女を覆っていたベールが剥がれる。ぱさりと床に落ちた、あの、軽い音!サッカーの試合中に巻き上がる砂塵よりももっと軽い。僕らはこんな原罪を纏って生きているのかと落胆してしまう程に薄っぺらい音だった。でも、そのあとすぐ訪れた快楽と闇のお陰でそんなことはすぐ忘れられた。心は穏やかだった。解かれた藤色が僕の肩に垂れる。僕を覗き込む冬花さんの瞳は滴るような色艶を浮かべていて、相変わらずとても綺麗だった。彼女はさながら黄金の林檎だった。彼女の唇の端はなまめかしく濡れていた。僕は甘いそこに何度もくちづけて、また、彼女もそれに応えてくれた。生まれたままの姿を僕に見せてくれていた。美しい肢体だった。初恋の純粋な色はなくとも、歪み過ぎて真っ白になってしまった清らかさがそのベッドには横たわっていた。
――ああ、
 彼女と僕が交わりを終え、二人揃って眠ろうとしたとき、冬花さんは僕にキスをした。唇は冷たく濡れていて、先程までの行為の跡が生々しくそこに残っていた。そうして、その時、愚かな僕は初めて悟ったのだ。本気の恋をしたのは初めてだったけど、女の子を抱くのは初めてではなかったから、すぐ気が付いてしまった。…いや、もうとっくに気が付いていたのかもしれない。木漏れ日の下、貴女が好きだと冗談半分に告げたら、「抱いていいよ」と返されたあの時から。
――この人はもう、誰にも恋をしないんだろう。


 たどり着いたその先にあるドアを何秒かまばったあと、2回ほどノックをすればすぐに肯定の返事が返ってきた。僕はその愛おしい声に対して思わずゆるく微笑んだ。病棟の、一番奥の部屋。そこは、その昔僕が使っていた小児用の病室だった。
 大切な秘密を暴くようにドアノブを捻り、中に入る。先程までの溟い雰囲気が嘘のようにその部屋は明るかった。若葉の色をしたカーテンが風に揺れ、その下に備えられている花瓶には知らない花が活けられていた。真っすぐに茎を伸ばし、楚々とした様子で咲いている。そしてその隣に冬花さんは立っていた。窓から差し込む白い光が邪魔で彼女の顔がよく見えない。けれど、何故か、彼女が寂しそうに笑っていることだけ識別出来た。
 
「久しぶりね、太陽くん」

 高校生になったんだね、だとか、元気にしてた、だとか、そういう他愛ない話題を紡ぐ朗らかで優しい声が、僕の耳にじんわりと染み込んでいく。あの日跳ね上がっていたような嬌声の片鱗も見られない、清らかな冬花さん。僕は笑った。今にも白光の中に溶けてしまいそうな、半透明の冬花さん。僕は少しずつ彼女に近付いた。羽根のように軽々とした足を運ぶ。大事に大事に、その空間を壊してしまおうとする。
 漸く顔を見せてくれた、美しい冬花さん。
 本当に、何も変わっていない。僕はやっと捉えることの出来た彼女の全貌に深く安堵した。いつぶりだろうか。こうして真正面から向き合えるのは。忙しくて全く会う機会が得られなかったから、最近は顔すら見られていなかった。僕は愛おしさに身を任せて彼女を抱きしめた。それから、ほら、身長、追い付いただろう?耳元で囁いてみせる。きっと貴女は成長したわねと笑ってくれるのだろう。最近の子は怖いわね、と、茶化すのかもしれない。僕は彼女の肩に顔を埋めた。懐かしい匂いがした。瞳を開けば、視界の端に、微かに藤色が映りこんだ。僕は過去を思い返し、今さらのように浮かび上がってきた応えを繰り返す。美しかった、世界のすべてが。あなたのすべてが、心から好きだったんだよ。冬花さん、

 その時だった。冬花さんが唐突に、僕の頭を撫でたのは。我が儘な子供を窘めるような手つきだった。冬花さんの唇が浅く空気を吸ったのが、触れ合った肩の動きで分かった。
 彼女の欠落した人間らしい感情の行方を僕は知らない。けど、僕よりずっと高い位置に在るんだろうということは、何となく分かる。分かってしまう。だから僕は不必要に空を見上げるのが嫌いだ。夜の闇と、閉ざされた空間で、淫らに哀しく響いていた彼女の声だけに、今も恋い焦がれているのだ。好きだった、とても。愛していた、誰よりも。だから、僕はあの部屋に向かって手を伸ばす。白い光に包まれた貴女の身体。もう恋はしないと、口に出さずに告げられた甘い絶望と、無垢な罪。そして、それでも子供を、僕を嫌いになれない貴女を、まだ、僕は、上手に受け止められずにいる。


「太陽くん、ごめんね」


 ――ああ、悲しまないで、僕のヴィーナス。





―――――――――――

一周年リクエスト
女神の部屋/20130704
×