瞬く星に見えたのは、都会の疲れた車たちのヘッドライトだった。
俺は、いや、私は。すっかり慣れてしまった堅苦しい一人称を頭の中で反芻させていると更に肺の中が重たく沈んでゆく。私は、…いや、やっぱり、――俺は。一体、どうしてこんな冷たい気分に襲われなくてはいけないのか。虚しい気分にならなくては、いけないのか。全くもって分かりやしない。ようやく大人になれたというのに、捜し物を見つける為の右手は動かなくなってしまった。革の手袋に包まれながら、心の中で死んでしまった。だから俺はもう、それらを無くしてしまったのだと思う。子供の頃よりずっと、気持ちの押し込め方が下手になった。
ミラーに写る光の数々はやけに眩しかった。霞んだ夜の空を背景に帰路へ着いた、都会に煌めく偽物の星屑たち。
「虎丸さん」
助手席から気怠げな様子で俺を呼ぶ声が聞こえてきて、俺の心にはひとつ、また鉛が落とされる。安全運転の為、それから、強い彼女から逃げる為に、俺は視線を前から離さない。だから彼女のピンク色がどんなふうに光に照らされていたのか、俺は知らない。声だけで返事をした。
「なんですか、夕香さん」
「…ねえ。どうして今日は、そんなに機嫌悪いの?」
「機嫌悪くなんかありません」
「悪いわ。だって、私と目を合わせてくれないじゃない」
――それに、眉間にシワだって寄ってる。
ぴくりと眉が震える。シートにもたれ、次第に苛立った様子をあらわにし始めた彼女には、また無機質な言葉を返しておいた。
どうして。それは則ち、理由。原因。そんなものを知りたいのは俺の方だった。彼女はまだ子供で、俺は一応大人になった筈なのに。彼女に宥められている俺の方が、まるで子供みたいじゃあないか。俺は、自分の頭の中で閃光がバチバチと鈍く弾けるのを感じた。そして次の瞬間、フラッシュバックを起こす。頭に映し出される鮮やかな光景。認めたくはないけれど、俺の、機嫌を損ねた要因のひとつ。
彼女は子供。高校生。子供には子供なりの輝かしい世界が広がっていることくらい、かつて幸せな少年時代を過ごしてきた俺は充分過ぎる程知っている。だから彼女の生活について俺が何かを言う必要も、資格も本当はなくて。寧ろ楽しい青春を過ごしてくれているなら、それで良い筈なのだ。
――好きです!
けど、彼女に向けられた別の男の青い声は、紛れも無く、俺にとって酷く不快なものだった。
「今日」
「…なによ?」
「告白されてましたよね、夕香さん」
「――、な」
「あの、いかにも爽やかそうな運動部系の。返事はどうしたんです?」
彼女は呆気にとられたように情けない声を上げた。対する俺は、きっと今までで一番刺々しく低い声を出していたと思う。無意識な自制も、意識的な牽制も、今の俺には全く無意味なものであるのだ。脳内では一度思い出してしまった光景がしぶとく残り続け、忘れようとしても忘れられず、気持ちの悪い摩擦を起こしていた。次第に、皮膚の隅々まで苛立ち始めていた。今現在、自分の表情がどうなっているかなんて絶対に見たくない。得体の知れない何かがどうしようもなく溢れ出してしまっているみっともない表情を、俺は知りたくなかった。その時、俺の心の中では混乱と同時に深い恐怖がどろどろと渦を巻いていた。
時を遡り、彼女が通う高校においての放課の時間帯。彼女が中々やって来ないので何となく待ち合わせ場所で暇つぶしをしていたが、あまりにも来るのが遅いので少し心配になった俺は車を停めて学校に向かい歩いていった。そして、学校近くの、曲がり角。そこに夕香さんともう一人――同年代と思わしき、男子生徒が二人でいるのを見てしまったのだ。表情、雰囲気、微かに聞こえて来る声。それらが示しているのが青春特有の閉鎖された緊張感の中行われる甘いものだということを俺が悟るまで、差ほど時間は要しなかった。だから、俺はその場から逃げた。車を停めた場所まで帰り、運転席に乗って、深呼吸をした。あまりにも動揺を見せた自分にまず驚いた。俺は、一体どうしてしまったんだろう。色々なことを悶々と考えながら、俺は耳にこびりついた若い声を引きはがすのに必死になっていた。
「…見てたのね」
「偶然。すみません」
「――返事は、…断ったわ。あの人良い人だから、悪いことしたかもしれないけど」
「……そうですか」
東京の道路は、いつだって明るい。偽物の星、それから、そびえ立つビルの群れ、ひしめく住宅街。そのすべてが、人の為に存在していて、寂しさを紛らわせてくれる。そんな中俺は、ひとりぼんやりと暗い闇の中を走っていた。高級な手袋に汗が滲む。寂しさや虚空を掴む感覚が、心の中を入れ代わり立ち代わり、満たしている。何で、こんな気持ちに。ほんとうは答えも見えている。道だって分かっている。けれど、変わってしまうことへの、認めてしまうことへの恐怖が、俺を孤独の暗闇へと走らせる。胸を刺す痛みは彼女とあの男に対する嫉妬で、それはもう、ごまかしようがないのに。彼女が、恩人の妹だというポジションから変わってしまうのが、どうしても怖い。大切に育ててきた何もかもが壊れるのではないか、そんな根拠の不確かな不安が俺の胸を締め付ける。結局のところ、彼女は強い子供で、俺は弱い大人だった。凍りついた手袋を嵌めたまま、ハンドルを想いとは違う方向へ走らせてしまうような、そんな不器用な大人。偽物の光に満たされている。満足している。暗闇は、そんな俺の安心できる場所。俺は、彼女のことが。――それなのに。
「着きましたよ、夕香さん」
ヘッドライトが消える。彼女の自宅前に到着し、俺はドアを開けて出るように促した。しかし彼女は動かない。変な話をしてしまったからだろうか。久しぶりに見たような気がする彼女の髪の毛は、マンションから零れ出る淡い光に照らされて艶やかに光っていた。
「…なんか、苛々してたみたいですね、俺。すみません。気にしないでいいですよ、それより、さあ早く。お家の方が心配します」
中々降りようとしない彼女の肩に、聞こえないくらいのため息を吐きながら俺は声をかけた。すると、唐突に、彼女が振り返った。真っ黒な瞳が俺を映す。気が付いた時にはもう遅かった。俺は彼女の中にいた。甘い甘い、闇の中に。捉えられたらもう、大人という脆い建前の元に視線を逸らすことは、叶わない。
「――虎丸さん」
春の薄い闇が取り巻く車内、夕香さんの瞳に映る俺は、きっととても変な顔をしていたに違いない。彼女の瞳は魔力だった。甘ったれた暗闇に迷い込んだ俺を一瞬にして引き上げ、強い力で肺を叩く。思った通りに言葉を発することの出来ない俺は、それに翻弄されて動けない。彼女は強かった。俺は、弱かった。分かりきっている事実に抗うことの出来ないまま、俺は今日も、貴女に好きだと告げることが出来ない。
ねぇ、と、静かに俺を呼ぶ声は、何処までも平たく渇いていた。ただ瞳だけが綺麗に潤み、俺のことを離さなかった。私待ってるのよ、そう彼女は言う。悲しげに、切なげに放たれた言葉が再び俺の詰まった肺を叩く。私待ってるの。どうか、もう目を逸らさないで。立ち止まっているのは貴方だけなのよ。ねぇ、だから、
「早くわたしを、ちゃんと見て」
そこには、本物の星が光っていた。
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瞼の裏の光芒/20130206
Title by 青