「フェイ」
そっと、静かに名前を呼ばれる。低く落ち着いた息がフェイの耳に沈んでいく頃には彼は温かな抱擁の中にいた。衣服のこすれる音が微かに響くだけ、それ意外何の音もしない冷えた部屋の中。差し込む渇いた夕日を浴びながら、自分を抱きしめてきた少年の名をフェイも呼ぶ。彼の手は幾分か自分のよりも冷たかった。
「サル、どうしたの」
――セカンドステージ・チルドレン。それは進化を遂げた力を持って生まれてきた可哀相な子供たちの総称である。そしてその看板、SSCの皇帝の座に君臨しているのがこの少年、サルことサリュー・エヴァンだった。皇帝、つまり沢山の子供たちのトップに立っているためか、彼は滅多にその表情や態度を崩しはしない。いつだって背をピンと伸ばしてフェイや仲間たちに指示をだしてくれる頼れるキャプテンだ。しかし、今のサルからは普段のような気迫は感じられない。嘘みたいに静かになった挙げ句、彼は縋り付くようにフェイを抱きしめている。フェイはこれから自分がどうすれば良いのか、また彼は何故こんなふうになってしまったのかということについて暫く考えてみたが、一向に答えは出てこなかった。サルはテレパシーを使って人の思考を自由に読み取れるけれど、フェイにはそんな能力は備わっていない。それに、サルは今まで決してフェイに本心を明かそうとはしなかった。いつだって置いていかれるのはフェイの方なのだ。それは寂しく、もどかしくもあり、また何となく当然のことのようにも思える事実だった。
「ねぇ、フェイ」
「――ん、何」
「…僕はさ、」
「うん」
「僕は、お前が遠い何処かに行ってしまうような気がしてならないんだ」
―――背中に当たる太陽の光は熱く、眩しかった。鮮やかな橙と濃紺に染まる空は思わず見惚れてしまう程の神々しい美しさを纏っている。星も綺麗にちらつき始めていて、まったく、申し分ない景色だ。しかし同時に、フェイにはその光景が酷く寂しげなものにも見えた。もしかすると、きつい腕の力でフェイを包む彼の掠れた声に影響を受けてしまっているのかもしれない。そうぼんやり思いながら睫毛を伏せれば、青と橙の混じった光がぎゅっと縮んだまま鋭い光を放った。フェイはやはりとても寂しかった。そしてきっと、サルも同様に寂しくて、やるせないのだと思った。
「フェイ、お前は何処に行ってしまうんだろうね」
「そんな、…僕は何処にも行かないよ?――サル、どうしちゃったんだよ」
「なぁ、嘘をつくなよ。君はもうすぐエルドラドのおじさんたちの邪魔をしに過去へ旅立つじゃないか」
「それは君の命令だろ?」
「……ああ、僕、どうして君を選んだんだっけ」
「しらない。…むしろ僕が聞きたいくらいだ」
そう言い返すとサルの腕の力はいっそう強くなり、フェイはたまらず瞳を閉じた。小さな皇帝というのは加減を知らず、肉体的にも精神的にもフェイは常日頃から振り回され続けている。頼れるリーダーでありながら、実のところサルはとても面倒な人であった。純粋な力を求め、後ろを見ようとしない。ただひたすらに前を、夢のような未来を見ている。恐らくサルは、彼の後ろにちゃんと仲間が――フェイがいることにすら、気が付いていないのだろう。そしてその癖、時折このように変に寂しがるのだから大変だ。彼は何処までも自分に都合の良い子供なのだと、フェイは思う。それでもサルを嫌いになれないのは、フェイが安心して縋れる人間が外ならぬ彼一人だけだったからなのだけれど。
サルの冷たい吐息がフェイの首筋を擽った。くすぐったいよ、という小さな反抗は届かずに、代わりにかは分からないがフェイの頭に添えられた手だけが動いた。そして、サルは再び口を開いた。窓越しに見える彼の背中は、いつもより少しだけ小さく見える。
「……けど、それに、問題はそこじゃあないんだ」
「は?」
「物理的に何処かに行ってしまうんじゃなくて、もっと根本から君が変わってしまうような気がして――」
――とても、怖いんだよ。
その言葉は、とても優しい響きを持って静まった部屋に響いた。彼のつぶやきはフェイの頭で反芻し、幾重にも広がっていく波紋を作り上げていく。たおやかに澄んだ水面をうねらしていく。収縮した強い残照が、その表面をぼんやりと撫でて、青い煌めきを放っている。
小さな皇帝が、巨大な力を持ち得た王が、フェイを駒のように使役する少年が――。何が怖いと言うのか。フェイは霞んだ思考を回転させて考えてみたが、特に思い当たる節は無かった。それ故に、気まぐれな彼の突然の言動はフェイにとって不思議なものでしかなかった。だけど、何も察することの出来ない代わりに、フェイは冷えたサルの肩に顔を埋める。どんなに遠い存在であったとしても彼はフェイの友達で、また純粋に、フェイは彼のそばにいたかった。サルの孤独を僅かでも埋められるならどんなことでもしたいのだと、強く思った。――寂しいのは、フェイも同じだったのだ。セカンドステージ・チルドレン。可哀相な子供達が集まって出来た組織、フェーダ。自分たちの世界を守る為に、もう寂しくならないように、フェイは時空を越える。それに不安が無いといえば嘘になる。しかし、父親と離れ離れになったあの日から、フェイはこのことにしか生きていく意味を見いだせていなかった。初めての使命は、フェイの心をより一層強固な信念へと塗り替えたのだ。
世界より、自分自身を、仲間を、そして彼を選んだ。
「サリュー」
それは、二人にだけ分かる合図だった。短いようで長いような、でもやはり一瞬の間を挟んで、サルはフェイの肩を離した。底の見えない瞳がフェイを捕らえ、夕日に照らされた部屋がその後ろを囲うように存在している。鋭く幻想的な光は消え、今は炎のようにすべてを満たした。美しいと、素直に思った。
対称的に、サルの瞳はゆっくりと細められる。サルは、フェイを通して遠くに何かを見ているようだった。それが何なのか、自分に分かる日は来ないのだろうとぼんやり彼は思った。少しの間を置き、やがてサルの視線も途切れ、代わりにガチャリという無機質な音が響いた。引き金に手が掛けられる。フェイは、目を閉じた。最後に彼の瞳が映したサルは、何故だか酷く悲しげな表情で笑っていた。
「――さよなら、僕のフェイ」
フェイがそれからの記憶を思い出すことになるのは、随分と長い時を経て二人が再会したあとのことである。
「――天馬!」
――――――――――――
君がまだ抱きしめられていたことに気づかなかった頃の話/20130123
×