「俺、なんで中途半端に生まれて来たんだろうなあ、って思うんだ」

 夜空を彩る光は、街の明かりのせいで見えやしない。俺はああいうネオンの光や、甘ったるいくせに臭い街のにおいが嫌いだ。田舎に住んでいる婆ちゃん家に帰るたびにいつも空気の新鮮さに圧倒される。都会のあれこれが物凄く嫌いという訳でもないけれど、将来、就職して結婚して子供が生まれたら田舎に住むんだと決めていた。嘘みたいに透き通った青空と、新緑に覆われた山に囲まれて子供とサッカーをするのが、今の俺のひそやかで普通でちっぽけな夢。
 隣に座る一之瀬は、ブラックコーヒーを飲みながら、星空を見上げて唐突に話し出した俺を不思議そうな視線で眺め回した。俺は苦いものがあまり得意ではないからコーラを飲む。炭酸の感触はなんだか喉に優しい気がした。一気に飲み込んで、ぷはっと息を吐き出すと、一之瀬の方からアイツのいつもの甘い声が飛んできた。一之瀬の眉間には、シワが沢山刻まれていて、それには疑問とか不可解だとかそういう感情が含まれているような気がした。

「…なんでそういう風に思うわけ?」
「一之瀬みたいな奴には分かんないだろうけどさ、普通過ぎるっていうのは結構しんどいんだよ」
「ふーん…そうかなあ」
「一之瀬は俺みたいな凡人じゃないから、多分考えても一生思い付かないと思う」
「そうかなあ」

 一之瀬は非常にお人よしだから、それは違うかも、などとなけなしの優しい思考を巡らせている事だろう。でも、これはどうしようもない事なのだ。事実なのだから仕方ないとあっさり割り切れてしまうほど、高い高い壁が俺と一之瀬の間には存在している。地面の奥底から伸びて、それから空を切り裂くような高く頑丈な才能の壁。俺だって昔は、その壁を見上げたり、攀じ登ろうとした事だってある。それくらい、今考えたら実に不相応な夢を浮かべていたからな。けれど、いつしか俺は自然とその壁を登ることを諦めた。高すぎる夢を見上げるのは眩し過ぎてすぐ止めざるをえなかった。頑張ろうと壁に掛けた手は、爪がぼろぼろになってしまったから断念した。才能がなくても努力すればなんて、そんな事をちゃんと実行することに、疲れてしまった。
 人間の色々な割合は必ず100で出来ているのだと、母さんはよく口にしていた。夢を諦めてしまった頃に改めてその話を聞いて、まったくその通りだと思った。平凡な人間は壁を登れないけれど、代わりに些細だが沢山の夢を見ることは出来る。それは田舎に住む夢だったり、息子とサッカーをする夢だったり。こっちにだって無限の可能性があると言い張って、壁の向こうから目を逸らす事が出来る。下手に才能を持ってしまった人間より、平凡な人間の努力はずっと少ないと思う。その変わり、果てしない希望やら夢の向こうには、一生かかっても辿り着けないけれど。だから、時たま俺はやっぱり上を見上げてしまう。中途半端が嫌だ、なんて言いながら、結局はその眩しさにやられて視線を落としてしまうくせに。何が幸せで何が不幸せかなんて誰かが決めることでもないし、それはそれでアリであってほしいけど。


「半田の言ってる事、…たしかにわかんないけどさ」
「ん、だろ?」
「…でも、さ」
「なんだよ」


 俺の実にくだらない話を黙って聞いていた一之瀬は、夜空と同じ色をしたコーヒーをぐびぐびと飲み込んだ。うわ、マズい。絶対に美味しくない…と顔をしかめる俺の横で、どうやら一之瀬は中身をすべて飲み干したらしく、いつも通りの気さくな微笑みを浮かべた。いつもと同じ笑顔なのに、なんだか夜の中に溶けてしまいそうなくらい不安定だったのもよく覚えてる。

「俺は、半田になりたかったよ」
「………――はぁ?」

 間をたっぷりと溜めて、俺は思わず変な声を上げてしまった。はあ?俺に?この、普通な俺に?なりたい?その時、俺の脳内を占めていたのは純粋な疑問だった。訳がわからない。一之瀬みたいに、才能に溢れ人望も厚く、可愛い幼なじみなんかもいる選ばれた人間が、この俺に「なりたい」なんて。贅沢だと思うし、価値観が違うのかなと妙に納得もしてしまう。
 一之瀬は、ほんとうに変な奴だ。出会った頃からやけに達観していて、そのくせ思い込み過ぎて俺達を心配させる、変な奴。危なっかしい奴とも表現出来る。俺はそんな一之瀬をいつも放っておけなくて、何故かいつも一之瀬と一緒にいた。今だって、それは同じな訳で。
 一之瀬は思考の渦に置いてきぼりをくらっている俺を見ないで立ち上がった。街灯の光が一之瀬の整った光に当たって、ぬらぬらと揺らいでいる。俺はその光を綺麗だと思った。人工的な光は、嫌いな筈なんだけど。

「――帰る?」

 一之瀬が唐突に尋ねてくる。俺は驚きながらも、慌てて安物の腕時計を見遣った。かなり遅い時間帯だ。一之瀬と話していたい気持ちも残っていたが、そろそろ帰らなければ。

「え、あ、…うん」
「じゃあ行こう」

 そこで一之瀬は、こちらを向いて微笑んだ。それから、遠くの方に設置されているごみ箱に、ブラックコーヒーの缶を投げる。びゅん、と鋭い音が一瞬して、次にガコォンと大きな音が響いた。見事に命中。役目を失った空き缶は、これからリサイクルされて別の何かになるのだろう。
 俺も一之瀬の真似をして投げてみた。しかし、俺の投げた缶は途中で軌道を大きく変えて、地面に衝突してしまった。こんなところでも俺は一之瀬と違うのか、と、諦めた筈なのにやはり寂しくなる。砂に塗れながらぽつんと佇んでいる空き缶を、俺は拾いにいく。

「半田と俺は、同じ所に行けないんだね」

 その時、一之瀬が小さく呟いた言葉を俺は見逃さなかった。同じ所に、行けないんだね。俺は未来の一之瀬を想像してみる。一之瀬には、きっと田舎暮らしも豊かな自然もちっぽけな幸福も似合わない。派手できらびやかな世界に彼は立つのだ。そこは俺にとって、一番遠い場所。今でこそ一之瀬は大切な存在だけど、いつか、必ず離れなければならない時が来るのだ。空き缶を拾い、ごみ箱に投げ捨てながら、俺はため息をつく。そして、馬鹿みたいに願う。ああ、今すぐ、この街の光のすべてが消えてしまえば良いのに。






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いいこの末路/20121020
「loss」企画提出文
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