「レイザ」
レイザの背中に触れた熱は、温かい筈なのに何故か少し冷えていた。甘えるような声にレイザも「なんだ」と一見素っ気ないようでつとめて優しい返事を返す。するとすぐに手を握られた。こちらも、どことなく冷たい。レイザは目を細め、背中合わせの状態になっているエイナムの肩にそっと頭を預けた。
「どうした、エイナム」
「――胃痛がする」
「…またアルファの事か?」
「全部だよ、全部」
「全部?」
「もう疲れたんだ。何なんだ皆。アルファは俺が心底尊敬してやまない素晴らしい人だけど変な口癖作るしすぐ消えちゃったし、ベータはベータでなぜか俺にだけ嫌がらせしてくるしもうなんか苛々するし結局消えたし、新しいキャプテンのガンマは自慢話ばかりして…いや、押し付けてくるし!何なんだもう!」
背中越しに次々に愚痴を発してくるエイナムは、こういう時に限るが非常に饒舌である。興奮しているのか顔はほんのりと赤く、そんな彼の姿がまるでひと昔前――未来の新技術で酒を飲んでも酔わなくなる薬が開発する前――の酔っ払いのようだとは、流石にエイナムの胃痛を酷くしかねないので口には出さない。レイザは、エイナムの愚痴を黙って聞いているだけだ。ただ手を握って、冷えきった彼のなにもかもを温めるように。それからしばらくの間、溜め込んだ彼の愚痴は止まなかった。
でも、そんなことでも、エイナムの心はいつの間にか確実に癒されている。体温も上がってきて、繋いだ手から人間らしい温かさが伝わってくる。プロトコルオメガという組織においてエイナムは参謀として非常に信頼を得ており、少しの失態程度では牢獄行きになることはないのだが、その分参謀の仕事は厳しく辛く険しい。くせ者揃いのキャプテンの補佐や世話、チームの統制、管理、と言い出したらキリがない程の重圧が彼には掛かる。勿論組織に忠誠を誓うエイナムは「信頼されているのだ」という事実を糧にしてそういう事も甘んじて受け入れているつもりである。だがいくら彼でも、日頃溜まった愚痴やストレスを解消する場がないというのはひどい胃痛を起こすレベルで辛かった。
そんなエイナムの「心のよりどころ」というのが、彼と組織内で特に砕けた対等な関係にある、レイザという訳である。エイナムとレイザは仲が良い。エイナムは、自分の話を聞いてくれて、時にアドバイスや慰めの言葉を掛けてくれるレイザの事を、実を言うとこの組織の誰よりも信頼していた。大切な相棒だった。
「はー…っ」
「エイナム、…少しは楽になったか?」
「ああ、少しは」
「それなら良かった」
「…あの、レイザ」
「なんだ」
「いつもすまないな、こう、何か相談したいことがあるといつもお前の所に来てしまうんだ」
「…馬鹿め」
「――え」
「そういう時は、ありがとう、だろう?」
そう言って、レイザはにやにやと楽しそうに笑ってみせる。彼女は別にこうやってエイナムに頼られる事が嫌ではなかった。むしろ信頼を寄せられていることは彼女があまりあらわにしない「嬉しい」という部類に分類されるもので、そこをエイナムはあまり理解していないようだと思った。エイナムにとってそうであるように、またレイザにとっても、エイナムは大切で掛け替えのない相棒だったのだ。もし彼がチームから欠けたら、と考えると、大切な参謀を失うという事実以外にもレイザ自身が深い傷を負うだろうという確信的な予感すらある。それだけ信頼しているのだ。
エイナムは、じっくりと時間を掛けてレイザの言葉を理解したあと、少しして小さく「ありがとう」と発した。彼の手は今、照れているのか汗ばんでいる。レイザはエイナムの言葉に対して満足げに「それで良い」と返した。すると何故か、そんな彼の手が一瞬離れた。同時に背中も離れ、立ち上がった気配もしたので、もう自室に戻るのか、と思いレイザはそのまま振り向こうとした。
しかしその熱は、今度は自身の背中と、彼の正面越しに――またじんわりと伝わって来た。
「エイナ、」
「すまない」
「…また、謝るのか」
「今度は…さっきとニュアンスが違う…」
エイナムは、レイザの背中から離れた後、今度は後ろから彼女に抱き着いたのだ。その事に気付いたレイザは思わず息を呑んだ。エイナム自身、何故こうしてしまったのかは分からないし、後ろからとはいえ女性を、しかもレイザを抱きしめる事など言うまでもなくこれが初めてだった。いきなりの事にレイザは全くついて行けず、ただただエイナムの温かさや、意外と厚いしっかりとした胸板の固さ、自身の肩に軽く乗せられた彼の顔から伝わってくる、吐息の温度。囁かれる声のくすぐったさ。そういう物を、胸を静かに高鳴らせながら黙って感じていた。そんな自分を少しだけ恥じながら。
エイナムも、同時にチーム内でも特に女性らしい体つきをしているレイザの、柔らかさだとか小ささだとかを知って、なんだかひどく温かい優しい気持ちになっていた。艶やかな褐色の肌も、こぼれ落ちる金色の髪から伝わってくる良い匂いも、少し丸まった小さな肩も、近くで見ると全て女性特有のもので、エイナムは今までそれを知らなかった。知ると同時に、胸がギュッと掴まれて、切ないような甘いような不思議な想いが彼の中で生まれた。
大切な相棒。心のよりどころ。だが、それ以上に。――それ以上に、何なのかはまだ未熟なエイナムには分からなかったけれど。確かに感じた、知った、大切な感情。そう、この女性と共にありたい。今はそれだけだった。
「レイザ」
「……うん」
「ありがとう」
「…それで良いよ」
レイザはエイナムに抱きしめながら、徐々に赤くなっていく頬を必死に冷まそうとしたが簡単にはいかなかった。こうしている間にも心臓はいつもより速い鼓動を抑えてくれない。だが、そんな中でもレイザは、こうしてエイナムに抱きしめられている事が嫌ではなかった。温かさは心地好いものだった。いや、寧ろ。
――寧ろ、何なのだろう?
咄嗟に思った感情に、レイザは心の中で首を捻った。レイザもこういう感情には今まで無頓着かつ接する機会が無いに等しかったため、エイナムと同じようにとにかく疎い。ただ、エイナムが自分にとって相棒を越えた依存し合う何かだということは彼女にも理解出来ていた。エイナムと同様に、今はもうそれだけで良い気もした。
プロトコルオメガの選手達が唯一穏やかな空気に触れられる、つかの間の休息の中。これから行われる戦闘を思いながらも、エイナムとレイザの心は温かかった。今だけは、お互いの熱を感じられる、その事実だけが彼らの全てだ。
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ふたり寄りそってコウノトリを待とう/20120909
Title by きこえていた