その日の俺の調子は最悪だった。何処か具合が悪い訳でも無いのに、ディフェンスは一回も決まらなかったし、必殺技はことごとく失敗して、しまいには必殺技を出せなくなってしまう程だった。いわゆる、極度のスランプ状態。ちなみに理由は全く分からないものだから、凄く苛々した。その時の俺は身体の調子がおかしいのに伴って、精神的にも不安定になっていた。誰かに声を掛けられたら爆発しそうなぐらいに、苛々や鬱憤が溜まっていた。監督や音無先生が溜息をつきつつ、俺を心配そうに見ながら何かごちゃごちゃと話しているのを見ると、さらに言いようのない怒りが心にどんどん溜まっていき悪循環となっていた。
俺にとっても、きっと周りにとっても散々だった練習が終わった。がやがやと騒がしい雰囲気が、今日はなんだか控えめで静かだった。先輩達は俺に遠慮したのか帰る時に俺が挨拶をしなくても何も言わなかった。ただひとりピンク頭のお節介だけは、俺の肩にポンと手を置いてから去っていったがそれは正直逆効果だった。なんだよ、なんだよ。行き場の無い怒りだけが言葉に成らずに俺の胸をじりじりと焦がしていて、俺は自身のロッカーを睨みながら舌打ちをする。みんなみんな俺を馬鹿にしやがって。でも誰よりも、そんな八つ当たりしか出来ない自分に一番腹がたった。
そんな時だった、空野さんが俺のもとにやってきたのは。正直、タイミングは最悪だったと思う。かりや、と俺の名を呼ぶ声に苛立ちながらも振り返ると、そこに彼女が立っていた。
「……なに」
「おつかれさま!」
彼女はいつも通り、ニコニコしながら言った。多分彼女はわざといつもと変わらない態度で俺に臨んだのだとは思ったが、それは確実にその時の俺の苛々した感情を触発するような声だった。俺はさらにぶっきらぼうな態度になる。
「あのさ、狩屋」
空野さんがまた口を開いた。先程までの笑顔のまま、俺を、小さな子供を宥めるような声色で。
「上手くいかない時だってあるよ、私も分かるもん」
その時、俺の頭の中で"私も分かる"という言葉が反芻し、胸に突き刺さる。なんだか酷く馬鹿にされたような気がして、血管が切れる音が頭の中に響いた。ふつふつと沸き上がっていた自分の中の熱が一気に沸騰したみたいだった。ああ、苛々する。気がついたら、俺はおもいっきり叫んでいた。自分自身に溜まったものを吐き出すように。
「……煩い」
「え?」
「マネージャーに選手の気持ちなんか分かるわけねーだろ!!」
あ、言い過ぎた。俺がそう思った時にはもう遅かった。目の前にいた空野さんはビクッと肩を揺らしてから、怯えたような、傷ついたような表情になる。そして暫く立ち尽くした後、「ごめんね」と一言呟いて去っていった。静かな部室の中、空野さんが外に出ていく音だけが響いた。まだ残っていた他の一年生のチームメイト達は、こちらをジッと見つめていたが、掛ける言葉が見つからないようだった。俺はそんな皆の様子にすら腹がたち、思い切り乱暴に近くの壁を殴った。バンッ大きな音が響き、同時に手がじんじんと痛む。それは紛れも無く、俺自身に課せられた罰のような気がした。

「狩屋」
「……何、剣城くん」
長い時が経ったような気がする。俺が自分のロッカーの前で座り込んでいると、神妙な面持ちをした剣城くんが俺のもとにやって来た。剣城君が俺の事を真っ直ぐに見る。鋭い狼の様な眼光が、俺に突き刺さった。
「辛いのは、分かる。こんな事を言われるのはシャクに触るかもしれないが、俺もスランプの時はお前と対して変わらないからな」
「………」
剣城君は怒りもしない様子の俺を見て軽くため息をつきながら、話を続ける。
「だがな、いくら苛々していたとしても、空野にあんな事を言うのは筋違いだ。謝った方がいい。多分空野はかなり傷ついているから…」
「っ、そんなの分かってるよ…」
「…分かってるんなら、早く謝れよな。
突然、思いがけず優しい視線と言葉を向けられて、俺は少しだけ動揺した。剣城君は言いたい事を全て言い終えたらしく、俺の元を離れていった。ほかの一年生は話している間にもう帰ってしまったようで、部室には剣城君と俺のみの影があった。その剣城君もそれからすぐに帰る準備を済ませ、鞄を背負う音が俺の耳に入った。俺はそこで、全く帰る準備をしていない事に気がつき、急いで準備を始めた。用意をしながら、ぼうっと空野さんの事を思い出す。どうやって謝ったら、彼女に許してもらえるだろうか。そもそも、明日は学校に来てくれるだろうか。
「おい」
帰る寸前、といったような剣城君がいきなり声を発した。俺は少しだけびくりと肩を揺らす。まだ何か言いたい事があったのだろうか。俺がゆっくりと振り向くと、剣城君はドアの方を向いたまま俺に向けて言った。
「空野は、まだ学校にいるぞ。荷物が此処に置きっぱなしにされているからな」
ふと、優しくお節介な狼の目がこちらに少しだけ向けられ、「行ってこい」とでも言いたげな視線を送ってきた。
「届けてやったらどうだ?少年」
アンタも同い年だろ!と叫ぶと、剣城君はお得意の笑みを浮かべ何も言わずに去って行った。くそアイツ、なんでこんな時はいつも要らない気遣いをするんだ。多分他の一年にも早く帰るように促したんだろうな。俺はそう悪態をつきながらも、剣城君にほんの少しだけ感謝した。なぜなら、その時先程怒鳴った時の空野さんの顔が思い浮かんだからだ。いつも快活に笑っている彼女の顔が、哀しそうに歪められたのを思い出すと胸がちくりと痛んだ。怒鳴った俺自身がこんなに罪悪感に苛まれているのに、怒鳴られた彼女の胸はどれだけ痛んだだろうか。それを考えるとやはり、心がもやもやとしてやり切れない気分になった。俺は部室の鍵を急いで掛けて彼女の鞄を掴み、何処かにいる空野さんを探す為に駆け出した。

職員室に寄って鍵を返し、そのまま校舎内を隈なく探したが空野さんはいなかった。まったく、今も夜はそこまで暖かくないうえに今日は気温が低く寒いのに、一体何処にいるのだろうか。俺は外に出て、体育館裏、中庭、校庭と順に回ったが、何処にも空野さんの姿は見当たらなかった。もう荷物を置いて帰ってしまったのだろうかという最悪な予感が頭をよぎったが、それを振り切って探しつづけた。そして気がつけば、元いた位置である部室近くまで来ていた。部室に行くための道を走っていると、部室前の階段の近くに小さな人影が見えた。まさか、と思い俺はそこまで全力疾走した。息はとうに切れていて、喉が苦しいと悲鳴をあげていたが、俺はそれを無視して走りつづけた。
先程人影が見えた場所につくと、そこにいた人物が驚いたように振り返った。俺は息を整えながらも、その顔を見て深く安堵する。風に揺れるさらさらな藍色の髪の毛、ぱっちりとした瞳。胸に飾られた桃色の一年生用リボンに少し短いスカート。見間違える事もなく、そこに立っていたのは空野さんだった。
「狩屋?」
空野さんは自身の目を見開き、じぃっとこちらを見つめてきた。そして、なんで此処にいるの?あ、それ私の鞄だよね。あと狩屋息大丈夫?連続でずばずば質問してきた。俺は息があがっている為、少しも返答出来なかったのだが。ようやくしっかりと空野さんを見る事が出来た時、彼女がかなり寒そうにしているのが分かった。手や頬がこれでもかというくらい赤くなっているし、口から吐き出される息は冷気を含んでいた。このままでは直ぐに風邪を引いてしまう。そう確信した俺は、自分の鞄の中からガサゴソと今日使う事が無かったジャージを取り出し、空野さんに手渡した。
「…とりあえず、はぁ、それ着たら」
渡された空野さんはキョトンとしてから暫く躊躇っていた。躊躇うのも無理はない、と俺は思う。先程喧嘩まがいの事をしたばかりの相手なのだから。しかし空野さんは一回くしゅんと大きな嚔をした。女の子だからかそれが凄く恥ずかしかったようで、鼻を小さく啜りながら顔を逸らした。そして寒さには勝てなかったようで、堪忍したようにジャージを着はじめた。
「あの、狩屋。…有難う」
「ん、別に」
それから、お互いに黙り込んでしまう。ああ、何か言わなくてはいけない。それは分かっていたのだけれど、上手い言葉が見つからなかった。先程あんなに怒鳴ってしまった手前、下手な事は言えない。ただ、本当に寒いし空野さんに悪いしで、このまま黙っている訳にもいかなかった。俺は有りったけの言葉を脳内で検索して見つけ出し、からからに渇いた声をようやく絞り出した。喉にコンクリートが詰まっているみたいに、息苦しかった。
「空野、さん」
「…なあに?」
「その、さっきは……ごめん」
言葉に出来たのは、そんな在り来りな事だった。だがこれ以外に思い付く言葉も無かったし、やはりまず最初は謝罪するべきだと思った。空野さんは俺の顔を見つめ直す。丸い目は少しだけ赤くなっていて、睫毛に小さな雫がついていた。俺はどきりとする。泣いたのだろうか。
「ううん、私も悪かったから。私こそごめんね、狩屋の気持ちも考えずに…」
空野さんが悲しそうに目を伏せた。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「お、俺の方こそ怒鳴っちゃったし。あと、もう、気にしないでくれよな。ほんとは、いつも感謝してるから」
俺がたどたどしい口調で言った。すると空野さんの顔がぐにゃりと歪み、少しだけ渇いた瞳からはらりと雫が零れて、そのまま彼女はぼろぼろと泣き出した。俺は突然の空野さんの様子の変化に戸惑い、どう対応していいか分からなくなった。
「そ、空野さん?」
「良かったよお…狩屋に嫌われてたら…迷惑掛けてっ、たらどうしようって…っわああ…」
子供みたいに大仰に泣きじゃくる空野さん。こんなにも素をさらけ出させてしまう程、悩ませていたのだろうか。冷たい毒がじくじくと俺の心を侵食する。いつかの遠い記憶の中で、ヒロトさんが「女の子は泣かせちゃ駄目だぞ、それは男として最低だからな」とおひさま園の男児たちに言い聞かせていたのを思い出した。ヒロトさんごめん、約束守れなかったよ。俺は今世界中の中でもいちばん最低な男なのかもしれない。
「うっ…えぇ、ごめん、ごめんね狩屋くっ、ひっく」
空野さんは溢れ出る涙を拭おうとするが、どんなに拭いても涙はますます溢れて来て、止まらないようだった。俺のジャージの袖の部分がどんどん湿って、涙の粒を溜め込んだ水溜まりが広がってゆく。

空野さんに叫んだ時と同じくらい無意識に、それでいて本能的に、俺は彼女を抱きしめていた。いつかおひさま園の女の子達に読まされた甘ったるい少女漫画のシチュエーションと似ているな、と思う。もっとも、女の子を抱きしめていた男は結局振られてしまう役柄なのだけれど。
「かりや、」
空野さんはかなり驚いているようだった。俺はもう一度、心を込めて「ごめん」と謝った。空野さんも俺の気持ちを感じ取ったようで、俺の腕の中でじっと動かなくなった。彼女の体は華奢で冷たくて、その表情と相まって今にも折れてしまいそうだった。俺は壊れものを扱うように優しく彼女を抱きしめる。
「狩屋、ありがとう」
「…俺の方こそ」
もう空野さんは泣いてはいなかった。俺はほっと息をつく。彼女は顔をあげ、こちらに小指を差し出して来た。磨きあげられた爪が微かに光る。
「喧嘩ってわけじゃ…ないかもだけど。仲直りの、指切りしない?」
空野さんは優しく微笑みながら俺に尋ねた。俺も空野さんを抱きしめている手の片方を離し、そっと小指を出す。
「…うん」
抱き合いながらの指切りは、なんだかとても照れ臭かったけれど、愛おしくて大切なもののように思えた。空野さんの顔を見つめると、彼女は頬を染めながら目を逸らした。あんまり顔見ないで、目腫れてるし。空野さんは照れているらしく小さな声でそう言った。そんな彼女がとても可愛い、なんて自分らしくもなく思ってしまった俺は照れを隠すように、まだ彼女の顔に残っている涙の雫をそっと拭った。






*リクエストしてくれた方へ
喧嘩の後の仲直りでマサ葵、という事でしたが、なんだか喧嘩というかマサキが怒鳴っただけになってしまいました;。こんなリクエストに添えていない文章でよろしかったでしょうか?ともかく、リクエスト有難うございました!
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