※冬花も秋も病み、死ネタ
天使の梯子を知っていますでしょうか。雲間から幾筋もの光が伸び、重たく薄暗い空を瞬く間に幻想的で荘厳な雰囲気に変えてしまう、あの現象の事でございます。きっと、よくお目にかかれる現象なのですから、皆様ご存知なのでしょうね。なに、そんなことはどうでも良いのですが。
「私はあの雲の向こうへ行くのよ、秋さん」
彼女の藤色の髪が、軽やかに跳ねます。どこまでも透明な声が小さく響き渡ります。煌めく花。誰かがこっそり流した涙のように、ただ、片隅で。世界の端で、瞳が鮮やかな光を放ちながら揺れる。幻想的な色の輝きは、確かに現実でありました。そう、たしかな。
「そうなの」
「うふふ、うふふ、そうなの。そう、なの。梯子をね、登るのよ。とっても綺麗な色をしているの」
「どんな色かしらね」
「さあ、分からないわ。ただ、ただ、綺麗な事しか知らないから」
驚く程、綺麗な微笑。揺れる睫毛に宝石を連想させる瞳。整った繊細な美しさには、けれど全くもって生気というものがありませんでした。精気も、正気も、どこにも見当たらないのです。まるで彼女は、人形のようでした。少し前までは、もう少しばかり人間らしかったのですが。どうやら、時の流れというものはどこまでも残酷らしいのです。微かに優しさを孕んだ、残酷であります。
藤色は、変わらず風に揺れています。煌めきながら、憂いを帯びて。私はその姿を目に焼き付けておりました。梯子は、今も目の前で静かに輝いております。ただそこにあるべきものとして。
「もうすぐね、天使が迎えにくるのよ、天使、てんし」
「どんな天使なのかしら?」
「羽根をもっているの。それから、綺麗な金髪と、碧い目。ねえ、秋さん。その碧さは空の色なのよ――」
「へえ、」
純白の羽根を持っていて、空の碧さで輝く瞳をした、そんな有り触れた偶像を思い浮かべても、私の心は今の彼女のように浮き立ちませんでした。別段、困ったこともないのですが、少しだけ悲しいとすればそれは、彼女と同じ感覚を共有出来ないことでしょうか。いつだって私は、彼女の心を理解する事が出来なかったのです。花を愛でているつもりが、そうするうちに、花を踏み潰していたのだと私が気づいたのはいつのことだったでしょう。ええ、ええ、これも別段問題ではないのですけども。いつだなんて、今更のこと。踏み潰された花は、そのまま死にゆくだけなのです。
「いつ来てくれるの?その天使は」
「いつ、い、つ、いつでしょう?分からないわ、ええ、分からないの。でも、でもね。きっと」
「きっと?」
「そうね、もうすぐね、もうすぐだわ――すぐに、来る。迎えに来てくれる」
彼女はいつの間にか動作を止めていました。生気を失った手。足。瞳。綺麗な、清潔な、彼女の美しい髪だけが、風に揺れ続けておりました。ただそこに、あるべきものとして。そんなふうに。きっとこれが、彼女の望んだことなのでしょう。もっとも、確かめようもないので推測に過ぎないのですけれど。
私は空を見上げました。天使の梯子はいつの間にか、何処かへ消えておりました。何処へ行ってしまったのでしょうか。あの空の果てでしょうか。雲の向こうにちゃんと彼女を連れて行ってくれるなら、私は特に何も言う必要はないのですが。光、揺れて、瞬いて、その先には。何があったのでしょう、いや、それは私が一番知っているのでした。――少しだけ哀れな彼女に訪れた天使が、そこには居たのです。ああ良かった。ちゃんと来てくれたのですね。天使は微笑みます。朗らかに、優しい天使らしく。彼女が人間だったころ、よく浮かべていた微笑みを顔に貼付けて。ああ、良かった。彼女はちゃんと天使に成れたのね。壊れた心が、碧の中でそのまま焼けて、それからきっと、今度こそ貴女は幸せになれるのでしょう。何故か、少しだけ羨ましいと思ってしまいます。
天使はやがて去っていきました。後には、ひたすらに綺麗な碧色が一面に。それから、壊れたままこの世から消えた久遠冬花ちゃんの肩のうえに、透明な羽根が優しく着地しておりました。私は、濁った視界の意味も知らずに、ただその空を見つめていました。ああ、冬花ちゃん。本当に、綺麗だね。私、今なら貴女の世界が少しだけ分かる気がするの。解放、解放、何もかもから解き放たれて、美しい世界へ。そういうこと。
だからね、そうね、今度こそ。――おやすみなさい
―――――――
Good night,nightmare/20120719
Title by 告別