それでも君は廻っている | ナノ

※病み



ワン、ツー、ワン、ツー。
正確な動作なんて分からないよと言いながら、少女はうろ覚えの知識と危うげな動きで適当に舞っていた。蝶のように軽やかに揺れる髪の毛。晩夏の暗がり、響き渡るは少なくなってきた蝉の鳴き声。踊る彼女を見つめながら、その近くに座る少年はひっそりと蝉の生涯について考えた。何を思って彼等は鳴くのか。秋と言う名の死を歎いているのか、悼んでいるのか、それとも。死を待つばかりの蝉に思いを馳せると、少しばかり感傷的な気分に浸ってしまう。もっとも、本当の事なんて何も分かっていないけれど。人間なんてそんなものなのだろう。
じっとりと肌を濡らす汗は、涼しくなってきた夜風によって気持ち悪さが幾らか解消されている。夜空を飾る筈の星は、都会の光に隠れてしまって今は姿を消している。緑溢れる広場の真ん中に居る少年と少女は、他の何物からも切り取られていた。ただ二人きりだ。雑音が周りを囲い、そこから鋏でじょきじょき切ったみたいに。少年はその中で、ひたすら踊るように跳ね回る少女を同じくひたすらに見つめた。足が翼になったように飛び回る彼女は、天使のような、蝶のような、鳥のような――とにかく、人間離れした様子だった。甘ったるいのに何故か清らかな空気が彼女を纏う。驚くほど整った、この世ならざる微笑。そう、神様みたいだ、と少年は思う。ミーンミーン、ジリジリ、カナカナ。沢山の種類が混じり合った蝉の声は耳に優しく馴染んだ。

「ねえ、一之瀬くん」

蝉の音を掻き分けるように発っせられるやけに透き通ったソプラノ。それはたいへん穏やかである。まるで何事も不安ではないというように、そこからは一切の暗さも取り除かれていた。それゆえ不自然でもあるが、まずこの環境自体が不可思議であるためそんなことを気に留める隙間すらないのだ。ただただ、埋めるものを失った球体だけがぽっかりと浮かぶ。何を埋めていいのかも分からないまま。
一之瀬一哉は考える。蝉の声を聞き流しながら、目を開きながら。――俺はどうしてこんなところに居るんだろう?

「秋、なに?」
「一之瀬くん、一之瀬くんっ」
「あき、秋、秋?」

目の前に居る彼女、彼の大切な幼なじみである木野秋は明らかにいつもと様子が違っている。ふわふわとしていて、覚束ない足どり。瞳もぼんやりと虚ろだ。秋は今にも何処かへ飛んでいってしまいそうな、そんな雰囲気を纏い、ひたすら跳ね回っている。靴の音を響かせる。
――アン、ドゥ、ドロワ。
少しの飛翔、そして回転。秋の足が宙を舞うたびに周りでは星が煌々と瞬いて彼女を浮かび上がらせ、蝉の鳴き声はいっそう高く大きく鳴り響く。じりじりと一瀬の心に焼き付いていく、晩夏の不可解な風景。彼は全くもって現在の状況についていけていなかった。理解し難い現状、風景、幼なじみ。何もかも夢だと信じたいがすべての感覚もあるし、なによりひどく幻想的なのにこれが「現実」だと思い込んでしまう感情を一之瀬はどうしても抱いてしまうのだ。そう、秋がこんなふうになってしまった理由も、自分が此処に存在している理由も本当は知っているような気がした。それに加えてこんなにも危うげな秋を彼は初めて目にしたものだから、夢も現実も関係なく、彼は彼女からいつまで経っても目を離す事ができなかった。危うさが心配でもあるし、またその非常な美しさに惹かれてもいる。天使よりも蝶よりも鳥よりもずっと一之瀬の視界に映る彼女は可憐だった。美しくて清らかで何の不幸も無いといった顔で笑う少女は、何よりも誰よりも幸せそうで。だけれど、それだからこそ――

「秋、待って」

一之瀬は、不安で堪らなかった。秋は今にも、空高くを目指して飛び立ってしまいそうだ。だから自分だけが此処に取り残されるような気がしたし、それに異常で危ない彼女を一人にしておく事は出来ないという少しの使命感のようなものが彼の中には存在している。そんな一之瀬の気持ちを知っているのかいないのか、秋はただふんわりと笑って言う。

「待ってって、なんで?私は此処に居るじゃない。ただずっと回っているだけなのよ?一之瀬くん」
「いや、でも、その…だからさ、分かんないけど、行かないで」
「ふふ、可笑しな一之瀬くん。私たち、此処に二人きりなのに。何処にも行かないのに。――ほら、こんなに近くに居る」

そう言って、秋は一之瀬に向かって手を伸ばした。細く白い腕、から伸びる傷だらけの手が一之瀬のそれに触れる。確かな感触と触れ合った温度が、そこにある筈なのに。しっかりと感じた筈なのに。なぜだか、すべてを蝉時雨に掻き消されてしまうような気がしてならない。ミーンミーン、ジリジリ、カナカナカナ。ああ、蝉の鳴き声が五月蝿くて堪らない。数分前まではどこか優しく感じていたけれど、今はもういい加減黙ってくれという煩わしさしか沸き上がってこなかった。まるで、この蝉の鳴き声に自分は呼ばれていて、そして酷く深い所まで追い詰められているようだと思った。一之瀬は、一気に大きな不快感に襲われた頭を乱雑に掻きむしった。乱れた髪を直すことすらままならず、それは冷え込んで来た夜風に呑まれるのみ。本人にも分からないほど深い所から苛々が絶え間無く沸き出してきて止まらない。どうしてこんなに苛立っているのか全く分からなかった。もどかしいというか、その正解にすら手が届かないのだ。どうしても。同じようにか、蝉も鳴くのを止めない。様々な鳴き声が混ざって五月蝿いままである。そして秋も変わらず、飛び回り続けている。――可笑しいのは秋じゃないか、そういう風な諸々の言葉を、一之瀬は粘ついた生唾と共に必死に飲み込んだ。

「そんなに苛々しないで、一之瀬くん」

回転するたびに揺れる何もかも、可笑しい筈なのに美しくてどうしようもない。決して抗えない色に汚れた欲求を見透かしているとでも言いたげに、秋はまたクスクス笑いながら一之瀬の頭を撫でた。限りなく優しい、母性愛に溢れた姿。その時に見せた笑顔だけは美し過ぎる訳でもない昔からの秋の表情で、一之瀬はひどい懐かしさを感じる。しかし、段々どちらが本当の秋なのか分からなくなって来ている自分がいる事実に、彼は思わず泣きたくなった。もしかしたらもうとっくに、一之瀬の知る秋は消えてしまったのかもしれない。ずっとずっと好きだった女の子は何処かにいなくなり、秋の亡きがらを誰かが乗っ取っているだけなのかもしれない。この美し過ぎる虚構の中で、ひたすら舞い続ける為だけに。
蝉の音がやけに静かになった気がした。秋の履いている靴と地面との衝突音がすべての音を支配しているような、錯覚。いやそれすら分からないのか。それでも、この空間が壊れることはない。天国とも地獄ともとれるこの不思議な世界は、いつまでたっても消えてくれない。一之瀬はこの世界に一人きりだ。秋は消えてしまった。ただ廻り続けるだけの美しいものに、一之瀬は恋をした訳ではない。一之瀬の好きになった秋は何処に行ったのだろう。彼はそんなことを考えながら、静かに泣いていた。星のかけらみたいな涙は水溜まりになって地面に染み込んでいく。今なら、少しだけでも蝉の気持ちが理解出来る気がした。死を待つしかない小さな蝉の心。何もかも失いたくないと慟哭する魂が、鳴き声となって晩夏を彩るのだ。美しく五月蝿い光景はそうして出来上がり、終わる頃には抜け殻や折られた身体だけを残して片付けられる。一之瀬も蝉の鳴き声に混じってひたすらに泣いた。その間にも秋、秋、秋、と心の中で彼女を呼び続けていた。今目を開けたら自分は蝉になっているような気がした。
――そんな時だった。

「一之瀬くん、大丈夫だよ」

温かい、声。最早人形と化していた秋が、突然急に喋りだした為か、一之瀬はハッとなって急いで秋を見上げた。心臓が跳ね上がる。肩をびくびく震わせながら四肢を支えるので精一杯という状況。自分を見下ろす優しい目つき。あまり変わらない瞳孔の持つ可笑しさ。それでも、まだそこに秋は居る。一之瀬は必死になって、秋待って、置いてかないで。そう声に出そうと踏ん張ってみたが結果は惨敗だった。声どころか吐息さえ出来ない。手を伸ばしたところで届きやしない。
回る、回る、回る。秋はまた回りはじめる。その顔が笑顔ではなく、ひどく寂しげな顔に変わっていたのはいつからなのだろう。一之瀬は全く気づいていなかったというのに。いや、いつ、いつか?――そこで何故か頭がぐらぐらと揺れ始め同時に吐き気が込み上げて来たから、一之瀬はもう考えるのをやめて秋の声に耳を傾けた。全身を重たい吐き気と痛みが包んでいるが、しかしなんとか声は出そうだということに気づく。一之瀬は、とにかくまず大きく深呼吸をした。

「私はね、回るのよ。回りつづけるのよ。そこに意味がなくてもね。でもけっして不幸ではないわ。だから大丈夫!私は大丈夫なのよ、一之瀬くん」
「でも、ただ回るだけなんだろ?こんな切り取られた綺麗な夏なんか、何の意味もないじゃないか!秋はそんなんじゃないだろ、もっと人間らしくてあったかいのが秋だろ!…秋、もう俺と何処かへ行こうよ、なあ」
「一之瀬くん、…無理よ、残念だけれど私は此処しか居れないんだもの」
「なんでっ、置いてかないでよ!俺と一緒に来いよ!秋っ!」
「だから無理なの、一之瀬くん。…もう遅いし。それに本当に心配しなくたっていいのよ。大丈夫なのよ」
「な、なんだよ、その根拠はあるの――」
「あるよ」

瞬間、蝉の声が一段と大きくなった。ミーンミーン、ジリジリ、カナカナカナ。蝉の大合唱は秋を包むように周りを一気に飛び立った。一之瀬の周りをぐるりと囲む木のすべてから、蝉が次々に発っていく。せわしなく飛び回る蝉の羽音は鳴き声の数倍五月蝿い。いや、飛び立てばその先はきっとすぐに死んでしまうのだろうけど。一之瀬は古い大木達を見上げながら、ただただ夏の終わりの不思議な光景に圧倒されていた。そしてその中心には紛れも無く、木野秋がいた。たなびく髪の毛と、スカートと、それから宙に浮く足。秋はまた昔と同じように微笑んで、口を開いた。ねえ、と、優しく語りかけるように。

「――また、夏が廻って来るよ。一之瀬くん」

蝉時雨が止まない。






ミーンミーン、ジリジリ、カナカナカナ。
ああ、此処は何処だろう。ぼんやりとまだハッキリとしない意識を無理矢理叩き起こして、一之瀬はのそのそと起き上がる。真上に見えるのは強く照り付ける太陽、背中に感じていた硬い感触はひっそりと公園の隅に置かれている深緑色のベンチのものだった。錆ついて剥がれかけた塗装を目の端に捉えながら、一之瀬はゆっくりと視界を広げた。この炎天下、なぜか随分と寝入ってしまっていたみたいだ。首周りなどは特に汗でびっしょりだった。生乾きの感触が実に気持ち悪い。――そうだ、早く帰ってシャワーを浴びよう。それから、冷たいジュースでも飲んで。とにかくこの冴えない空気を無くしてしまおう。なんだか、変で滑稽で悲しい夢を見た気がする。まあ忘れれば良い。ああ、とにかく暑い、暑すぎる。それに――
しかしその前に、一之瀬一哉は考える。そして刹那、耳に沢山の音が入り込んで響く。とてつもなく嫌な予感がしていた。頭がガンガンと激しい痛みを訴える。思い出したくない事を無理矢理引き出されるような、そんな感覚。ああ、どうしよう、気持ち悪い。ひどい既視感。ぐらぐら揺れる思考。無情にもすぐに回答にたどりつく思考。次々に降って来る、いつまでも止む気配のない、蝉時雨。
蝉の声を聞き流しながら、目を開きながら。俺はどうしてこんなところに居るんだろう?一之瀬は、夢と同じように、そう考えた。




「ワン、ツー、ワン、ツー」

――あ、一之瀬くん!
公園で舞う秋が視界に映る。振り向いた彼女の表情は朗らかな笑顔だ。一之瀬はそこでようやく今日一日の出来事を断片的にだが思い出した。大学の講習を終えたその帰り道、ここのところ様子がおかしかった秋に連れられて近所の公園に寄っていた。それから少し眠くなった一之瀬はベンチに横たわり――それから秋は。今目の前で跳ねていた彼女は、いつもとなんら変わりない秋そのもの。夢の中の中学生の姿からはかなり大人になってこそいるけれど。度を過ぎた美しさも、可笑しさもない。先程までの秋とは違い限りなく木野秋の姿をしているように思えた。
けど、分かる。一之瀬には分かる。秋がもう壊れてしまったことも、自分が秋を救えなかったということも。秋の目を流れていたであろう液体と、彼女の軽やかな足どりと、それから虚ろな眼差しがすべてを物語っている。もう一之瀬には何も言えない。待って、と言ったのに待ってくれなかったのだ、彼女は。一之瀬に何も告げずに、秋は何処かへ行ってしまった。もちろん、一之瀬がどんなに頑張っても手の届かない遠い場所へと。彼の手は一生秋の手を掴む事は出来ないだろう。何度も伸ばしても、一之瀬には無理だった。たとえ出来たとしても、それは甘い幻想の中の彼女の外殻だけだ。

「ねえ、一之瀬くん」
「…なに、秋」

締め付けられて、息が苦しくて。秋が笑顔なのが余計に辛くて。どうしようもなかった。――秋、と、一之瀬は届かない言葉だけれど必死に彼女に向かって語りかけた。
君はもう恋をしないんだろう。あの蝉のように、夏だけで死んでいくんだね。そしてまた、大切な悲しい夏を廻るんだね。生きることすら投げやりになっているんだね。ねえ、秋。じゃあ君の飛翔に、回転に、何の意味があるって言うんだよ。だってもう、生きていたって君は死んでいるのと同じような感覚なんだろ。君は、何年も前にあいつに心を奪われてしまったんだから。そしてそのまま壊れてしまったんだから。でも、そいつを恨めもしないのに。辛くて悲しくて泣きたくてたまらない筈なのに。全然意味なんかないのに。それなのに、何故、蝉みたいに鳴いてはくれないの。俺に縋ってはくれないの。俺じゃそんなに、頼りないかよ。なあ、いつまで廻り続けてんだよ?

――ミーンミーン、ジリジリ、カナカナカナ――




「一之瀬くん、今年もまた、夏が廻って来たよ」




一之瀬が、秋がひどく大きな失恋をしたという事実を知ったのは、もう何年も前のことだ。






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それでも君は廻っている
∴企画「忘却」様に提出