*一秋がお付き合いしてる設定
久しぶりに会った秋があんまりにも可愛く、美しく、そして愛おしくなっていたものだから、部屋に入るなり俺は秋を力いっぱい抱きしめた。秋の小さな背中に腕を回して、自分の胸にぎゅうとその柔らかな顔を押し付ける。秋は、ダメよ準備があるんだから、といいたげにこちらを睨んできたけれど、その吊り上がった目つきすらも今は愛おしく感じてしまうので逆効果だ。ますます俺は腕の力を強めた。なぜなら、そうしているうちに秋は大人しくなり、抵抗しなくなることを俺は知っていたからだ。今日も、しばらくすると秋はぴたっと動かなくなり、仕方ないわねと呆れながら俺の胸板に顔を埋める。今は真昼間なので、木枯らし荘に住んでいる住人達はそれぞれの仕事に出掛けていたり、自分達の部屋で一休みをしていることが多く、このアパート全体が静かだった。部屋に存在する音の種類はごく僅かであり、俺と秋の小さな息遣いだけが少しだけ響いた。昼下がり、静かな部屋の隅っこで大好きな彼女を抱きしめられている俺は世界一の幸せ者かもしれない、と本気で思う。
こんな時間が永遠に続けば良いと、温かな秋の身体を抱きしめながらまどろんでいたところ、急に部屋に響く音が増えた。鼻を啜る音、小さな嗚咽。何秒も経たないうちに俺はそれが腕の中に居る秋のものだと気づいた。
「秋!?だいじょ…」
俺は焦り、秋を泣き止ませようとしたが、秋がごめんね、と謝りながら泣きじゃくるだけで何も言わないので、俺は言葉に詰まり何も言えなかった。俺は慌てふためきながら秋の頭を撫で、考え込んだ。何故秋は泣いているんだろう、俺がなにかしたのだろうかなど、根拠のない推測だけが心の底にたまる。そして、そのあとも長い間、秋は泣きつづけた。秋の涙が、じんわりシャツに染み込んで来ているのが分かる。時計のかちこちとした音が部屋に入ってから大分時間が経っているという事を知らせていた。やがて嗚咽もやみ、秋がすんと鼻を啜りながら、下から俺の顔を覗いた。いつもきらきらと輝いている丸い瞳が、濡れて真っ赤に腫れているのを見て俺はやり切れない気分になる。
「一之瀬くん、ごめんね。いきなり泣いちゃったし、シャツ濡らしちゃった。」
あとで洗濯するから、と付け加えながら申し訳なさそうな顔で秋が言った。
「大丈夫だよ、秋こそ平気?別に何にも聞かないから」
俺は慎重に言葉を選んだ。下手な事を言ってはさらに秋を傷つけてしまうと思ったからだ。秋は俺の言葉を聞いて、ぱちくりと一回瞬き、それから弁解するように言った。
「あ、あのねっ、違うの。辛いからとかそういうのじゃなくて…」
パタパタと腕を振りながら少し早口で秋は言った。俺は抱きしめている手をそっと離して、机の上からティッシュの箱を取り秋に渡した。彼女は礼の言葉を口にしてから鼻をかみはじめた。俺はというと一旦きちんと座り直し、彼女をしっかりと見据える。何か理由があるようだから、俺はきちんと秋の目を見て話をしたかった。腕にはまだ秋の熱が残っていて、名残惜しかったがそこは我慢した。
「秋、落ち着いた?」
「うん。ありがとう一之瀬くん」
秋はいつもの母性が溢れ出るような笑顔で微笑む。ようやく秋の笑顔が見れた事で俺は少しだけ安堵した。秋は一息置いて、ゆっくりと話し始めた。
「…鼓動が聞こえて、うれしかったの」
秋の口から語られたのは俺が思いもしなかった言葉だった。
「鼓動?」
「一之瀬くんの、心臓の音」
どくん、どくんと規則的に鳴る心臓の鼓動の音。秋は俺のそれが聞こえて嬉しかったと言う。俺は最初何故それが泣く程嬉しかったのかよく分からなかったから、少し困惑した。心臓が動いている、そんな人間にとって当たり前の事が。
「…なんで、嬉しかったの?」
「だって」
秋の表情が一変し、泣き笑いの表情を浮かべた。その表情は、静かながら俺の胸に突き刺さる。
「一之瀬くんが、ちゃんと生きてる。」
そのとき、俺は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。俺が、生きている。たった一言の台詞だったけど、俺、否俺達にとってはとても重いことばだったからだ。俺は過去に二度も死にかけて、たくさんたくさん秋に迷惑をかけた。俺の身勝手な行動で、秋がどれだけ傷ついたかを考えると、胸がぎりぎり痛む。俺自身辛くてたまらない経験を沢山したけれど、待つ方の辛さはまだよく知らない。俺は秋を待たせるばかりで、不安にさせ、結果傷つけた。だけど、大人になり今頃やっと、秋を安心させる事が出来、前に進めたのだたと思っていた。けど言葉に出さないだけで、秋は言いようのない孤独や不安に苛まれていたのかもしれない。それに全く気づかなかった俺は、ほんとうに愚かだ。秋はまだ待っていたのだ、俺からの、ちゃんと確信を持てる言葉を。
俺は何も言う事が出来なかった。秋は、ゆっくりと話を続ける。
「ちゃんと生きていて、ここに居て…心臓の鼓動はその証だもの」
秋の目の端から涙の雫が静かにこぼれ落ちた。切なげな秋の表情は、どんなおんなよりも儚く脆く、なのに俺の心に深く刻みつけられた。
「一之瀬君、もう私を置いていかないで。ずっとずっと、一緒にいてね」
春の穏やかな午後、木枯らし荘の中。俺は、衝動的にまた秋を強く抱きしめた。気がつけば自分も、溢れ出る涙を拭うこともせずに泣いていた。胸板に秋の顔を押し付け、一之瀬一哉がたしかに生きているという証、心音が聴きやすいようにする。秋も一生懸命に耳を澄ましているようだ。泣きながら、もう絶対に離さないから、と俺が囁くように言うと、秋もうれしそうにうんと頷いた。秋の温かくて小さい身体も、その顔に浮かべられる柔らかな笑顔も、俺を愛してくれる心も、すべて長すぎる年月を掛けて俺が手に入れた大事な宝物だ。もう、絶対に離さない。他でもない自分自身に強く言い聞かせる。たくさん傷つけて、たくさん涙を流させた。きっとこれからも迷惑をかけるだろうけど、笑顔でいる時間の方が多いようにしてあげたい。秋が女としても、一人の人間としても、こころから幸福になれるように。ふたりで幸せを噛み締め、咀嚼し飲み込み、どんどん溜めていきたい。
俺の心臓は今も規則正しい鼓動を奏でて、たしかに生きているという証を刻んでいた。
心音/2012.03.16