今日はなんだか調子が悪い。異様に軋む間接に顔をしかめながら、エイナムは苦々しい気分で練習に参加していた。
時代を変える、重要なミッション。エイナムの所属するチーム・プロトコルオメガはそのために存在している。サッカーという(エイナム達にとっては戦闘手段の一つである)方法で、歴史を修正しなければいけないのだ。手を抜く事は勿論許されない。少しでも組織側に「必要ない」と判断されてしまえばそれですべてが終わるのだから。その先に待っているのは、暗くて冷たい闇が包む地獄のみだ。エイナム達は現存する歴史を壊して丸め捨て、そしてエルドラドが望む歴史に改竄するために、存在している。エイナムを含むプロトコルオメガのチームメイト全員が、その抗いようのない運命に忠実に従っている。
だから、練習といえど気を抜く訳にはいかなかった。練習風景は組織に監視されているだろうし、まだチームを結成して間もない時期。エルドラドの莫大な資金をもってすれば、優秀な控えの選手を大量に用意することだって容易である。現に自分達以外にも沢山の選手の育成を進めていると聞くし、エイナムは自分が思っている以上にひどく焦り始めていた。もっと強く、もっともっと強くならなければ。最近は特に、練習の度にそう強く言い聞かせて、必死に訓練に励んでいる。――と、その先の思わぬ不調。こうしている今も、エイナムの足の間接はぎしぎしと鈍い悲鳴を上げていた。顔を歪めて唇をきつく噛み締めることで、ようやく練習についていく事が出来るような状態の中、足の痛みは容赦なくエイナムの全身を突き刺してくる。当然普段よりも動きは悪く、パスされたボールの取りこぼしなどの小さなミスも目立つ。それでも、練習を途中で抜ける事など許されないと思っているエイナムには、今ここで休憩させてほしいと言い出す事は出来なかったし、したくもなかった。だから必死に練習についていこうとするが、やはり重く軋む足が邪魔をする。エイナムが遠くに視線を向けたとき、キャプテンであるアルファが少しだけ顔をしかめながら通信機を通じて会話しているのが見えた。エイナムの事について話をしていたのかは分からない。けれどその生真面目な性格と強い志のせいで過剰になっている彼の心臓は、そんなまだ不確かな景色であってもひどく高鳴ってしまう。このままでは、いけない。エイナムは心の底から思った。
動け。全神経を集中させて自身の足にそう命じる。動け。彼は更に加速しようとする。もっと動いて、走って、蹴りあげて。そうやっていつも通り、いや、いつも以上に走らなければならないのだから。――だが、そこまでの覚悟をもってしてでも彼の身体は動かない。足をのばした瞬間、今までで一番の激痛が彼の全身を駆け抜け、エイナムはバランスを崩す。うわっ、と漏れた声は思っていたよりずっと情けなかった。もう、とっくに限界だったのだ。バランスが崩れたまま、受け身の取れない体勢で転びそうになってしまう。このまま倒れたら更に足を悪くしてしまうだろう。急速に迫り来る地面、それに対して思わず反射的に目を閉じた時だった。

「大丈夫か」

がし、と腕を掴まれる。地面すれすれの所で、エイナムの細い肢体は少々乱暴に引き上げられた。ぐらりと世界が揺らめき、エイナムの目は徐々に焦点を合わせはじめる。遠くの方で、アルファやチームメイトの選手達が少々驚いた様子でこちらを見ているのが分かった。靄にくるまれた様な視界がぱっと開けて、ようやく正常な精神を取り戻す。彼は一先ず、先の事故を回避出来た事に深い安心感じた。
そんな時、自分を引き上げた手がまだ腕を掴んでいる事に気づく。エイナムが礼を言うのと兼ねてその方向に視線を遣ると、そこには金色の派手な髪に、褐色の艶めく肌が印象的な小柄な少女が立っていた。小さいながら貫禄があり落ち着いたその佇まいに、エイナムも見覚えがあった。レイザという名前の、外見に見合わず攻撃的なプレイをする少女だ。

「きみはレイザ、だったか」
「ああ、…大丈夫だったか?訓練中は細心の注意を払わなければいけないのだから、気をつけて」
「すまなかった……、っあ」
「?どうかしたのか、エイナム」
「…なんでも、な…」

そこまで言いかけたところで、激痛に耐え切れなくなったエイナムはその場にしゃがみ込んだ。限界を迎えきっていた身体が一気に重くなり、立つ事は困難な状況だった。もう、おしまいだと、エイナムは唇を噛み締めながら思う。こんな醜態をさらしてしまったのだから、きっと議長達が話し合いを進めているに違いない。彼の心は一気に真っ暗でどろりとした闇に包まれた。
そんな、絶望に支配されているエイナムをしばらく眺めていたレイザは、ふいに何かを思い付いた様にアルファの元へと駆け寄った。少しの間やり取りを交わしたあと、レイザはアルファに向かって軽く頭を下げ、再度エイナムの方へと戻って来る。そして、しゃがみ込むエイナムの腕をもう一度引っ張った。先程の一部始終を見ていなかったエイナムは、レイザにいきなり腕を掴まれた事にひどく驚き、目を丸くしてレイザの方を見上げる。

「レイザ?」
「では、行こう。エイナム」

レイザは疑問符だらけのエイナムを軽く流し、引っ張りあげた腕を自身の肩に掛けさせて、エルドラドの技術の結晶であるボールのワープ機能を使う。え、と言うエイナムの呟きは掻き消え、すぐに二人の姿は見えなくなり、その場に残されたアルファだけが、その冷徹な顔に少しの柔らかさを浮かべながらチームメイトの指示を始めていた。






次にエイナムが目をあけたときにまっ先に目に飛び込んできたのは、無機質な蛍光灯の光だった。周りには様々な種類の救護用具、純白のシーツに包まれた固そうなベッド、きつく香る薬品のにおい。それらの存在を全て順繰りに認識したあと、エイナムの思考は此処が擬似的に形成された臨時の救護室であることを理解する。何故わざわざ練習中に自分を此処に連れてきたのか。張本人であるレイザに何かを尋ねようとするのだが、そんなエイナムの気持ちを無視して彼女は彼をベッドの端に無理矢理座らせた。エイナムは徐々に酷くなる痛みから反抗が出来ない事をレイザは知っていたから、そのまま不満そうに顔を歪める彼を残して救護室を漁り始める。そうしつ目的のものを全て見つけ終わったあと、レイザはとてとてと覚束ないあしどりでエイナムの元へと戻ってきた。乱雑に用具をシーツの上にばらまくと、シワ一つ無かった純白にいくつもの筋が入る。

「…レイザ、これは?」

搾り出されたエイナムの声には不満と厭味がたっぷりと込められていたが、レイザの透き通った深い碧色の瞳は少しも揺らがない。むしろ深みを増しているようにも感じられた。

「救護用具です、見て分からないのか?」
「……いや、別にわかるが…」
「なら、じっとしていて、手当てをするから」

足、ひどくなった困るだろう?
気遣いのことばを、しかしあくまで淡々と告げる彼女に、エイナムは形容しがたい想いを抱く。その後のレイザの手当ての仕方は完璧だった。エイナム達が昔習った一般人の救護活動の訓練を存分に活かし、尚且つ手際も順序もよく、エイナムはそれには素直に感心する。最後の仕上げとして、湿布やら軟膏やらが塗りたくられた足に包帯を丁寧に巻き付けてきゅっと縛れば、それで終わり。はい、終わりましたよ、というレイザの優しい声音で発っせられた言葉と共に、エイナムはのそりと腰を上げた。まず初めに感じた異変は、足が異様に軽くなっていたこと。手当てをしただけで、しかもこの部屋に連れてこられてからまだ数分しか経っていないというのに。あんなに痛いと叫んでいた足はすっかり静かになっている。その時、もう大丈夫でしょう、というレイザの声が聞こえたので、エイナムは慌てて顔を上げて礼を述べた。

「す、凄いな。すまなかった…ありがとう」

レイザの碧眼が少し細められ、血色の良い唇は弓なりになる。柔らかい表情で微笑んだ彼女の顔は、エイナムが想像していた以上に可憐だった。

「いえ、別に。それより貴方は自分の身体を大切にしろ、足が酷くなってしまったらどうするつもりだったのだ?」
「しかし…訓練を抜ける訳には行かないだろう。大事なミッションも間近いのだから」
「足を壊してしまったら元も子もない。こんなに早く治せるのに、無理して参加して議長達の前で醜態を晒す方が駄目だろう」
「だが」
「だがしかし、ばかりで貴方は子供か。大体貴方はちゃんとした実力で選ばれたのだから、こんなことくらいでメンバーを外されたりしない、…少しは安心しろ」

レイザの至極最もな意見を前にして、エイナムは苦し紛れに唸るしかない。同時に、メンバーから外されてしまうかもしれない、という不安を見抜かれていたことに少しの羞恥を感じていた。一体、この娘はどれだけ周りの事を観察していたのだろう。それとも、容易に気づかれてしまうくらい自分は焦っていたのだろうか。どちらにしても、エイナムの高いプライドはこの不思議な少女によってとっくにへし折られてしまっていた。もうそれについて、考えるのをすっぱりやめてしまうくらいに。

「…まあ、貴方はそれくらい真面目なんだろうな」

と、その時。レイザが今度は意地悪っぽく笑った。それを見た時エイナムの、帳を張り巡らせた頑丈な心に少しだけ隙間が出来る。その小さな隙間から優しい風がそよそゃと吹いてきて、彼の心を満たす。何となく、そんな気がしていた。

「そうか?」
「ああ、真面目過ぎるのもいけないと思う」
「……俺はそこまで真面目なのか?」
「ええ、とっても。気を張り過ぎだ」
「じゃあ直すために最善の努力を…」
「そういう所が真面目なんだ」

それに、そうか、と返すと、そうだよ、と短い返事が返ってきた。もう彼女はいつもの無表情に戻っていたが、流れる空気はいつもよりも暖かく、心もいつもより軽い。レイザと交わすやり取りは、エイナムにとってなんだかとても心地好いものであったのだ。エイナムは、この先何があっても彼女の事は信頼出来るような気がしていた。
二人はその後練習に参加し、アルファに短く礼と謝罪を言った。アルファの方はあまり気にしていないようで、一言二言事務的な連絡をし、それで終わる。議会の方からの連絡も無いようだったので、エイナムはホッと一息ついた。成る程、レイザの言う通りだったのかもしれない。そう思った瞬間、エイナムの肩がつん、と誰かの指で弾かれた。彼が何かと思って振り返ると、そこには自分を見上げて佇むレイザの姿。見れば見るほど吸い込まれてしまいそうになる綺麗な碧眼が、私の言った通りでしょう、とエイナムに語りかけている。彼はそれに対して、敬意の念を込めながら少しの苦笑を返した。


時は経ち、もうエイナムの足に包帯は巻かれていない。訓練を積み重ねていた彼らは立派な戦士になった。これから彼らは、サッカーのフィールドという戦場に立つ。歴史の修正を行う。自分達の意志だとか、正義も悪も関係無い。これが組織の意向で、自分達はそのために存在しているのだから。エイナムは出発する時、まだ微かに足に残るレイザの手の熱と、巻かれていた包帯の温度を、ただただ思い出しながら目を閉じた。それ以上を、なんてものを求める機能は彼にはついていなかったのだ。自由を許される事の無い彼らに、ほんの少しの間だけれど確かに存在していた暖かな感情は、数多に存在する沢山の世界の「彼ら」の中に今もひっそりと眠っている。







物語の序章の次にはもう僕も君もいない/20120609
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