※この作品はクロノストーン放映途中、黄名子の設定が全て出揃っていない時期に書いたものです。そのため彼女の設定と作品内で記述している内容が大きく違っています。ご了承ください。







「あーおーい」

空野葵の目の前で、明るい茶色の髪が鮮やかな煌めきを持って揺れた。微かに青草の匂いを含む風になびくそれは、優雅で綺麗で、温かい。ただし、葵がその髪の毛のなびく様を目にした回数はまだまだ少ない。いや、正確に示すなら、その豊かな髪を持つ彼女自身をだ。空野の正面に座る女の子がどうして此処にいるのか、自分と、何をどう過ごして来たのか。空野はその事について全くといって良いほど知らないのだ。黄名子は知っているようだけれど、葵の記憶に全く残っていない。知らない匂い、色、温度。貴女は知っているのかしら、と尋ねるのは、彼女を傷つけてしまいそうな気がしたから、止めた。

「黄名子ちゃん」
「どうしたの?なんか、憂鬱そうな顔してるやんね」
「――ううん、何でもないよ。大丈夫」
「本当?」
「うん」
「そっかあ」

なら良いやんね、良かった、と言ってはいるものの全く満足そうでない表情を浮かべながら、黄名子は正面から移動して葵の隣に腰を下ろした。葵はその間、ただ黙って空を見上げていた。自分達の存在する世界よりずっと昔のフランスの景色は、何もかも鮮やかで綺麗に見えた。知らない物ばかりで、様々な物に惹かれてしまう。くっきりとした美しい境界線を、葵はただ、ゆっくりと視線を巡らせながら見ている。黄名子も不思議そうにしながらその視線を追った。空が、驚くほど青い。

「綺麗やんね!全部ぜんぶくっきりハッキリしとる」
「うん」
「葵は、――」
「うん」
「………」

それなのに、綺麗な景色の中で黄名子だけが浮いているような気がした。黄名子から見える彼女の輪郭はぐらぐらと揺らいでいて、よく見えない。薄く淡い靄が黄名子の全体に掛かっている。葵は黄名子が今すぐバラバラになって景色の中に溶けてしまうのではないかと不安になった。締まった胸を解そうと思わず、その茶色の髪に触れようとして、――黄名子の存在を確認しようとして、すっと手を伸ばしかけ、すんでの所で止めた。行き場を失った手が軽い音を起てて草に着地する音だけが聞こえる。黄名子はやはり不思議そうな、それでいて不安そうな顔をしていた。同時に自分を哀れむような顔をしていたように見えたのは、葵自身の錯覚だろうか。

「――葵」

ふと聞こえた黄名子の心配そうな声に、葵は空から彼女へと視線を落とす。彼女の眉は心配そうに下がっていた。

「…なあに?」
「ホントに、大丈夫?」
「だから、大丈夫だってば」
「でも、ウチには大丈夫に見えないやんね。なんか、葵が――」
「……私が?」
「…ううん、何でもない…」

黄名子は意味深な表情を浮かべ、それから道端に捨てられた子犬のようにしゅんとした顔で視線を落とし、自身の髪を弄り始めた。所々跳ねた茶色は今も気持ち良さそうに風になびいている。空野はそんな黄名子を少し虚ろになった瞳で捉えた。彼女越しに眺める世界が、相変わらず鮮やかで、その分黄名子が霞んで見えて、泣きたくなった。
――貴女は誰、何処に居るの?何処に居たの?
本当は、いますぐにでもそうやって尋ねて、楽になってしまいたかった。しかし楽になるのは葵だけで、黄名子には更に疑問や不安を残す事になってしまう。それは駄目だ、と葵は意識的にその想いを牽制していた。抑えて抑えて、それでも沸き上がって来る不安感には、耐え切れる気がしなかったけれど。こんなにも温かい彼女の存在とそうでないものの境界線が見えない、なんて口に出せる訳がなかったのは、葵が他人が考えるより臆病だったから。大切に想っているものに対しては特にそうだった。
茶色い髪の毛に触れるまでに、今度は特に時間は掛からなかった。迷いはもう、殆ど無かった。どうしても感触を確認したくてたまらなかった。手をそっと伸ばして、鮮やかなそれを指で掬う。貴女は、何処に居るの。私の隣に居るの?そう、指先から伝わるように念じてみるけれど、勿論のこと大きな瞳を何度も開閉させている彼女に伝わる事はない。黄名子は驚きながらも、黙ってその行為を受け入れていた。彼女の柔らかい髪の毛は、葵の細い指先をするするとすぐに抜けていくことはなく、少しの間そこに絡み付いた。葵にとってその様はなんだかひどく滑稽で、安心するものだったから、彼女は遊ぶように何度も髪の毛を指に巻き付けた。指を回転させていくと、自然と束ねられたその隙間からは幾らか髪がこぼれ落ちる。それは、爽やかな光に反射して淡く輝き、とても綺麗だった。

「葵、楽しい?」
「うん。楽しい」
「そっかぁ。ならウチも楽しいやんね」
「うん」
「…あおいー」
「……なあに?」

黄名子の髪の毛を揺らすこの風は、フランスの町から何処へ吹いて行くのだろう。大地を覆う山や集落や海原を越えて――何処までも何処までも吹けば良いと葵は思った。それこそ、地平線の果てまで。風は、見えない線の上を、その時だけはくっきりと姿を見せる。きっとそう。そうであって欲しい、という願望に過ぎなかったけれど、それでも。
そんな事を考えていた時に聞こえた黄名子の言葉は、葵に大きな衝撃をもたらした。目の前にずどんとのしかかる重たい岩の幻覚が見えるような、実に冷たい衝撃だった。


「葵は、何処に居るの?」

「――へ?」

黄名子ちゃんの考えてること、私は分からないよ、なんて言える筈もなく。黄名子の言葉を完全に理解するまでには少々無言の時間を要した。先程まで自分が抱いていた筈の感情を、必死に押し込めてきた感情を、こんなにも簡単に当事者に言われてしまうなんて。脳内が混乱でぐちゃぐちゃになる。思考回路が絡まり、うまく制御出来ない。作動しない。止まる。

「いや、あのな…変なこと聞いてゴメン。でも、ウチ、葵が見えない時があるやんね」
「見えない、時?」
「うん。例えば…白い霧が掛かってに、葵がそれに隠れて見えにくくなってるみたいな」

比喩表現まで似ているとなると笑えない。黄名子はふざけているのではなく本気のようだった。選手達とはしゃぎ回っている時とは目の色が違う。葵の混乱はそのせいで更に深まるばかりだ。
ふと、境界線という言葉がやけに強く耳に残っていることに気がついた。境界線、地平線。海の果てと空の果て。そういえば――それらは二つとも、表裏一体、つまり一つのものだ。どちら側から、どのような考えと見方をもって臨むかによって結果は180度変わってきてしまう。葵が空から黄名子を見下ろしているとしたら、則ち、黄名子は海の底から空野を見上げている事になるだろう。
歴史の改竄により生まれたタイムパラドックス。黄名子は今こそ葵達と同じように生活しているしサッカー部のエースともなっているけれど、きっと歴史介入が行われる前の歴史に同じように彼女が存在していたことはない筈だ。そもそも、本来女子生徒はマネージャーのみで部員などは募集していないのだから。だけど、それでも、黄名子は此処にいる。まるで当たり前だとでも言うように。もしかしたら、その違和感は、少なからずとも当事者である彼女自身も感じているのかもしれない、と葵は考えた。境界線の、反対側。見える景色はゆらゆらと水面に揺れて歪だろうか。

「黄名子ちゃん、あのね」
「ん、なあに?」
「私も…」
「うん?」

私も黄名子ちゃんが見えないよ、とうっかり喉元まで押し上がってきた言葉を、葵はゆっくりと飲み込んだ。空気の固まりにすらならずに消えたそれは、塩辛い味を持ったまま葵の中に浮遊し続けているだろう。やはり、言ってしまえば楽になれると思った。しかしそれは何の解決にもならないことに葵は気がついていた。何を言ったって黄名子を傷つけるだけならば、必死に絞り出されたその言葉は何の意味を持つのだろう。どうしたってその答えは見つからなくて、結局葵は温かな諦めを含んだにぬるま湯に浸かることにした。つまるところ、保留という結論である。感情すべてを飲み込んで、葵は笑ってみせる。自分が笑うことで黄名子の輪郭が少しでも濃くなっていくならそれは良い事だと思った。

「――ううん、やっぱりいいや」
「ふぇ?……ふふっ!葵ぃ、何かタイムジャンプから帰ってきてからおかしいやんねー」
「そうかな?よく分かんないなー」
「そうだよー、ウチには分かるもんっ、友達だから!」
「そっか。……ありがとう」
「えへへ〜、何か照れるやんねっ」

何も考えないで彼女を受け入れよう、葵が心からそんなふうに思えるようになるまでは、きっと沢山の時間がかかる。二人を隔てる壁が明確に示されていないぶん、それは厄介な問題だ。ぼやけた黄名子の存在が消えてしまうような予感はまだ消えない。また、イレギュラーな存在である黄名子が良くも悪くも何かしらに影響を与えてしまうということも、事実だった。必然的、そうなるべき消失という言葉が頭の中に浮かぶ。いずれ黄名子も元の居場所に帰るべき時が来るのかもしれない。しかし、はっきりとした境界線はないけれど、この瞬間確かに存在している菜花黄名子の事を否定したくはないという想いもまた、事実であり葵の真実だった。葵は、なにもかもの事実や問題を後回しにして真っ白な状態で菜花を捉えたら――この子は友達で、それに大切な女の子なんだ、と自分がはっきりと断言出来る事に気がついた。同時に少しだけ、気が楽になった。
海があり、その底からは揺れ動く空が見える。空があり、そこからは見渡す限り広がる海が見える。どちらも同様に、反対側に住む者達にはその向こうの事が分からない。境界線は、見えない。ただ一心に、もっと理解したいからと言いながら手を伸ばして向こう側を求めている。






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さよならホライゾン/20120911
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