※途中微々裏注意

その日はよくよく考えてみると、たしかにずっと彼女の様子はおかしかったのだ。大好きで、通る度に買ってと駄々をこねられるクレープ屋やアイスクリームの屋台の前を通過しても彼女は何も言わず、視線すらやらなかったし、時折空を見上げて、何か考え事をするようにぼおっとしていたし、夕食の席でも水の入ったグラスをひっくり返したりしていた。その時点で、彼女の心の状態が悪いことに気づいていれば、彼女の自分に対する鈍感で女心の分からないやつという認識も覆せたのかもしれないが、それももう遅い。だって、いつも弱みを見せない彼女がこんなに泣いているのだから。

「うぐ…ひっく、えっ…」
狭く殺風景なビジネスホテルのベッドのうえで、夕香は泣いていた。声を殺そうと唇を噛み締めるが、その隙間から嗚咽がこぼれ出ている。照明のつけられていない部屋の暗さや冷たさが、彼女の孤独や、抱いた悲しい感情を一掃引き立てていた。ぽたぽたと落ちてはシーツに染み込んでいく涙の粒が、余裕の無さを表しているようだった。虎丸は、そんな夕香の傍で立ちながら、黙って見ている事しか出来なかった。部屋の黒はそうしていることで、さらに深まる気がした。
どのくらいそうしていただろうか。気がついたら、彼女の嗚咽がぴたりと止んでいた。代わりに、彼女の浅い吐息だけが聞こえた。虎丸はそれに気づいて顔をあげる。夕香は涙に濡れた赤い目で虎丸をしっかりと見ながら、塗られたリップグロスによって妖しく光っている唇を開いた。
「…虎丸さんは、何も言わないのね」
普段とは打って変わって、彼女の声は酷く掠れて情けないものだった。心の中に溜め込んでいる炎に、じりじりと焼け付くされているような、声。その中に、いつもの気丈さや朗らかさは一切無かった。虎丸には、それが何よりも哀しく感じられた。
「女性の扱いについては本当鈍感で頼りにならないわ、虎丸さん」
夕香は苦々しそうな顔で吐き捨てるように言った。虎丸は少し困ったような顔をしてそれに答えた。
「…声をかけた所で私には貴女を慰める事はできないでしょうから」
虎丸は本当にそうだ、と思った。それ以前に関わってきた女性は母やののみ、マネージャーぐらいだったからだ。しかも女性のなかでも年上の人としか関わる事がなく、自分より年下の女性の扱い方など分からなかった。だから慰める事など以っての外、到底出来そうにない。
夕香は、顔をしかめながら直立不動で立っている虎丸を見て、浅いため息をついた。そして、簡単よと彼女は言いながら静かに立ち上がる。そして虎丸がはしたない、といつも窘めているはだけた衣服のまま彼に近づき、虎丸の両頬にすっかり冷たくなった手を当てながら、唇を近づけて言った。

「私を抱きしめて、ありきたりな愛の言葉を囁けばいいわ」

虎丸の頬に当てられていた手はそのまま後ろへ伸び、彼を抱きしめるような形になった。そしてそのままベッドのマットに腰掛ける。スプリングの軋む音は男と女の情事を連想させて、虎丸は酷く不快な気分になった。
「やめてください」
「やめないわ、私は貴方が好きだもの」
にやりと悪いおんなのように唇の端を上げた表情は、彼女に全然似合っていないと虎丸は思った。
夕香は虎丸のネクタイに手をかけ、それを丁寧に外した。しゅるりと紐の解ける音がしてそれは床に落ちた。長く伸ばされた赤い爪が映える夕香の手が、今度は虎丸のスーツのボタンを外そうとしたので、虎丸は静かにその手を掴み、制止させた。夕香の眉がぴくりと動いた。彼女は怪訝そうな顔で尋ねてくる。

「…どうして?」
「こんなことをしても、貴女はいっそう虚しくなるだけだ。」
途端に夕香の顔が曇る。虎丸は夕香の体から自身を離した。離れてから改めて見た夕香は、怒りとも悲しみともとれる表情をしていた。
「私の事が嫌い?」
怯えたような、震える声で夕香は尋ねた。
「嫌いとか、好きとか、そういうのは関係ありません。」
虎丸は少しだけ声に熱を込める。
「…貴女はまだ子供だ、こういう事はまだ早いって、ご自身がよく理解されていると思いますが」

夕香は何も言わなかった。部屋にはかちこちと時計が鳴らす針の音だけが静かに響く。彼女は顔を見せないようにしてそのまま虎丸に背を向けた。その表情は分からないが、きっとショックを受けているだろうと思った。虎丸の目から見ても、あきらかに夕香は無理して大人ぶっている事は分かっていた。同年代の子達の流行とは違う、大人の女性が着るような服や化粧品を好むのも、ピンク色に染められた髪も、喋り方も、過ごしかたも、すべて背伸びをして早く大人になりたいと思っているからだ。それを、自分が否定したという事は、今の夕香すべてを否定したと同じなのだという事を虎丸は知っていた。けれども、だからこそ彼女が間違いを犯してしまう前に、はっきり言わなくてはならないとも確信していた。今日の夕香は特におかしかったのに、虎丸はそれに全くと言っていいほど気づかなかった自分を責めた。
夕香はベッドの枠に、先ほどと同じように腰掛けた。今日はどうしたんですか、と虎丸が感情を抑えた声で尋ねると、ふうと浅い吐息を漏らしてから、ぽつりぽつりと独り言のように話し始めた。
「今日ね、フィフスセクターの人達がお兄ちゃんの事を言っているのを聞いちゃったの」
消え入ってしまいそうな声で語る彼女を、虎丸は黙って見つめていた。
「彼ら、何て言ってたと思う?」
「……わかりません」
夕香の長い睫毛が少し伏せられた。彼女はそのまま悲しそうな顔で話を続けた。
「あんなに管理サッカーを愛している人は聖帝ぐらいだって」
彼女の瞳が揺らいだ。今にも溜められた雫がこぼれ落ちてしまいそうだった。虎丸も感情を抑えていたはずだったが、ぎりっと無意識のうちに歯を軋ませていた。やっとの想いで、口を開く。
「…聖帝は、」
「うん。知ってるよ」
そんなに悲しそうな瞳で見つめないでほしい。虎丸は久しぶりに泣きたい気分だった。夕香が溜め込んだ感情が、彼女の瞳から直接注ぎ込まれているようだった。
「それでいい。今のお兄ちゃんは、それでいいの。でも…」
夕香は窓の外に広がる東京の夜の街を見つめながら言った。
「それでも、お兄ちゃんは本当はすごく辛い筈だから、支えてあげたい。」
窓の外を眺める瞳にうつるきらびやかな筈のネオンの色は、今はとても哀しいもののように思えた。彼女はゆっくりと瞳を閉じる。

「なのに、私には力がない。それは私がまだ子供だからよ」
「…夕香さん、」
「はやく、大人になりたい。お兄ちゃんを守れるくらいに強くなりたい。」
彼女はしっかりと前を見て言った。そして、でもまだ無理みたいね、今日はごめんなさい。と自嘲するように付け加え、それ以上何も言わなかった。
虎丸は豪炎寺を尊敬しているし、尊敬しているからこそ彼の覚悟に胸を打たれ、共にフィフスセクターに雇われている。だが、この時ばかりは豪炎寺に対して不の感情を抱かずにはいられなかった。同時にそれ以上に、そんな感情を抱いている自分を酷く嫌悪した。豪炎寺も、虎丸も似たようなものだ。大切なものを守るために沢山のものを、自分の信念すらも犠牲にしなくてはならない。そして目的を果たす為には、知らない何処かの誰かをも傷つけなくてはいけない。目の前にいる、蛹から蝶へと無理矢理成りたがっている少女でさえも。ああ、なんて自分は無力なんだろう、と改めて虎丸は思う。子供の頃に理想としていた大人の像とは、自分は程遠い。
けどそれでも、自分達は犠牲にしたものの分だけ、目的を果たさなければならない。たとえこの先さらに彼女を守る、という面目で傷つけようとも、ここまで来てしまったのだからもう後戻りは出来ない。虎丸は新たに決意を固めながら、夕香を優しく抱きしめた。夕香の肩はとても細く、自身の固い筋肉質な腕のなかにすっぽりと収まった。彼女は驚いていたが、そのまま虎丸が何も言わないのをみて、瞳を潤ませながら虎丸の胸に顔を埋め、再び静かに泣き出した。スーツが濡れてしまうのも構わないから、夕香には今日は思い切り泣いてほしい。甘い言葉は今の虎丸には囁くことは出来ないけど、抱きしめる事なら出来る。だからどうか、明日にはいつものように笑ってほしい。君の笑顔を見られるなら、豪炎寺さんもきっと大丈夫だ。虎丸は、心からそう思った。

ねえ、夕香ちゃん。どうか焦らないで欲しい。大人になったって、できる事なんか少ないんだ。どうせ今すぐに君は大人になってしまうんだから。だからそれまでは、形だけでもいいから俺や豪炎寺さんに君を守らせて。それで満足するぐらい、俺達だってまだ子供なんだ。



どうか焦らないで/2012.03.11
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