(ベータ→)レイザ(→←)エイナム→→→アルファ←←レイザ
忠実な二人にとってまさに唯一であったキャプテン、アルファが居なくなってから早何日が過ぎただろう。正確には居なくなったというより故意に消されたと言うべきか。とにかく、エイナムとレイザの心に大きな穴と喪失感を残したまま彼は牢獄へと消えてしまった。アルファの代わりとしてキャプテン、ベータが配属されたものの、よく懐いていた飼い主に捨てられてしまった子犬が自分を拾ってくれたとはいえ新たな主人にすぐ馴染めないということと同じように、特にエイナムはベータに馴染めないどころか酷い嫌悪感を抱いていた。彼女はたしかに強く、その強さを認めてはいるけれども彼にとっての唯一は今までもこれからもアルファだけ。少し執着は落ちるもののレイザにとってもそれは同じ。だからA5という形で同胞を募り敵に勝負を挑んだりもした。すべてはアルファの為で、二人の目的も意志もただそれだけのために存在していたからだ。
だが人一倍支配欲の強いベータはそれを良しとしない。A5のキャプテンであり、アルファへの執着が1番に強いエイナムなどは特に彼女の「更正対象」に該当するようで、事あるごとに肉体的にも精神的にも仕打ちを受けている事を、レイザ自身も知っており、実際に目の当たりにもしていた。レイザにとってそれは気分の良いものでは無いし、相棒のような存在であるエイナムがそんな状況にありながら止める事の出来ない自分の無力さも恥じていた。エイナムの様子は日に日に悪くなり、特に外傷が目立つ訳ではないが時たま痛そうに腹を押さえていたり、精神的にすっかり参っているようであり、声を掛けても返事の無い状態が続いた。暗く重たい陰を背負っているような彼にわざわざ声を掛ける事はチーム内の誰にも出来なかった。
今思えば、彼の理性も精神も何もかも、アルファが失脚した時点で限界点に達していたのかもしれない。
いつもの通り鍛練を終えて、それぞれの自室へと皆が戻ったのは現実世界に置ける深夜時。薄く掛かった雲により、霞んだ月の光が窓をすべり抜けて室内を淡い光で満たしている。レイザはシャワーを浴び汗を流した後、備え付けのベッドに腰を下ろして休息を取っている所だった。機関からつねに支給される栄養剤を飲み、それから勢いよく横たわる。正直、雷門中のチームに勝利し続けているとは疲れは相当に溜まっていた。いくら機械的に動くとは言えレイザ達も器官は人間と同じ構造をしているし、疲れていれば睡魔だってすぐにやって来る。仄かに暖かく思えてきた月光を全身に浴び、今日も調子の悪そうだったエイナムの事を頭の片隅で考えながら、まどろみの海へと彼女が沈んで行こうとした時。
「レイザ、いいか」
「………?、エイナムか?」
突如、レイザの自室の扉を軽くノックする音が響き、そして後に届いた聞き慣れたエイナムの声が彼女の意識を覚まさせた。
――こんな時間に何を?
レイザの意識を駆け巡ったのはまずそんな疑問である。深夜帯、もう殆どの仲間達は今後の闘いにそなえて眠っていることだろう。エイナムなどは特に疲労困憊な筈だし、何故このような時間にレイザの部屋に来るのか、しかも何か用事があるような口ぶりで。
しかしエイナムの力に成れていないという自責の念も抱えているレイザは、多少の疑問要素はあれどただでさえ自分は彼の相棒として機能出来ていないというのに用事があるらしい彼をこのまま追い返す訳にもいかない、という彼女にとって至極単純な結果に達した。眠気に包まれつつあった身体を無理矢理起こして、レイザはドアへと覚束ない足取りで向かう。正直言って、ひどく眠たいのだが、致し方ない。眠気に耐える彼女の背中に月光が優しく当たる感覚がした。
扉までたどり着いたレイザは、髪を軽くかき上げながら施錠を外しドアノブを捻った。開けたドアの向こう、未来の技術が施された無機質な廊下には、いつもより窶れた様子のエイナムの姿があった。レイザはその姿を一瞥したあと眉間にシワを寄せながら彼に問いを投げ掛ける。
「…エイナム?どうしたんだ」
「…………レイザ」
奥底まで限りなく渦巻いているように見える、薄紫の瞳。――その時、レイザは背筋がぞくりと震えるのを感じた。どちらかと言えばまだ女性じみたはずの彼の声が、今はすべての色を失ってしまったかのように冷たく、そして低く抑えられている。直感的に分かったのは、それが如何に危険な状態であるかどうかだけ。思わず顔をサッと青くして、落ち着かせようとエイナムの肩に手を乗せた時にはもう遅かった。手遅れだった、と言うべきかもしれない。
「エイナ…っ」
エイナムはすべり込むようにしてごく自然にレイザの部屋に上がり込んだ。表情は無きに等しく、ひどく冷たい手がレイザのそれを強い力で掴み、離さない。そのままエイナムに扉を閉められ、レイザは抵抗する隙もなく元居たベッドに押し倒された。ぎりぎりとレイザの腕に食い込むエイナムの爪のせいで、そこには強烈な痛みと傷が生じている。レイザは必死に身をよじりながら浅い呼吸を繰り返した。
「はぁっ、エイナム、離せ!」
「煩い、静かにしろ」
「お前…自分のしていることが分かっているのか…っ?」
「…関係ない。とにかく黙れ、レイザ」
「お前が離したら黙ってやる!」
「それは出来ない」
「…ーっ」
刹那、エイナムの薄紫がゆらりと霞んだかと思うと、レイザの唇は彼のそれに塞がれていた。自分が何をされているか一瞬全く理解出来なかったレイザは、エイナムの吐息を0距離で感じ、彼の長い睫毛を視認した時、初めてキスをされているのだということを認識する。力を振り絞って足などで抵抗するが、いくら中性的な容姿をしているとは言え相手は男。力では敵う筈もなく、されるがままになるしかない。ベッドのスプリングが軋む音は一瞬激しくなったが、それもすぐに最小限のものに抑えられてしまう。レイザの長く艶やかな金髪が、シーツの上に数多の滑らかな筋を描きながら派手に広がる。
「んっ、はぁ…」
自分から溢れ出るなまめかしい吐息には嫌悪感を抱かずにはいられない。エイナムの唇は次第に少しずつ深くなり、彼の舌がレイザの舌を絡め取る。甘ったるく淫らな水音が部屋内に吐息と共に響き、それはレイザの理性や思考、最後に残った抵抗力をも奪い去っていく。身体が熱を持つ。麻薬のようにレイザの身体を支配し始める。頭がくらくらと揺らぎ、エイナムに全てが侵食されてしまうような気がした。レイザが容易に抵抗出来なくなっている事に気が付いたのか、いつの間にか手に込められた力は少しだけ抑えられていた。
「――っは、あ」
長いキスを終え、ようやく唇を解放されたレイザは、二人の間に出来た銀糸を見て思わず泣きたくなる。厭らしい、という言葉が似合ってしまいそうな今の自分の状態にも。真面目なレイザの性格は、被害を被っている彼女自身を追い詰めていた。
そんな二人を包み込む月の光の冷たさは変わらない。エイナムの瞳が、夜闇の中でぼんやりと月光を反射しながら浮かび上がっている。レイザは呼吸を整えながら、その薄紫を一心に見据えた。彼の瞳が狂気的な陰りを帯びて見えるのはきっと気のせいではないだろう。
「エ、イナム」
レイザは小さな声で、エイナムに声を掛ける。正直なところ心の中は恐さでいっぱいいっぱいだった。これからなされるであろう事、今まで機関の為に、アルファの為にしか存在していなかったレイザにとっては未知の事を想像しては形容し難い吐き気が込み上げてくる。けれど、それよりもまず、彼女は他ならぬエイナムの事を案じていた。エイナムは本来誰よりも真面目で、到底こんな事に及ぶようには見えない。それに加えて最近ベータやアルファ関連で思い詰めていたエイナムの様子。もっと、もっと早く何か声をかけていれば。彼にこんな目をさせなくて済んだかもしれない。一番傍に居たのに、なにも出来なかった。――ようやく息が落ち着いたレイザの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
(すまない、エイナム)
「…すまない」
その時、心中でレイザが呟いた言葉が、現実世界と重なった。最初は思っていた事を口に出してしまったのかと思ったレイザだったが、じきにその声が自分の物でない事に気づく。そう、先程謝罪を口にしたのは、レイザではなく、相変わらず無表情なエイナムだったのだ。彼女は驚きから少しだけ目を丸くする。その瞳の向こうでは、やはり変わらず薄紫が寂しげに揺れている。再び静かになった室内を、月の光がいっそう強く照らし出して、その内に充満する孤独や焦りを浮き彫りにしていた。
「こんなこと、するつもりじゃなかった…でも、そうだ、…分からないんだ。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、何を考えていいか、わからないんだ」
エイナムの表情は、暗闇に溶け込んでいて見えない。月は薄い雲に隠れてしまったようだった。巧妙で、ずるいと思う。彼には私の顔が見えているだなんて、釣り合わない。レイザは頭の片隅で眼をつぶる。何も考えることはない。アルファの顔だけが思考に浮かんでいた。
「あの女が嫌いなのは、俺を、嫌いなのは…。きっとアイツはアルファ様が嫌いなんだ。でも俺はアルファ様の事が好きだから。誰にも代えられないくらい好きだから。崇拝してるから。あの方がいないと、駄目なんだ、俺は。…なあレイザ、分かるだろ?すべてなんだ。俺はそのために存在していたんだから」
ああ、分かる。声は出ないが、心中でレイザはそう呟く。湿った空気が辺りを満たしている。
「でももうあの方は居ない。俺はベータに従う事はしたくない。俺は…あの方がいなくなったら、生きていけないんだ。いる意味がないんだ。なあ、分からないんだよ。どうすれば良い?俺は。――お前まで、…おんなだってだけで、ベータに気に入られてるってだけで、お前まで嫌いになって、憎くなって、相棒だというのに俺は…無茶苦茶にしてやりたいと思ってしまうんだ。何もかも奪ってやりたい。ベータの顔を歪めてやりたいと。」
お前は何も悪くないのに。彼の声色は非常に低くて、哀しみのこもったものだった。レイザはそんな彼を見て、自分がこの悲しくて滑稽かつ自分によく似た少年に、心の底を刺激される感覚を覚えた。エイナムの愛はひどく醜く歪んでいるが、それでもひたすらに真っ直ぐで清らかだ。それこそ自分とまったく同じ、純粋な崇拝。それなのに。天蓋を覆う空が丸ごと消え、海は滝から落ちていき、そして神を失った信者のようなどうしようもない喪失感を味わってなお、誰が正常な精神でいられると言うのか。レイザもまた、歪んでいる。いつの間にか全身を包む恐さは消え、そこに残ったのは哀れみとその先の情事の想像と少しの母性。今更そのことに気づく自分は彼と同様に滑稽だと思った。この場所、月の光を浴びながら、レイザは心底哀れんだ視線をエイナムに向ける。
――可哀相な人間
そしてまた、私も可哀相な人間だ。もう涙を流すことをやめたレイザは、長いことベッドのシーツを掴んでいた手を離し、エイナムの頬を優しく撫でた。エイナムが微かに震える。その時彼女は、初めてエイナムが泣いていた事に気づいた。綺麗な涙だ、と思いながら、レイザは薄く微笑んで口を開く。吸い込んだ空気は心地好い香りを纏っている。
「私を抱けば良い」
「…レイ、ザ…」
「私はもう構わないから。だから、抱けば良い」
「…っ」
「ほら、早く。…良いんだよ、無茶苦茶にされたって。――それでお前の気が済むのなら。」
愛なんてなくても成り立つ事。最初強引だったとは言え、これから先はレイザも同意の上だ。彼女の頭を、先程のキスの余韻が支配し始める。レイザは、今ならエイナムに抱かれても良いと思った。何故なら、レイザもベータのことが嫌いだったから。エイナムと同じ崇拝心を持っているから。ただ、それだけの理由で構わない。どうせすぐ終わるだろう。レイザの大切な相棒は、案外臆病なのである。その証拠に、彼女の言葉を聞いたエイナムは、顔をくしゃくしゃに歪めながら今度は優しくレイザの額にくちづけた。暗闇に浮かび上がる美しい薄紫は、冷たい輝きを放っていた。
再び月の光が部屋を満たす。なんの罪なのか罰なのか、囚人のような気持ちをただ抱える二人を、照らし出している。まるで温かく包み込むかのように煌々と輝いた。何が悪くて、どうすれば良いのか。そもそも自分達の考えは合っているのか。救われる道はないのか。このやるせなさは何処に行けば捨てきることが出来るのか。そもそも何が正しかったのか。清らかな歪みを治せるのか、最早二人には分からないだろう。きっとこれからも歪んだ想いを、純粋な信仰心を抱いていく。心の底で謝りながら。泣きながら。
止まったと思っていた涙が再び溢れていた事に、レイザが気づくことはなく、それはシーツ染み込んで何処かに消えていく。
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1万打リクエスト
虚ろに咲き描いて欲する/20120812
Title by ≠エーテル