六月某日、東京都内は梅雨など遠くに飛ばしてしまったかと思うくらいの猛暑に見舞われていた。陽射しはどこまでも容赦なく、人々の肌を焼こうと躍起になっているようで、ところどころ隆起しているアスファルトは異様なまでの陽炎に包まれている。それにより、ゆらりと歪む視界は無論気分の良いものではない。表を歩く誰もが頭上で煌々と光を放つ太陽を憎むなか、空野葵も大衆とほぼ同じ意見を持ちながら、雷門中への道程を覚束ない足どりで進んでいた。
「あ、っつい…」
覇気の無い呟きがため息と共に彼女の口から漏れた。短い髪がぺっとりと首に張り付く感触が、非常に葵をいらつかせる。いつもと同じスクールバッグに中身も変わらず必需品だけを入れているというのに、肩にかけられた荷物は普段よりも重く感じられた。朝の携帯チェックの時に確認した天気予報でも猛暑を伝えていたけれど、まさかここまで暑いとは。一枚だけでも汗ふきタオルを追加しておいて良かったと心底思う。思春期真っ盛り、容姿には常に気を使っていたいと思う葵にとって、暑さによって生じる汗は何よりも天敵だった。タオルもスプレーも欠かせないし、まずそれ以前に汗をかく事自体が嫌なほど。部活のマネージャーとしての仕事をこなす際に流す汗は仕方ない気もするけれど、こんなふうに余計な汗はかきたくない。それなのに、こうして歩き続ける間にもべたべたした汗はとめどなく溢れて来る。はあ、と漏れ出した二度目のため息は、先程よりも重さを増していた。
「はあ、もー最悪」
こんな時、葵は隣に天馬や友人が居ないことに安心する。いや、それが誰でも、今の自分の隣には誰も居てほしくなかった。人が居たら今以上かつ異常に汗の臭いを気にしてしまうから、気が気でないのだ。今日、天馬が信助と自主練に行ってくれて良かった。葵は少し朦朧とし始めた思考の中で、大体そんな事を考えていた。
目の前で、信号が真っ赤な電子の光を放つ。運悪く待ち時間の長い信号に引っ掛かってしまったようだ。ぶうん、と大きな音を発てながら走るバイクを見ては、葵はあのヘルメットの中暑そうだなあ、だとかいう取り留めのない想像を巡らしていた。あまりにも暑いと外的にも動くのが億劫になるように、頭の中で思考する事すらも面倒だから、眼前で流れる真夏日の景色を眺めながら特に意味の無い想像を繰り返し行うのが葵にとって一番楽なのだ。真っ赤なスポーツカー、派手に大きくアニメキャラが描かれた車、いびつな軌跡を描きながら走る危なげな自転車、主人と同じように暑さにうなだれる飼い犬。鮮やかで、それでいて朧げな景色は刹那の如くどんどん過ぎ去っていく。揺れる陽炎のせいか、世界の輪郭はどこか曖昧だった。
そんな頃。ぼんやりしていた空野の背中に、低く抑えられた低音が投げ掛けられた。
「おい」
聞き慣れた声。驚きながら振り返ればすっかり見慣れてしまった風貌。いつも不機嫌そうに歪んでいる眉をさらに寄せた剣城京介が、そこには立っていた。彼も練習前だというのに、既に滝の様な汗を流している。片方の手には近所のスーパーで配られている宣伝用の団扇を持っていて、もう一つの手に抱えられた沢山の荷物が入った鞄は見るからに重そうだった。
「剣城くん、早いんだね。まだ練習開始一時間前だよ?」
「……今日は少しはあいつらの自主練に付き合おうと思ってな」
「わあ、ほんと!?天馬達喜ぶよっ」
空野は暑さを忘れて思わず顔を綻ばせる。和解した後もどこか距離を置きがちだった剣城が少しは輪に入ろうとしている事が、そんな剣城を心配していた空野にとっては喜ばしい事だったのだ。
「で、どうしたんだ?」
「え?」
「…もう信号青なのに、突っ立ってるのには意味があるのか?」
ふいにかけられた剣城の言葉を受けた葵が、ばっと顔を上げて鮮やかな二色のそれを見上げると、輝いているのは青色の部分。わわ、と彼女が焦り始めると、目の前で剣城が可笑しそうに笑いだす。葵はそんな剣城を見て、恥ずかしそうに頬を膨らませる。
「なんで笑うのよ!」
「いや…なんでもない、…くくっ、お前暑いからってボサッとし過ぎだろ」
「もー、うるさい!」
真っ赤な顔で葵は反論し、剣城を遮るように歩き出したが、剣城もすかさず隣について葵の歩調に合わせはじめた。道は同じだし自然とそうなってしまうから、と、葵は怒りながらもその事についてはとうに諦めていた。じりじりと焼かれるような暑さは相も変わらず、汗は拭いても拭いても溢れ出して来る。
――そういえば。葵は、先程まで臭いを気にしていた事をそこでようやく思い出した。一気に覚醒したかのようにハッとなった彼女は、やだ、剣城くんが隣にいるじゃない、と、赤い顔を更に赤くしながらしきりに汗を拭きまくる。ゴシゴシと擦り過ぎたせいか肌が痛みを訴えて来るが、気にする余裕などはとうにどこかへいってしまった。止まれ、と自身に念じてみても、無情にも人間の身体は暑さに正直だった。焦っているせいもあってか先程以上に流れて来る。実際に臭った事は無いが、それでも一度気にしてしまうと手遅れなのだ。
「…どうかしたのか?」
明らかに様子のおかしくなった葵に、剣城がいつもより低い声を放った。同時に、葵の肩も兎の様に跳ね上がる。葵と剣城の距離、三十センチほど。匂いを気にする思春期の乙女にとって、その距離はあまりにも近い。熱さのせいか回らなくなった頭を抱えながら葵は、思わず、ほぼ反射的に剣城と距離をとってしまう。あからさま過ぎる反応に剣城が顔をしかめた事は、彼の顔を直接見なくても容易に想像出来てしまった。
「なんで離れんだよ」
案の定、少し不機嫌そうな剣城の声が隣から飛んできた。きっと彼は酷いしかめっつらになっているだろうと思いながら、葵は熱を冷まそうと懸命にタオルで汗を拭く。こんな時にも全く容赦ない太陽が本気で憎らしくなってくる。
「別になんでもない、よ?」
「なんでもないなら離れる必要無いと思うんだが」
「ちょ、ちょっとこの煉瓦にぶつかりたい気分なの!」
「……マゾ?」
「マゾじゃないもん!」
「じゃあサドなのか、イメージ変わるな…」
「サドでも無いからーっ!…というか剣城、私のことマゾだと思ってたの!?」
「どちらかと言えば」
剣城の顔はいつも以上の真顔だった。この暑さに加えて大きく叫んだせいか、葵の頭はガンガンと唸り始める。
「で、本当はなんなんだよ」
――げ、見透かされてる。話を逸らせたと思っていたのに。
睨むような剣城の視線に、葵はついに観念し始める。これ以上黙っていても彼は問い詰める事を止めないだろうし、事情を話せば色々と察してくれるかもしれない。本当は、この暑さとタオルと汗とを関連させて今にでも察してもらいたいものだけど。それは仕方ないという事だろう。少々躊躇いながらも、喉元で言葉を発させまいと立ち込める恥を飲み込んで葵は口を開く。
「………汗、がっ」
「は?」
「においが気になるのよ!だから寄らないで分かんないから!」
言ってしまえばそれまでだ。早口にまくし立てた葵が大きく深呼吸をすると、いくらか涼しげな風が入って来て、少しだけだが気分も軽くなった気がした。しかし顔が赤いのは相変わらずで、葵のタオルを動かす手は止まない。
そのあと、剣城は黙ったままだった。反応をされるのが怖い、と思っていた葵だが、全く反応が無いというのも逆に気分が悪かった。何を考えているのだろう、と、無意識に剣城の思考を想像してしまう。二人の横を自転車が通り抜けていく音や、元気の無い雀の鳴き声がやけに耳に留まる。せめて何か言ってよ、と心の中で念じてみても、結局は声にならない独り言でしかなく、葵は思わずため息をついた。熱気がこもった、重たい息は焼け焦げたアスファルトにゆっくりと沈んでいく。
と、ちょうどその時だった。葵の首筋を涼しい風が吹き抜けていったのは。
涼しい、と素直に感じてから、何故今までは涼しくならなかったのか疑問に思う。葵は、ううん、と唸りながら先程までの出来事を回想する。そうしてしばらく考え込んでいると、彼女の思考が紐とけて一つの可能性に突き当たった。そうだ、髪が首に張り付いて風通りが悪かったんだ。それで。
――では、今その髪の毛はどこに行ってしまったのだろう。汗は今も気になるのに、髪だけ?
大きな疑問。どうしたものかと、葵が首筋に触れようとした時、葵の思考は完全に停止してしまった。信じられない光景が彼女の視界にはっきり映し出されてしまったからだ。
「つつつつ剣城くん…!?」
僅か十センチ程の距離に、彼はいた。睫毛長いなあ、だとか、日焼け止めを塗っていないのにその白さは羨ましいなあ、だとか、そんな事が頭の隅を掠めつつも、葵の衝撃はもっと別の所にあった。
剣城が、自分の髪の毛の束を指で掬っている。そして、口元にそれをあてている。目をつぶっているせいか色艶を増した彼の表情。汗がつたう首筋が妙になまめかしくて、葵はくらくらしながらつい彼に見とれてしまいそうになっていた。
「ななな、な、何してるのっ」
状況についていけないのもあって、すっかり先程以上に赤面してしまった葵は、酸欠の金魚のように口をぱくぱくと何度も開きながら必死に声を発した。すると、剣城はゆっくりと瞳を開く。鋭い眼光が少しずつ覗く。その仕草から、葵は目が離せなかった。
しかし彼の表情は一変し、すっかり拍子抜けたような顔になった。そのあまりにも変哲のない、馬鹿にしたような顔に文句を言ってやりたくなる葵だが、声が出ないので断念するしかない。代わりに、渋々とだが剣城の言葉をおとなしく待つ。
剣城が口を開いたのは、彼が葵の髪を手から滑らせるのとほぼ同じタイミングだった。
「…気にすることねーよ」
「へ?」
戻ってきた髪の感触と共に、耳に染み込んでいく剣城の言葉。低さの中に込められた温かさ。意味を考え始めた葵の頭は、剣城の大きくて男らしい手にぐしゃぐしゃと少々乱暴な手つきで撫でられる。
「においなんて気にすんなって言ってんの」
「えっ、ちょっ、剣城っ、乱れ…」
「……良いにおい、してたからな」
「…っ!」
完全に不意打ちだった。剣城の言葉も行動も、彼の、きっと暑さのせいだけではなく赤く染まった顔も。剣城は隠すように顔を背けて、行くぞ、と葵に小さく声をかけてから早足に歩きだす。精神的にも現実でもおいてけぼりをくらった葵は、タオルで自身を拭くのを一旦止めて、勢いよく走り出した。正直なところ、恥ずかしかったけれど、彼女はそれ以上に嬉しかったのだ。
先程までは嫌だった距離が、いざ離れてみると今はどうしようもなくもどかしい。少しだけでも近づけるように、と、飛び散る汗の雫も気にせず走る。待ってよ、と後ろから呼び掛けてみても、案外照れ屋な彼はきっと振り向いてくれないだろうから、お返しとばかりに彼の真っ白な腕を掴んで、その顔を拝んでやろう。無理矢理で良い、力付くに振り向かせてしまおう。それから小さくお礼を言うのだ。少しだけ気が楽になった、ありがとう。そんな言葉を頭で復唱してみる。きっとすんなり言えるだろう。剣城がどんな表情をするのか、葵は今それだけが気になって仕方なかった。汗などまったく気にならなかった子供ね時からまだほんの少ししか経っていないのだから、いくら思春期真っ盛りの自分だとはいえ、その頃には必死になって汗を拭くことなんて忘れてしまっているのかもしれない。
―――――――
一万打リクエスト
こどもたちが歌う暑い春/20120722