「ねー、狩屋」
「ん?なに空野さん」
放課後、俺は空野葵と部室に向かっていた。他愛のない話をしながら歩いていたのだが、突然ふと思い出したように空野さんが口を開いた。
「あのさあ、マサキって呼んでも良い?」
「ぶっ!!?」
上目遣いでそんなことを言ってくるもんだから、俺は盛大に吹き、咳込んだ。空野さんが大丈夫?と隣で心配そうに尋ねてくる。少し騒がしくしてしまったためか、俺達の周辺を歩く生徒の視線が自分達に集まっている事に気づいた俺は、自分の顔の温度が急上昇しているのが分かった。本当に、空野さんはいつも唐突に衝撃的な発言をする。隣をちらりと見ると空野さんはまだ俺を心配そうな顔で見つめていた。
「顔も赤いけど、ホントに大丈夫?」
「だ!大丈夫だって!」
怪訝そうな顔でじりじりと寄ってくる空野さんに、近いよ顔を覗き込むな恥ずかしい!と一発言ってやりたかったがその時は我慢した。
「ホントに大丈夫なの〜?」
ジト〜と効果音が付きそうな声で空野さんが怪しげに尋ねてきた。だから大丈夫だって、とふて腐れたように念を押すと、しぶしぶながらも空野さんは引き下がったが、まだぶつぶつと不満を漏らしている。意外と頑固な所あるんだよな、と思い俺は溜息をついた。
「……で?」
話を本題に戻す。最初空野さんはなんと言った?そうだ、俺の名前を呼んだ。…マサキくん、マサキくん。その言葉が頭の中で反芻する。他に空野さんが下の名前で呼ぶのは、幼なじみである天馬くんと彼と異様に仲の良い信助くんの2名だけだ。もしかしたら他にも名前で呼んでいる人がいるのかもしれないが、すくなくとも俺が知っているのはその二人だけ。という事は、その中に俺も加えられるという事だ。彼女は俺の問い掛けの意味がよく分かっていないようで不思議そうな顔をしていた。
「だからマサキって」
「それは分かったから、なんで?」
「なんで?って…」
空野さんの瞳の色が暗くなった気がした。その不安を増大させるように、春にしては少し冷たい風が俺達の間を吹き抜ける。少しの間を置いて、彼女は不安げに俺に尋ねてきた。
「理由がなきゃ、名前で呼んじゃ駄目なの?」
う。と俺は言葉に詰まる。そんなに不安げな顔をしないでほしいと思った。なんだか俺が凄くいけない事をしている気分になるから。というか俺は、空野さんに下の名前で呼ばれるのが嫌な訳ではなかった。
「いや、駄目じゃないけど…」
そう聞いた瞬間に、空野さんの顔色が一気に明るくなった。彼女は満面の笑みを浮かべながら
「じゃあ、いいでしょ!?」
と嬉しそうに言ってきた。くそ、この女計算してやがるな?そんなに嬉しそうにされたらこっちだって断れるわけないじゃんか。俺はハァ、と本日2回目の溜息をつきながらいいよ、とそれを承諾した。空野さんはそれを聞いてますます幸せそうな顔で指をくるくる、マサキ、マサキ、と俺の名前を連呼している。うわ、なんだか恥ずかしい。俺はやっと冷めた顔がまた赤くなっているのを感じた。
「…そんなに言うのやめろよな、」
ついつい口調がぶっきらぼうになってしまう。
「だって、なんか嬉しいんだもーん」
いひひ、と彼女は意地悪な笑みを浮かべてまたマサキ、と小声で俺を呼んだ。小さくて薄い桃色をした形のいい唇で、とても大切ものを呼ぶように。俺はどきりとして、目を逸らす。そんな俺を見て、空野さんは勝ち誇ったようにくす、と笑っている。俺はなんだかよく分からない敗北感に苛まれた。なんの勝負かは知らないが、このまま負けていてはいけない気がする。赤く緩みきった頬を引き締め、俺は空野さんをちらりと見た。
空野さんは勝利の余韻に浸っているのかすっかり無防備になっている。よし、これならびっくりさせられだろうと思い、俺はニヤリと口角を上げた。空野さんに少しずつ近づいて距離を縮め、頭と頭がぶつかるぐらい近くに顔を出した。そして彼女に向かって、低めの声を意識しながら言った。

「葵」
「え?」
彼女が俺のいる方向に向き直ると、当然俺の顔はすぐ近くにある。空野さんは一瞬間抜けな表情を浮かべながらぽかんとしていた。その最初は無表情だった顔が、みるみるうちにトマトのように真っ赤に染まっていったのを見て、今度は俺が勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「顔、真っ赤」
「そそそれはマサキがいきなり…!」
彼女は予想外の出来事にかなり戸惑っているようで、手をグーにしてバタバタと振りながら目をぐるぐるさせている。こういう反応が返ってくると企みがいがあるなあ、と思った。
「焦りすぎ、葵」
「…!!っ」
空野さん…もとい葵が俺をキッと小さな子供みたいに眉を吊り上げて睨んできた。だが非常に赤面しているため正直全く効果が無い。
「葵だって名前呼びなんだから、おあいこだろ?」
「それはそうだけど…あんなに近づくことないじゃない!」
彼女は赤くほてった顔をその小さな手でぱたぱたと扇ぎながら、不満を漏らしている。そりゃびっくりさせなきゃ仕返しにならないだろ?俺はそう思いつつニヤニヤと笑いながら今だ怒っている彼女を見た。その時ふと、彼女の腕についている腕時計の時刻が目に入ってきた。話している間に、もうすぐ部活が始まってしまう時間になっていたようだ。急がなくては、あのやたら俺の面倒を見たがるピンク髪の野郎を筆頭とした先輩達に怒られてしまうだろう。俺は隣を歩いている葵をちらりと見てから、彼女の文句を軽くスルーしながら走り出した。彼女はそんな俺を見て、えっと少しおどけたような声を漏らす。
「ちょっと待ってよ、マサキ!」
葵も俺の後を追い掛けて、慌てて駆け出した。
「早くしないと、遅れちゃうぜ葵〜」
「だからっておいてかなくてもいいじゃない!マサキのばかっ!」
葵はそう叫び、息を切らしながら全力疾走をしてくる。大声でマサキ、葵、マサキとお互いの名前を呼ぶことによって、再び周りの注目を集めてしまったが、俺はもうそれが既に気にならなくなっていた。今俺が集中すべき事は、この名前を呼び合いながらの楽しい鬼ごっこが出来るだけ長く続くように、走る速さを調整することだ。




名前を呼んで/2012.03.10
×