大人になって変わったことって、なんなんでしょうね。唐突に、隣にいる彼女があんまりにも悲しげな声を発するものだから、俺はハッとなって彼女の方へ視線をやった。音無春奈は前を向いたまま、あと少し瞳を揺らしたら、涙がはらりと落ちてしまいそうな儚げな瞳で5月の爽やかな風に吹かれている。木漏れ日の下、ふたりきりの世界。音無の瞳は俺の心をぎゅうと締め付けた。彼女は再度、噛み締めるように呟く。大人になって変わってしまった事――。俺は頭の中でその答えを探し、思い付くままに口にしてみた。
「沢山あるな。身長とか、体重とか、周りとの付き合い方とか、食べ物の好き嫌いとか」
「ですよね、…豪炎寺さんはいけ好かないスーツで聖帝とか名乗っちゃうし。しかもついこのあいだまで。今考えると恥ずかしくないですか?アレ」
「…そこは触れないでくれると有り難い」
俺が苦々しい顔をしながら照れ臭そうに話すと、音無は少しだけ微笑んだ。その少し緩んだ頬を、程よく冷たい風がまた撫でる。俺には何故か、その風が彼女の流れなかった涙を拭ったように見えてしかたなかった。
「いろいろ変わってしまったな」
「はい、本当に」
俺はじい、と抑揚の少ない声で喋る音無の顔を見つめた。その顔には暗い影が落とされていて、彼女らしくないその闇にどくりと心臓が唸る。もしかして、どこか体調が悪いのだろうか。それとも、悩み事があるのか?今の彼女のひどい様子を見ていたら、そんな根拠の少ない不安が次々に脳内を埋めつくした。このままでは、彼氏としてなんだか情けないし、プライドが許さない。何より音無が心配だから、何があったのか尋ねてみよう。しばらく他愛ない会話を交わしながら、頭の別の意識で俺はそう結論付け、話題が一旦切れたところで音無の顔を覗き込んだ。
「……音無」
「はい?」
「お前、なんか悩んでたり…するのか?」
音無はぎょっとしたように目を丸くしてから、焦りながら早口でまくし立てる。やだ、何突然私悩み事なんて。だって、辛そうな顔をしてたから。全然辛くなんかありませんよ、気のせいです。 いや絶対に哀しいって顔してる。大丈夫ですってば心配しないでください。でも、気になるんだよ。だから気にしないでください!そんな意味の無い舌戦がしばらく続く。音無が中々しぶとい女だという事は重々承知だったけれど、随分長いこと彼女は引かなかった。少しだけ俺の心も苛立ってきて、ついつい声が低くなってしまう。
「…じゃあ、なんでそんな泣きそうな顔をしているんだ?」
――だが、俺が一言そう告げると、わざとらしいしかめっつらで俺に反論し続けていた彼女の口が、ぴしりと硬直した。頬もがちがちに強張っている。そして少し隈の目立つ瞳を見開いて俺を見上げた。しばらくそうしたあと、音無は困ったなあ、と苦笑を漏らしながら呟いた。豪炎寺さんにはお見通しなんですね。そう言う彼女は、ひどく疲れている様子だったと思う。不安定で、水に浮かべたら溶けてしまいそうな、そんなくらいに淡くて薄かった。
「はは。情緒不安定、って感じで。最近あんまり眠れてないんです」
「…やっばり何か悩みでもあるのか?」
「いえ、悩みとかは、全然」
音無は胸の辺りで手を振りながら、やはり苦笑を浮かべつつきっぱりとした口調で否定した。
「だけど」
しかしそこで、音無の口調が弱々しく頼りないものになる。彼女の顔はいつになく物憂げで、雰囲気からはやはりすぐに消えてしまいそうな儚さを醸し出していた。
「最近、思うんです。私は幸せで充実していて、満足…しているはずなのに。なのに、昔の自分を振り返ったら、これで本当にいいのかな?って。思っちゃうんですよ」
「……」
「昔描いていた将来の自分の像と私は、一致しないんです。…何をすれば一致するようになるかは、分からないんですけど。だから、ちゃんと私が、理想の大人になれてるのかな…変われてるのかな、って…」
音無の瞳は、世界というレンズ越しに遠い過去を捉えていた。俺もそれに合わせて、彼女と同じように昔を追想する。俺達が、付き合いたての頃。いつも音無は、朗らかに夢を語っていた。彼女が教師になりたいのだと語り始めたのは、いつだっただろうか。始めて俺にそれを打ち明けてくれたとき、彼女は確かに笑っていた。嬉しそうな顔で、未来への期待をひたむきに抱きながら。まだ将来への認識が漠然としかなかった年代なのだから仕方ないだろうけども。
理想は崇高で、実に素晴らしいものだったと思う。だが現実はそんなに甘くはなくて、必ずどこかしらで壁にぶち当たることは俺もよく知っている。人間は何かを選択し、その道に進みたいと願う時、ある種の妥協を強いられる場合が多い。むしろ妥協をしなくても良い生き方など無いだろう。大人になるにつれて、もう自分は純粋な子供ではいられないと悟ってゆく。それは、仕方の無い事だ。
「…描いていた夢通り、とはいかないだろう。教師なんて大変な仕事なんだし、人間で完成された奴なんて一人もいない」
「…分かってる、分かってるんです。仕方のない事だって、理解してるつもりで…でも、あの頃一緒に歩いていた皆さんは、それぞれにしっかり歩いているから、おいていかれたように思ってしまうんです」
――私はちゃんとした大人に、なれてるんでしょうか
視線を上げて、真っ直ぐに俺を見つめた音無の目は綺麗だった。真っ直ぐで、透明で、ちらちらと星が燃えているような綺麗な瞳。昔よりも少しだけ、大人びた視線が俺を見据える。――大人なって、変わった事ってなんなんでしょうね。私は変われてるんでしょうか――、音無の言葉が、頭の中でゆっくりと反芻する。俺は素直に、ちゃんと変われてるじゃないか、と思いながら暖かい陽射しに目を細めた。知らず知らずのうちにどうやら唇も綻んでいたようで、音無になんで笑ってるんですか?と訝しげな視線を寄越されたが、曖昧にごまかしておいた。
音無は、まだ理想卿を夢見ている少女だ。言ってしまえばただそれだけで、つまり純粋過ぎるだけなのだろう。けれど、いつか彼女がもっと妖艶に微笑む事が出来るようになった時には、きっとそんな夢見がちな頃を懐かしむように追憶するようになるのだ。その時の彼女を想像しながら、そうっと彼女の頭を撫でる。すると音無はくすぐったそうに、昔と一つも変わらない、あどけない顔でふんわり微笑んだ。
シャングリラからかえれない/20120521
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