部活に行くため坂道を歩いていた立向居勇気は、自身の気に入りの音楽プレイヤーから流れてきた曲が気になり、ふと歩みを止めた。ポケットの中からそれをスッと取り出し、おもむろに曲名を確認する。流れていた曲はちょうど今日の日付が曲名となっていて、立向居はなんだかよく分からない嬉しさが込み上げて来るのを感じていた。立向居の持っている音楽プレイヤーは彼の誕生日に両親から贈られたものだが、立向居自身は毎日サッカーに打ち込んでいるため音楽を聴く機会が少なく、流行りの曲なども知らないので何かあるたびに両親が勝手に曲を更新してくれていた。その更新された曲を、立向居はいつもランダム再生で部活に行く途中や勉強時間に聴くことにしている。今流れて来ている曲は立向居が初めて聴く曲であったし、無作為に流れてくる沢山の曲の中で、この日にこの曲が流れて来たのには何か良い縁があるのではないか、と立向居は思った。なんだか気分も良くなり、軽いあしどりで長い坂道を再び歩き始めた。そよそよと吹いてくる涼しげな風が心地好く、また本格的な春の訪れを告げていた。上に目をやると桜の木はもう蕾をつけていた。新しい生命が動き出す春が、立向居は好きだった。
さらに強く、ざあっと風が吹き、立向居は一瞬目を細めた。その時、閉じられたまぶたの裏にふと、ある一人の女の子の姿が映った。藍色の髪に、特徴的でおでこの辺りに上げられた赤い眼鏡。釣りあがり気味な瞳が細められ、柔らかく笑う顔。そう、イナズマジャパンのマネージャーだった音無春奈のことだ。
もうしばらく会っていない音無の事を思い出し、立向居は感傷的な気分になりながらぽつりと呟いた。思わずふう、と溜息が口の隙間からこぼれる。
「音無、元気かなあ」
マネージャーの音無春奈とはメールアドレスの交換は行ったものの、メールを打つ度に内容に迷いすぎて、うんうんと唸っているため時間がかかり、自然と送り合う回数も少なくなってしまっていた。音無と立向居は付き合っている訳ではないので、もし彼女に彼氏でも出来てしまったら、もしかしたらただでさえ少ないメールのやり取りすらも出来なくなってしまうかもしれない。立向居は自分の胸がきゅうと縮こまるのを感じた。どく、どくと静かに高鳴っている心臓。ああ、春についてを考えるだけで彼女の事を思い出してしまうなんて情けないなあ、と自嘲交じりの笑みを漏らした。
出会った時から立向居にとって、音無はまさに春の暖かい光そのものだった。優しくて、自身を包んでくれるような笑顔。練習中にふと盗み見た彼女の藍色の髪の毛は光に透けながら風に揺さぶられてなびき、とても美しかった。最初はただのチームメイトだったのに、いつの間にか彼女は近くにいて、立向居は彼女から目が離せなくなっていた。音無といると、時間がとても穏やかに感じられた。練習のあとの夕暮れの中の彼女も、大丈夫といいながら夜遅くまで仕事をしている彼女も、常に春の暖かさを纏っていた。立向居は、そんな音無を見るだけで幸せになれたし、勇気を貰えたのだ。

今日三度目の強い風が吹く。立向居がそんな事を考えている間に、いつの間にかその曲は流れ終わっていて、次の曲のイントロが始まっていたようだ。立向居はなんだかふわふわとしたような、幸せな気分だった。プレイヤーを取り出し再生ボタンを再び押して、曲を止める。立向居はこのままの気分で練習に向かいたいと思った。
学校に近づくごとに、早くから来てくれている一年生や二年生の声が聞こえてくる。立向居は緩み気味だった頬を叩いて引き締め、真っ直ぐとしっかりとした目つきで前を見た。立向居の学校のサッカー部員は皆立向居に協力してくれるが、まだ強さ的な課題も山積みであるし、完全にチームが纏まっている訳でもない。これからキャプテンとして様々な問題に立ち向かっていかなければならないだろう。きっとその道のりはひどく困難で、くじけそうになってしまうかもしれない。
でも、と立向居は思う。
思いながら、立向居はまた目を閉じた。瞼に映るのは、夕暮れのグラウンドで微笑む音無の顔。他の一年生に葛を入れる怒った彼女の顔や、自分を心配してくれた顔。そのどれもに立向居は励まされたし、またFFIで自分を支えてくれた人の中で一番の功労者は間違いなく彼女だ。自分が悩んでいた時に真っ先に気づいてくれて、必殺技を編み出すときも積極的に協力してくれたのは音無だった。音無はいつも、立向居くんになら必ず出来る、と立向居を励ましてくれていた。ここで躓いては音無に合わす顔がないだろう、と立向居は考える。
立向居は非常に爽やかな気持ちで校門をくぐった。遠くから一年生が元気なトーンで挨拶する声が聞こえたので、立向居はそれに対してしっかりと返した。グランドを覗くと既に整備がされていて、準備も出来ていた。今はまだ強い訳ではないけど、誰よりも優しく協力的な後輩達に後押ししてもらった気分だった。自分も早く準備をしようと部室に向かった時にふと、先程まで聞いていた曲について思い出す。あの爽やかで切ない曲調や歌詞を思いだし、やはりなんだかあたたかな気分になったので、部活帰りにも聞こう、と思った。


ねえ、音無。俺にとって君はとても大切な人だけど、君にとってもそうでありたいって、心から願ってるよ。




瞼の裏/2012.03.09.


*3月9日という事で、レミ/オロメンの曲を題材に書かせていただきました。
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