昔から、温もりに抱かれて眠るのが夢だった。
周りの奴らが母親と手を繋いでいるのを見るたびに、胸が苦しくなっていた。
冷たい布団一枚で、いや布団が盗られて無かった日もあったが、とにかく酷く冷えるなか、小さな俺は震えながら眠る。枕を濡らす涙は、毎日絶える事は無かった。
そんな俺の目に映っていたのは、歎き悲しむ母親と、真っ暗な世界。
そして今は、同じ薄紫の髪を持った血の繋がっていない奇妙な親子と、そいつらがもたらす―――
「おはよ、あきおくん」
懐かしい夢を見た。とても悲しくて辛くて、それでいて確かに現実だった夢。そんな夢の余韻に浸ったままの眼を醒まさせたのは、目の前で俺を覗くように屈み込んでいる久遠冬花の大きな声だった。悪い寝起きによって眉根を寄せている俺を全く気にしていないふうにニコニコ笑う冬花は、おはよう、と繰り返す。同意を求めているらしい。
「……はよ」
「へへ、朝ごはん出来てるよ」
「…おー…」
「早く来てね」
ぱたぱたと兎柄のスリッパの音を鳴らせながら、冬花は居間の方へと駆けていった。しなやかに揺れる藤色を見送り、俺はのそりと布団から起き上がる。時刻を見遣ると午前8時。日曜日にしてはまだ起きるのは早い気もするが、まあこのままぐたぐだしていても冬花に怒られるだけだろう。箪笥を開いて中から適当に黒のVネックとバーゲンの時買ったジーンズを取り出し、手早く着替える。そうしてようやく頭が冴えだしたあと、俺は冷たい床の感触を確かめながら冬花の後を辿った。微かに、良い匂いが鼻孔を擽る。俺が昔心から欲して、そして絶対に手に入らないと諦めていた居間から漏れ出る温かな光は、ひどく眩しかった。
「いい匂いじゃん、朝飯なに?」
「あ、あきおくん!今日は早かったね。朝ごはんは卵焼きと鯖の煮付けとお味噌汁…後ね、お米は今日から新米だよ。香り米!」
「…美味いぞ、お前も早く席につけ、不動」
「……はよ、道也」
「おはよう」
無愛想、無表情で朝の食卓についている道也だったが、その顔の端々から娘の料理を堪能しているという喜びが滲み出ている。その証拠に口にはリスみたいに卵焼きをつめていて、冬花にがっつきすぎだと注意されていた。相変わらずの父親代わりの姿を見て何処か安心しているのは、あんな夢を見たせいだろうか。そんな事を考えながら俺もいつの間にか決まっていた指定席に座り、冬花が運んできた朝飯に手をつけ始める。いただきます、なんて毎日飯のたびに言うようになったのは、この家に来てからだ。愛媛にいた頃の俺の朝といえば、毎日学校には遅刻していっていたのもあり平日休日関係なく朝は遅く、朝飯なんかたまにしか食べなかったし、食べる前の挨拶などもしたことが無かった。 必要無いと思っていた訳ではないが、母親から教えられた事がなかったから、別にいいと思うようになっていたのだ。でも久遠家に居候する事になってはじめての食事で、挨拶をせずに飯を食ったらひどく怒られた。それからは、家の掟に従い初め、俺も次第に外でそれが出来るようになった。ふつうの子供にとっては当たり前、だが俺にとっては大変新鮮な事だ。初めは照れ臭ささや、慣れない違和感にとまどったが、いつの間にか「いただきます」という言葉の響きが好きになっていた。理由は分からないけれどひとつ思い当たるとすれば、俺がそうやって家に馴染んでいくたびに見せる冬花と道也の笑顔が、見たかったのかもしれない、という事。本人達には口が裂けても言ってやらないが。
ずず、とまず初めに味噌汁を啜る。素直に美味い、と思った。そして冬花が新しく仕入れたという米も、付け合わせの漬物と一緒に口に含む。香り米の名のいう通りに、米の良い匂いが口いっぱいに広がった。
「米美味ぇじゃん」
「でしょーお米いいの買ったからね、へへん」
「冬花の炊き方も上達したんじゃないか、なあ不動」
「え、…まあ、そう思わなくもない」
同意を求められて驚いた俺が咄嗟に答えを返すと、鍋に向かっていた冬花ぱっと嬉しそうな顔で振り返り、本当!?と声を弾ませて尋ねてきた。その柔らかい微笑みに胸がどくりと唸る。頬まで紅潮してきて、俺は照れを隠すように顔を背けて、先ほどの冬花の言葉を小さく肯定したが、彼女のふふふ、という楽しげな声からしてバレてしまっているだろう。くそっ。その声とほぼ同じぐらいに、道也の咳ばらいが聞こえてきた。視線から、「娘はまだやらんぞ」という少し悪意の込められた意思が送られて来る。やるやらないの前に、別に冬花と付き合う気も結婚する気もないんだけど、という俺の心情を、向こうは察する気すらないようだ。相も変わらず娘が大好きなのである、コイツは。俺は軽くため息をついてから、再度箸を動かし始める。
「さー私も食べよっ」
俺の隣に冬花が座り、先程まで響いていた料理器具のがちゃがちゃという音が消え、少し騒がしかった居間がしんとなる。テレビから聞こえてくる音と、食べものを咀嚼したりする音が空間を支配していた。それは俺にとってひどく心地好く、暖かな空間で。交わされる言葉は少なくとも、俺が切望してやまなかった幸福が此処には確かに存在しているのだ。今はまだ素直に口に出して、言えはしないけれど。でもいつかもう少しだけ大人になれたら、ちゃんとありがとうって伝えようと思っている。そうして、嬉しそうに笑っている道也と冬花が、その未来に居ればいい。
「ごちそうさま」
「わ、あきおくん食べるの早いね、今日は」
「まあ、美味かったからな」
「…へへー、ありがと」
「ちゃんと片付けろよ、不動」
「はいはい」
目を閉じる。歎き悲しむ母親と、真っ暗な世界が、やはり小さな俺の目には映っていた。
そして今は、同じ薄紫の髪をもつ血の繋がっていない奇妙な親子と、そいつらがもたらす優しくて暖かい世界が、いっぱいに広がっている。
それは淋しくない/20120603