澄み切った蒼に、少しばかり陰りの残る白い積乱雲がもくもくと立ち上る煙の様に広がっている。それはそれは美しい原色のコントラストが天蓋を覆っていた。じりじりと焼かれる様な暑さの中、額を伝う汗の雫を拭いながら、杏はそんな天上を見上げていた。暑いのは好ましく無かったが、こんな夏空は嫌いではなかった。煩いほどに響き渡る蝉の声が、杏の心を更に夏の色でいっぱいにさせる。
ぽとり、と何かが、公園の隅で物思いに耽る杏のしなやかな太股に落ちた。突然の冷えに驚いて、急いでその正体を確かめると、それは今しがた口にしていた氷菓から滴る水滴であった。中をちらと覗くともう溶け始めてしまっている。ああ、早く食べてしまおう。杏は視線を氷菓に向けて下げ、手に持ったままになっていた紙スプーンで一つ掬い、口に放り投げた。その直後、冷たく仄かに甘い味が舌の上に広がる。杏はレモン風味のあっさりとしたこの氷菓子が大の好物であったので、再度その味に満足した。そうして、ころんと転がる二つ目のそれへと手を伸ばした時、隣に座る幼なじみの怠そうな声が聞こえて来た。
「あっっぢい…おい、杏。それちょっと寄越せよ」
嫌よ。と、即答。声の主である南雲は苦虫をかみつぶしたような顔をしながらも、予想通りであっただろう杏の返答に落胆している。それでも諦めきれないのか、今度は敬語で強請って来たが、杏の返答は無情にも変わらない。それに無情にも、というのは南雲側の言い分や意見を含む表現なのであって、杏側からしたら至極当然の結果、合理的なものだった。時はつい先程まで遡り、コンビニ内。南雲は少ない小遣いを奮発して、普通ならこの炎天下の中には些か濃すぎるのではないかと購入を躊躇う筈の、濃い事で有名なバニラ味のアイスクリームを買ったのだ。それを隣で見ていた杏は、迷わず気に入りの氷菓と定番のお茶を手にレジへ行きながら、南雲の未来を想像して可哀相に、と少しだけ同情する。南雲は飲料水すら買わずに店を出たのだから、後で喉が渇いた等と己の失態を歎きながらほざくに決まっているだろう。杏がそう彼の不幸予想をしてから彼女を招く南雲の元へ駆け寄ると、南雲は直ぐさまそうだ、公園へ行こう!と旅行雑誌の受け売りのような台詞を口にした。暑いのに?と杏が尋ねると、この暑さだからこそ、真夏の空の下でアイスを食すのがいいんじゃないか、というのが彼の言い分らしい。馬鹿だなあ、ととっくに呆れきっている心は思考の隅に押しやって、杏は敢えてその誘いに乗る事にした。早く冷房の効いた部屋に戻りたいという気持ちもあったが、この頭の回らない幼なじみは少しぐらい痛い目に合わないと反省しないだろう、という感情の方が強かった。そんな彼女の心中など察する気も無いであろう南雲は、杏が二つ返事で了承した事で調子に乗り、後先考えずに歩きだした。そして彼はこれまた杏の予想通りに夏の洗練を受けることとなる。
「暑いし、おまえは冷たいし、もー最悪」
「あんたが公園に行こうなんて言うからいけないんじゃない。ほんと馬鹿ね」
「うっせえ!だいたいお前俺がこうなるって知ってただろ!」
「そんな当然の事が分からないのなんて晴矢くらいじゃないの」
杏のしれっとした態度に南雲は何も言い返せない。目映い夏の陽射しにくらりと蹌踉めきながら、立ち上がった腰をどすんと椅子の固さに沈める。あー、暑い。――暑いときに暑いと言うと更に暑くなって来るというけれど、やはり人間知らず知らずのうちに口にしてしまうもので、南雲は今日一日何回暑いと言ったのか数え始めていた。朝一番に一回、朝ごはんが出来る前に一回、出かけ間際に一回…。今日の出来事について考えているうちにも次第に意識が朦朧として来て、本格的に気分が悪くなって来る。火照った頬や、夏の終わりには日焼けで悩むであろう頭皮は益々温度を上げていき、南雲は徐々に生命の危機まで感じ始めた。馬鹿だなあ、俺、なんでバニラなんて買っちまったんだろう。こんなに成るんだったら候補にあったスイカバーにしておけば良かった。あれ美味いんだよなあ。後悔後に立たず、今更考えても遅いもしも話だけが頭の中に渦巻く。ぐるぐる、ぐらり。一瞬、視界の中が逆さまになってひどく歪み、マズいかも。と、遠くなってしまった思考で薄っすら考える。
そのまま暑さに身を任せて、瞼を閉じそうになってしまった瞬間だっただろうか、ふと、南雲の額に奮え上がる程冷たい何かがぴとりと当てられた。
「んひゃあ!!?」
彼の意識は瞬く間に覚醒し、口から飛び出た間抜けな声は隠しようが無かった。恥を感じながらも額を見ると、そこにはテレビのコマーシャル等でよく見知っている清涼飲料水のペットボトルが、隙間から覗く永続無限の蒼穹を背景に琥珀色の液体を揺蕩わしていた。その直後、反射的にそれに手を伸ばすと、元からボトルを掴んでいたらしい掌がぱっと離れ、中身がたっぷりと入ったそれが南雲に向かって落下して来る。わわっ、と慌てて受け止めながら、隣で氷菓を嗜む杏を瞻ると、彼女は相変わらず無愛想な顔で南雲を見返した。
「…何よ」
「え、あれ?杏、これくれんの?」
「さっさと飲まないと奪うからね、早く飲みなさいよ」
「…ありがとう?」
杏の意図が読めていない南雲は、それでも天から降ってきた恵みの雨に感謝するように有り難くそれを頂いた。喉が一気に潤って、南雲のぼんやりと茹だっていた頭に爽やかな五月の風が吹き抜ける。実際に吹いているのは身体が溶けてしまうのではないかと思うくらいの熱風なのだが、身体の芯が冷えると案外マシに感じてしまうものである。ごくごくと勢いよくそれは南雲の身体に吸い込まれ、まだ残量が多かった筈のペットボトルの中身はたちまち空になってしまった。飲み干した後に、これは杏の物なのだから怒られるのではないか、と気づきハッとなった南雲は咄嗟に謝罪を口にしようとしたが、それは意外にも彼女の手によって遮られた。少し汗ばんだ白い手で南雲の視界は埋め尽くされ、同時に彼女の素っ気ない声が耳に届く。杏の方としては、もう怒る気力も無かったのだ。あまりの暑さに彼女自身がうんざりして来たというのもあったし、何より戒めになるとは言え流石に倒れられては困る。まあ充分教訓は得ただろうし、ここらが引き際だろうと考えたのだった。空のペットボトルに対して少々怒りも沸いたが、まだこちらには氷菓子がたんまりとあるし、家に着くまで彼の横で見せ付けるように食べてやろう。少しして聞こえて来た、疑問系では無い素直なお礼の言葉に軽く返事してから、重たくなった腰を上げて、ボトルをくずかごに投げ入れている南雲に声を掛ける。もーいい加減帰ろ?という杏の提案には南雲も間を置かず賛同し、彼ものそりと立ち上がった。ミンミンミン、相変わらず煩く合唱し続ける蝉の声だけをその場に残し、二人は園への帰路につく。誰もが家でぐったりとしながら休息をとっている真夏の昼下がり、誰も居ない道路に二人の声だけが静かに響いた。
「帰ったら遊ぼうぜ、サッカーとか」
「嫌だよ暑いじゃん、あんたまだ暑さに懲りてないの?」
「サッカーは別。…まーたまには室内でトランプでもするか?」
「あたし寝る」
「なんだそりゃ、つまんねーな」
「良いのよ。昼寝したいの、昼寝」
「……じゃー俺も寝っかなー」
交わされる取り留めの無い会話は、すぐに揺れる陽炎の中に溶けて消えていった。二人の頭上には、やはり透明度を含んだ濃い青が悠然と広がっている。すると突然、入道雲だけが顕示しているそこに、一つの真っ直ぐな軌跡が描かれた。二人はそれを見つけた瞬間ほぼ同時に飛行機雲だと呟き、同じ台詞が出てきた事に驚いて顔を見合わせ、そして小さな笑いをこぼした。杏も南雲も、この夏のすぐに忘れてしまいそうな一つの風景が、いつしか記憶の中で燦然と輝く思い出のかけらになっていく事をまだ、知らない。
エンドレススカイ/20120510
お題:リリシュカ