夜風が気持ちいい。遠い国から吹いてきているのかもしれないそれは、私の青い髪を闇に溶かすようにゆらゆらと満ちていた。ざあざあ、ざあ。波のさざめく音は耳に心地好かった。何処もかしこも真っ暗で、人一人いない波打際。水面を覗けば更に深い闇がどろどろと、私たちを取り込もうとしているかのように蠢いている。私はそれを眺めながら、美しいってこんな海の事を言うのかな、と割と真剣に思った。ちょん、と触れれば背筋が凍るくらいに冷たい水の感触が伝わって来たけれど、そんな真夜中の海はどことなく温かい気がした。――私と風介くんは、そんな冷たい優しさの中に、二人きりだった。

「海風が心地好いな」
「ええ」
「…瞳子姉さんや、晴矢の馬鹿は心配しているだろうな」
「ええ、そうね」

彼の瞳は遠く果てしない紺の向こうを捉えていた。何を思い浮かべているのだろうか、曇りの無い宝石のような綺麗な瞳で、何を。風介君の顔を見遣りながらそう考え、私も同じように地平線へと目をやる。私は、地平線のあの真っ直ぐさに憧れていた。どこまでも直線で、限りがなくて、はっきりと示されているそれはひどく眩しい。対する私たちはなんとちっぽけで、ぼんやりとしているのだろう。自分の存在を示したくても、示せる物が無くて、それが何よりも哀しい。生きている事が辛くて、じゃあ少しだけ抜け出してみようか、なんてどちらともなく言い出して、ふたりきりの逃避行の真似事をしてみたけれど、何一つ変わらなかった。このまま海に落ちて死んでしまう事も出来ない。かといってみんなと生きる勇気も無い。けれど二人で生きるのは、まだこどもの私たちには無理だ。もう少し大人になって、社会的に認められてからではないといけないのは、私も風介くんもよく理解しているつもり。ああ、なんと無力なんだろう。逃げ出す事も、向き合う事も出来ない、臆病で愚かな私たち。真っ暗闇が私たちを包んで、体温を奪っていく。まだまだ夜は冷えるのだなあと心の底で思った。自分の手を組んだ時に感じた温度は、とてつもなく低かった。

「ねえ、クララ」

彼の寂しげな声は、ほとんど波の音に掻き消されてしまっていたけれど、それでも私の耳に届いた。低すぎもせず、高すぎもせず。成長期途中独特の良い声だと思う。彼の声は、自然に聞こえて来るさざめきと同じようによく耳に馴染んで、心地が良かった。

「…なあに、風介くん」
「手を、握ってくれないか」

突然の彼の要求に対して私は素直に、手を伸ばしてするりと彼のそれに滑り込ませた。指を絡ませて、僅かに触れる爪の固さを感じながら、ぎゅうっと力強く握り締める。風介くんも、同様に私の手を握り返して来た。彼の手はやはり冷たくて、凍えているよう。闇の絨毯を背景に月から放たれる神々しい光が、私たちの青白い肌の色に反射する様はどことなく艶かしかった。ゆらり、ゆらりと、銀色の水しぶきをあげる波を見ながら、ああいっそ、流されてしまえたらなんて意味も無い空想に耽る。この流れに乗って何処までも、二人きりで世界中を旅出来たら良いのに。それくらいの力が、私にあれば良かったのに。

「クララ」
「なあに」
「それそろ、園に帰ろうか」
「………ええ」

風介君が持ち掛けた提案に対して私が少し躊躇いを見せたのを彼が気にしないでくれているのは、きっと彼自身もそう思っていたからだ。私達はよく似ている。物事の考え方から捉え方、果ては抱いている孤独まで。どうしようもない、足掻きようがない、そんなひどい孤独。それは私達の心を掻き乱し、ぐるぐるにして、方向性を無くさせてしまうのだ。何をしたらいいのか、何をしたら正解なのかが分からなくなって、私達は真っ黒い心を掻き分けて疱き続ける。それがたまらなく嫌で仕方なかった。どうせ生きていく道が見つからないのなら、いっそ魚になって海の中で溺れていたいと切に思う。風介くんと二人きりで、永遠に波間をたゆたう事が出来たなら。
でもそんな事はやっぱり無理だって、私は知ってる。


風介くんの、昔よりも大きくなった背中を見つめながら、私はまた生きる為の道を歩み始めた。柔らかい砂浜の上に足跡を残しながら、無言で帰路につく。逃避行は僅か5時間ほどで、呆気なく終わってしまった。悲しさのような、よく分からない寂寥の感が私を襲う。ちらつく街頭の光に照らされながら、私は先の事についてうっすら考え込んでいた。生きる事。私がしっかりとその名前を世界に刻んでいくこと。その先には海の暗闇なんかよりもずっと深い黒さが渦巻いていて、やはり怖いと思う。それでも、生きていかなければいけないのだから、とりあえず園に着いたら…――心配しているであろう皆に謝って、お礼を言って、そしてにこりと笑ってみせよう。不安も悲しみ何もかも海中に押し込めて、そしてそのすべてを波が攫ってくれたらいい。
はらはらと、肌よりも生温い涙が、私の頬をつたった。大粒の、塩気を含んだ感情の塊は、せき止める堤防を持たずただただ溢れ出てきていた。今此処で泣いておいたら、きっとあとで綺麗に微笑む事が出来る気がしたから、私はそれを拭いはしなかった。光を反射しながら地面に溶けてゆくそれは、とどまる事をしらない。前方の方に目を遣れば、私の涙と同じように流れ落ちる別の雫が見えた。風介くんも、泣いていたのだろう。自分自身の無力さを確かめていたのか、自分が子供だという事を実感して傷ついているのか、それは分からない。ただ、ごめんと静かに謝る彼の、ひどく頼りなさげな声が私の心に響く。そして、風介くんは何かを懺悔するように私の手を強く握り締めた。




あなたと二人なら怖くないのに、二人だけじゃ生きていけないんだって/20120514

お題:恒星のルネ


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