「これ、なんですか」
まこが練習後、今日母親と喧嘩したから泊めてくれないかと話を持ち掛けて来たのが4時間前。渋りに渋ってもまこは引かなかったので仕方なく部屋に招き入れたのが3時間前。夕飯を食べ終わったのが2時間前。それから風呂や仕事の整理など諸々を済ませて、ようやく落ち着いたのが10分ほど前。そして今。まこは鮮やかな赤色のタンクトップ一枚にショートパンツという無防備な格好で、俺の家の台所を漁っていた。正直、タンクトップの隙間から胸の谷間やら純白のレースに飾られたブラやらが覗きみていて目のやり場に困ってしまうのだが、向こうはそれを言っても「半田さんのエッチ」と蔑むだけで改善してはくれないという事が先ほど分かったので咎められない。
まこは台所のいたるところを物色していたのだが、その時何かを見つけたらしかった。ねえねえ、と急かすように発せられる声の元へと、缶ビールとチーズ鱈ひとつを片手に向かう。冷たく冷えたビールにツマミのチーズ鱈の相性は言うまでもなく抜群で、毎日疲れた身体をこうやって癒す度に俺はこの瞬間の為に生きているのではないかと思うくらいだ。ごくん、と一口ビールを飲み込んで、屈んだ体制になって棚を覗き込んでいるまこの隣に腰を下ろす。酒臭い、と文句を言われたので一応睨んでおいた。
「…で、これなあに?」
「どれどれ…っと、ああこれか。桃の蜂蜜漬けだよ」
まこの吊り上がった赤い目に映っていたのは、透き通った茶色をした大きな瓶だった。中には完熟した桃が幾つか入っている。これは祖母の趣味の産物で、半田家では生の白桃より蜂蜜漬けにして食べる回数の方が多かったりする。昔は大掛かりな行程を経て、樽まるごと一つぶん作っていたらしいのだが、祖母が高齢になってからは規模を縮小し、このような瓶詰になっている。そして俺が家を出てからも、桃の蜂蜜漬けは頻繁に実家から送られて来ていた。ちなみに、桃を潰れないようにするには蜂蜜以外に生姜や蜂蜜酒を入れたりもするらしく、味を締めるという意味でも是非入れた方がいいとのこと。それらをまこに説明すると、彼女はなんだか感心したふうに、へえ、と呟いた。
「美味しいの?」
まじまじと瓶を眺めていたまこの興味深そうな瞳が、今度はこちらに視線を一心に注ぎこんでくる。どうやら、甘い匂いが漂って来るそれが気になるらしかった。本人は自覚しているのかいないのか、凄く物欲しげな目になっていた。
「ああ、美味いぞ」
「へえ……あの、その、えっと」
「……食べたいのか?」
「………いいんですか」
その問いを否定したら途端に不機嫌になるのを俺は知っていたし、此処まで説明しておいてお預けというのも可哀相だ。それに、大人げないし。俺がまこの問いに、良いよと気前よく返すと、彼女はパアッと顔を輝かせて子供みたいに笑った。あ、可愛い表情も出来るじゃんか。俺はまこの意外な表情になんだかひどく照れ臭くなり、彼女からふいと目を逸らす。いつもそんなふうに笑ってればいいのに。普段のしかめっつらとかがに股になって怒るのをやめておしとやかにしていれば。そんな事を考えていたら口元が自然と緩んでいたらしく、いつもの睨み顔のまこに頭を叩かれた。かなり痛い。
「…おいしい!」
頬を仄かに紅潮させて、まこが驚きを受けたように顔を輝かさせている。喜んでくれてよかった、と俺が言うと、まこは自分のはしゃぎようにハッとなったのか、こちらに背を向けた。だが桃の蜂蜜漬けの美味しさには勝てないらしく、スプーンを掬う行為がやめられる事は無い。その様子の微笑ましさから笑いを零しそうになるが、笑ったら円堂顔負けの正義の鉄拳が飛んでくるのでなんとか堪えた。生温い夏の夜風が満たしているベランダに、何処かから聞こえて来る虫の音とまこが桃を咀嚼する音がしずかに響く。俺は目を閉じて、その音に耳を澄ませた。なんてことない、優しい日常の音たち。
「もぐ。ねえ、半田さん」
「なんだ…ーうっぷ」
「…飲み過ぎじゃないですか、ビール、んぐ」
「いーんだよ、オトナの特権」
「飲み過ぎたらガンになりますよ、気をつけてくださいよね」
「へいへい、分かってるよー」
「…もー」
「ねえ、半田さん」
「今度はなんだよ」
「また今度で良いですけど、……桃の蜂蜜漬けの作り方、…教えてください」
「お、つくんの?」
「はい、だって美味しいですし、また食べたい」
「そっかあ、なら婆ちゃんに言っとくよ。作ったら俺にも食わせろよなー」
「…別に良いですけど」
なんてことない音達が、こんなにも愛おしいのはなぜだろう。まこの隣で都会の霞んだ夜空を見上げながら、俺はぼんやり、もう夏だなあ、と思った。
熟し過ぎた桃、湿ついたぬるい夜風。夏。/20120524
Title by ごめんねママ