わーっ!という大きな歓声が上がった瞬間、音無春奈は我に返って顔を上げた。耳にぴんと張り詰めていた膜が弾けて、雲ひとつない青空の下、その光に染められた景色が勢いよく視界に飛び込んでくる。
 眼前に広がる見慣れたコートでは、雷門サッカー部のエースである剣城京介と松風天馬が、嬉しそうにハイタッチを交わしている。今は一通りの基礎練習を終えてゲームを行っているはずだったから、どうやらゴールが決まったらしい。ナイシューだ――さすがのコンビネーションね、と春奈は淡い笑みを浮かべつつ、直前まで空想の中に浸っていた頭をなんとか覚まそうと指で目をこすった。


「寝不足?」


 左隣から、爽やかな青年の声がひとつ。春奈は再度はっとなる。そういえばそうだった、彼もいたんだっけ――気づいたあと、彼女は横を向いて否定とも肯定ともとれる曖昧な笑みを返した。ううん、違うの。寝てはいたのよ。昨晩は11時には布団に入ったし、眠りもちゃんと深かったと思うのだけれど。それでもなんとなく瞼が重いのも事実だから、もうそろそろ年齢を気にするべきなのかとらしくもなく考えてしまう。照りつける太陽は温かいはずなのに、今の目にはあまり優しくない。
 
「…どうしたのかしら、疲れが溜まってるのかな」
「音無はすぐ無理するから」
「な、あきれたみたいに!あなただって人のこと言えないでしょ。FFIのとき、みんな遊んでたのに一人黙って練習とかしてたじゃない」
「うっ」
「……、まあアレがなかったら、こうしてあなたと親しくはしていなかったかもしれないんだけどね。立向居くん」

 ――立向居勇気はどこか懐かしい困り顔で(彼は近頃妙にキザな表情ばかり浮かべるようになったのだ!)、あははと苦笑した。彼は本日、雷門中サッカー部の練習を見学するためにこのフィールドを訪れている。なんでも所属しているサッカーチームの練習が休みになり午後からは完全にオフだったので、さてこれから何をしようかと考えたときにふと西園信助の顔が浮かび、以前から練習に付き合っていた彼の様子が気になったからやって来た、とのことだ。現役で活躍するプレイヤーである立向居は、その豊富な経験を活かして部員たちにさまざまなことを丁寧に教えてくれる。顧問としてもそれはとても有り難いことなので、非常に突然の訪問ではあったが春奈たちは快く彼を歓迎した。
 ちなみに、爽やかな好青年像をそのまま写し取ったような容姿の彼は校内でもよく目を引いた。特にそういうことに関心の高い女子生徒の視線を。声をかけてきたり、果ては握手や写真を求めてくる生徒なんかもいた。本人は、一応自分はプロのサッカープレイヤーなのだからもう少しそっちの方で声かけられたいんだけどな…と少し落ち込んでいたりしたのだが、立向居と付き合っているという立場にある春奈としてはまたいろいろと別の意味で複雑だった。彼が春奈の表情や心情の変化に気が付いているのかは分からないけれど。変なところで鈍感なのだから、まったく。届かない透明なため息は空中に消える。今さらのことだと、いっそ笑えるくらいに。
 再び響く、爽快なゴール音。今度は錦龍馬が得点を決めたようだ。流石は雷門の元ストライカーね!と、春奈は錦に声援を送り、その隣で立向居は悔しそうな西園に励ましと明るいアドバイスを伝えている。

「どう、うちのチームは」

 ゲームがまた動き出したあと、春奈はいくらか自慢げな響きを添えて問いかけた。すると立向居も感心したような顔で、すごいよと声を漏らす。たくさんの人が今の成長した雷門中サッカー部を誉めてくれるけれど、やはり身近な人間の称賛というのは嬉しいもので、なんだかとても誇らしい気分になった。

「うん、ほんと前よりずっと強くなったね。ちょっとビックリしたよ…円堂さん、新しい特訓方法でも考えたの?」
「いや、ちょっと時空を、」
「へ?」
「――あっ。…なんでもないわ、やっぱり!」
「ええ!?秘密事かい」

 ずるいよとわめく立向居に春奈はいたずらっぽく笑ってみせる。近頃は大人びた彼の言動に翻弄されてばかりなのだからたまには仕返しをしたって許されるだろう。それに、未来から来た少年たちと時空を飛び越えてサッカーで世界を救いました――なんて、いくら本物の天使と悪魔と戦ったこともある立向居にも、なかなか信じられる話ではないはずだから。
 尤も、自分たちが関わってきたことだってあの子たちにも負けないわよね、と春奈は胸を張って、それから幾らかの感傷をもって考える。
 懐かしい学生時代の出来事が、脳裏をよぎる。
 いろいろなことを経験したたくさんの季節。翻るスカートと、今は型が変わってしまった旧式のユニフォームが視界の端にひらりと映る。泥だらけの汗臭い狭い部室の中から、全国を旅したキャラバン中から、海を越えた先にある世界のフィールドから、彼も春奈もまだ今の雷門の生徒と同じくらいの目線で世界を眺めていたとき、世界は今より広く遠く見えた。臨んだ未来は、どこまでも輝かしい煌めきを放ちながら果てしなく広がっていた。響き渡るゴール音なんか、もっとずっと新鮮に聞こえていた筈なのだ。だってかつてあのフィールドに立っていたのは自分たちだったのだから――。

(まあ、そんなの、私が勝手に思い出を美化しているだけかもしれないけれど)

 春奈はひとり苦笑する。これは、中途半端に濃い思い出を抱えてしまった子どもの大人になりきれないわがままなのだろうか。もやもやとしていてよく分からないけれど、そんな思いを今になっとも捨てきれない自分がなんだかひどく可笑しかった。
――だけどねぇ、私、いまここにある幸せを満喫しないのは勿体ないわよ?
 そよ風がベンチの隙間を駆け抜ける。抜けるような青空、その、なにもかもどうでもよくなるような眩しさに、目を細める。そして、不意な思いつきから立向居の手をそっと握ってみた。大きな間。それを通りすぎたあと立向居は当然ぎょっとして、丸い瞳をさらに丸くさせながら顔を赤くした。そういう初々しいとこは変わってないのよね、と春奈はくすくす笑った。これもささやかな仕返しのひとつに含まれるだろうか。

「立向居くん。あのさ」
「な、ななな、なんだい」
「もー、焦りすぎよ」
「だって君が!!」
「……、立向居くん」
「は、はい!」
「変わったことも、変わらないことも、全部含めて私はあなたが大好きだからね」
「――――、っ」

 立向居の顔はいよいよ茹でた蛸のようで面白い。暫く我慢していたのだが、春奈はついに耐えきれなくなって爆笑した。ただ、重ねている手だけは離さない。指と指を絡ませて、ぎゅっと繋ぐ。
 そう、変わることが怖い時期もあったのを覚えている。過ぎ去った時間を離れていかないように抱き締めていられたらどんなに幸せだろうと考えていた時期もある。変わってしまうサッカーと向き合うことも、立向居とこういう関係になることも、自分自身が成長してしまうことも、初めは全部怖かった。今だってすこし怖い。失うことに対する恐怖、それは、心のどこかでまだ息をしたまま残り、春奈のトラウマになっている。変わらなければいけないことがあるとは分かっていても身体の一部は硬直して不意に動けなくなる。それでも、恐怖を押して開いた扉の向こう側に広がっていた世界は――思い描いていたよりもずっと、鮮やかなままで。
 春奈は何だかんだ、この世界を、今の現実を心から愛しているのだと思う。
 そして、立向居のことも。


「…音無は、いつでも突然なんだから」


 立向居は赤くなった顔を腕で隠しながら、うらめしそうに言う。でもなんとなく嬉しそうな、そんな表情だったものだから、春奈はにししと笑ってみせた。木暮みたいだよと拗ねる彼は、なんだか昔とあまりに変わらない。

「やっぱりずるいよ…」
「あら。立向居くんだって最近相当ずるいじゃない!当然の報いね」
「む、そうかなあ?」
「そうよ!」
「…でも改めて聞くと嬉しい。ほんと、ありがとな、春奈」
「えへへ――って、あれ、え?」

 そのとき、ある重大な違和感に気がついて、ふと春奈は言葉を止める。突然の思考停止。はて、彼はいまなんと?
 眼前には、いくらか余裕を取り戻したような顔で微笑む立向居の顔があった。

「――"春奈"」
「…!」
「俺も、春奈が、大好きだからね」

 今度は春奈がゆで上がる番。どんなに念じても紅潮してしまう頬を押さえるすべを、彼もきっと直前まで探していたにちがいない。だってこんなにも、こんなにも恥ずかしくて照れ臭くて、……どうしようもなく嬉しいのだから。

(やっぱりずるいのは立向居くんの方だわ!)

 それでも握った手だけは、絡めた指だけはほどかない自分も大概なので、きっとこの勝負はおあいこということでじきに幕を下ろす。ありえないほどの穏やかな幸せに、くらくらとぼやける視界の中で。
 まるで夢の中にいるような心地だった。昔とどんなに変わったって、そこは、そして春奈の抱いているものは、いつかの理想と全く変わらない。自分は確かにここにいて、それを心から望んでいるのだ。だから今日も早く寝ようと春奈は思う。この温もりが消えないうちに。彼の笑顔がそばにあるうちに。溢れんばかりに降り注ぐ幸せを噛み締めながら。


「春奈、なあ春奈」
「…っ、もうっ、ばか!」
「春奈は俺のこと、下の名前で呼んでくれないの?」
「〜〜!?」


 ――春の日和のもとでそんな甘ったるいやり取りを交わす二人の姿を、遠巻きにじっとり眺めるサッカー部の選手たちに気がついた春奈が再び顔を真っ赤に染め上げるのは、その数分後のことである。





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一周年リクエスト
夢見たみたい/20140204
Title by 自慰


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