休日どこかに出掛けようと最初に言い出したのは、一体誰だっただろうか。
 真っ青な画用紙に新品の白い絵の具を垂らしたようなまぶしい晴天を窓の向こうに見上げ、黄名子はひとつ満足げに頷いた。前日から待ちきれない様子だったフェイはすでに表に駆け出しており、アスレイもその小さな背中を慌てて追い掛けている。しんと静まり返った家の中に残されたのは黄名子だけだ。
(うん、いい天気!)
 行ってきますと言いながら動きやすいようにスニーカーを履いて、黄名子も外に出る。左手には前日から張り切って作ったお弁当を携えて、手提げ鞄の中には日焼け止めやいざというときのための医療グッズも忘れずに。歩きながら確認をして、よし、と再度頷いた。こういうとき、黄名子は自分が母親であるという事実を改めて実感して嬉しくなる。今の自分の姿は長い間彼女が憧れていた景色そのものにちがいないから。

「フェイー、アスレイ!」

 じゃれあっている二人に声をかけて呼び戻し、自家用車に乗り込んでいざ、出発。黄名子は免許を持っていないので、運転は必然的にアスレイの担当になっている。彼がお酒をあまり飲まないため今のところ目立った問題はないが、フェイが来年から遠方の幼稚園に入園することや、その送り迎えの手段を考えるとそろそろ自分も免許を取った方がいいかなと思い始めているところである。
 後部座席のフェイは黄名子が誕生日にプレゼントしてあげたウサギのぬいぐるみ――ロビンを抱えて「まだ着かないの?」とせっかちだ。黄名子はクスクス笑いながら「いい子だからおとなしく座って待つやんね」とジェスチャーを交えて諭す。フェイからは「はーい!」と何とも元気のよい返事が帰ってきた。

「フェイは素直ないい子やんね」
「ああ、そうだね。君が母親として頑張ってくれているからな」
「――、でもうちが家事に専念できるのはエルドラドでお仕事頑張ってるアスレイのお陰だよ?」
「え」
「いつもありがとう、アスレイ」
「…それを言うのは私の方だ、黄名子」
「ふふ。アスレイ、だーいすき」
「……」

 アスレイは黄名子から視線を逸らす。しかし運転をしている以上前から目を離す訳にはいかないので、黄名子の方からは彼の赤く染まった頬が丸わかりだ。周囲からは鉄火面だとか仕事の鬼だとかいろいろ言われているようだけど、黄名子から言わせればそんなこととんでもない。アスレイの気持ちくらい、彼のことを心から愛している黄名子にはお見通しなのである。

「ば、ぼくだってママとパパのこと大好きだよ!」

 アスレイと黄名子の間に発生した雰囲気に、まだ子どもながら微妙な疎外感を感じたのかフェイが怒ったように声を大きくした。生まれたての嫉妬にますます嬉しくなって、うちもフェイのこと大好きやんね!と黄名子は高らかに宣言してやった。アスレイも小さな声ではあるが表情を柔らかく和ませてフェイに応えた。ここが車内でなかったなら、きっとフェイは今すぐにでも黄名子とアスレイに抱きついていただろう。しかし聞き分けのよいフェイは満面の笑みを浮かべながらロビンを抱き締めてちゃんと座席に座っている。シートベルトだってちゃんとしたままだ。与えた愛情を吸収してまっすぐ育ってくれた我が子の姿を、黄名子もすぐに抱き締めてあげたい気持ちでいっぱいになった。


 向かった先は、家族連れに人気だというハイキングコースに沿って整備されている公園であった。一面に柔らかなみどり色の芝が広がっており、広大な敷地面積を誇るグラウンドも設置されていることからサッカーをするのにも適していて、前々から家族で来たいねと話はしていた場所だった。駐車場に車を停めて車内から降りた瞬間、フェイはサッカーボールを片手に抱えてまたもや勢いよく飛び出した。泥だらけになってしまうと洗濯が大変なのでロビンは車でお留守番。今度は、黄名子が急いで彼の姿を追いかける。見失ってしまったら大変だ。

「ママー!ここ、ここでお昼ごはん食べよう!」
「そうだね、ここがいいかな」

 無尽蔵な体力に成長を感じてつ、先に駆けたフェイになんとか追い付いて、汗をぬぐいながら彼の頭を撫でる。黄名子は春の空に向かってひときわのびのびと枝葉を伸ばした大きな木の下から、きょろきょろと辺りを見回した。平日の昼間ということが大きいのか人影は少ない。ハイキングに訪れている家族連れは自分たちくらいではないだろうか。

「黄名子、フェイ!」

 二人で座ってのんびりと談笑しているうちに、アスレイが荷物を持って駆けてくる。黄名子もフェイも立ち上がってシートを引くのを手伝った。アスレイはこういうことに慣れていないというのに、今日はフェイに父親らしいところを見せようと頑張っているらしく今ではすっかり骨董品と化してしまった携帯用のガスコンロ相手に悪戦苦闘している。その様子に黄名子は思わず笑いたくなったが、必死な彼とその傍らで「パパがんばれ!」と応援しているフェイの姿を見ているうちに、その笑いは微笑ましさに変わって澄んだ空気の中に溶けてしまった。なんせ三人で出掛けるのなんて本当に久しぶりのことなのだ。黄名子自身も、肺の奥から沸き上がってくる高揚した気分をひしひしと感じている。幸せとはこういう空気のことを言うのだと考えてしまうくらい、三人はとりわけ穏やかな時の中にいた。
 アスレイの長い格闘の末にようやく着火したガスコンロでスープを温めて、昼食の準備が整った。お腹がすいているのか早く遊びたいのかはよく分からないがどうにもそわそわと落ち着かないフェイのために、それじゃあ!と黄名子は悪戯っぽいウィンクと共にアスレイに合図を送る。

「――いただきます!」

 三人揃って手を合わせ、行儀よく食べ始める。弁当の蓋を開ければフェイは嬉しそうに歓声を上げた。二重の大きな弁当箱からまず顔を出したのは、さまざまな食材を組み合わせて作ったロビンの顔だった。所謂キャラクター弁当と呼ばれるそれは、黄名子が過去にとある友人から教わったものであり、あらゆる苦心の末に完成させた一品だった。もともと彼女は料理があまり得意ではないのでその努力は決して尋常なものではない。アスレイも喜ぶフェイにつられるようにして「すごいじゃないか」と珍しく大袈裟に黄名子を褒めた。ふふん、と満足げに鼻を鳴らしつつ黄名子は下の段の中身のお披露目に取りかかる。

「下はね、ほら、おにぎり!」
「のりの形が兎になっているんだな」
「わー!ママ、すごいすごい!」
「へっへーん、うちだってやるときゃやるやんね!」
「ねぇママ!もう食べていい!?いーよね!?」
「いいよーフェイ、味わって食べてね」

 黄名子が言い終えた瞬間、フェイはぱくりと勢いよくおにぎりにかぶりつき、アスレイもそれに倣った。美味しそうにお弁当を食べている二人を見ているだけで前日からの努力も報われるというものである。母親として、こんなに幸せなことはない。我ながら絶妙にふっくら仕上がった卵焼きを口にしながら、努力のかいあったなあとその味を噛み締める。黄名子は周囲に満ちた幸せな空気にゆったりと微睡んだ。
 今日は本当に、いい天気だ。空の青さも、木漏れ日の柔らかさも、なにもかもがあの日と同じように綺麗に澄んでいる。通り過ぎた季節、自分たちが駆け抜けてきた日々の向こうにこんな世界が広がっていることを、あの頃の自分は果たして心の底から信じられていただろうか。
 黄名子は目を細めながら、凪いだ海のように静かな空を見上げていた。




 視線の先でフェイがボールを蹴っている。いち、に、さん。リズムよくリフティング。ところどころ危なっかしいが様にはなり始めている。最初は狙った場所にボールをぶつけることもままならなかったというのに、大した進歩だ。たどたどしくも懸命にボールを蹴りあげる小さな姿を見て、やっぱりフェイは黄名子に似ているよと感慨深げにアスレイが呟いた。

「そうかなあ、ご近所さんにはよくアスレイ似だって言われるけど」
「…見かけはそうだろうけど、やっぱり、僕には黄名子の影響が強いように見えるよ。それにほら、目とか眉毛の形なんかも黄名子そっくりだ」
「――うふふ、でも結局半分半分やんね」
「え?」
「フェイは、紛れもなく、私たちふたりの子どもなんだから」

 フェイは一生懸命にボールを追い掛けている。きっと何度取り逃したって諦めないのだろう。それが転がった先にある未来のことを黄名子はよく知っているから、分かるのだ。
 思い出しては胸の奥が詰まって切なくなるような、けれど何故かいつまでも色褪せないまま心に残っている、素晴らしい冒険をしたことがある。
 タイムマシンが発達したこの時代においても信じてもらえるか怪しい昔話。世界も時空も常識さえも飛び越えて、みんなであらゆる場所を訪れた。終いには、一度は消滅寸前まで迫ったこともあるサッカーで、なんと中学生の子どもたちが遠い未来の世界を救ってしまったのだ。言葉では語り尽くせないことばかりだったあのなつかしい日々を、黄名子はとてもいとおしく思う。その中で知った喜びや悲しみ、またじんわりと漂う懐古の念に宿る何かをすべて抱えたままここにいる。だからこそ、彼女はこの世界で今も笑って生きていられるのだ。

(また、会えたやんね)

 そのままフェイの姿をじっと見つめていたら、突然アスレイに手を握られた。少しだけ震えた、大きな男のひとの掌。黄名子はただ一心にそのさみしい掌を受け止める。アスレイの少し低い温度がじんわりと黄名子の肌に溶けていく。混ざりあうほどに、それはどうしてか不確かになった。
 誰かが望んだ未来に、自分たちが立っていること。その事実を確認するたび黄名子の胸には微かな痛みが走る。そしてそれ以上の穏やかなしあわせが。頬を撫でる風は、もうあなたもうちもさらってはいかないね。フェイ、あなただって知っていたでしょう?――転んでもめげずに走り回る息子に黄名子は心で語りかける。これは決して夢や幻なんかじゃない。いつかの黄名子が、いつかのフェイが、それからいつかのアスレイが自分の持つすべてを賭けて願った先に掴み取った未来なのだから。インタラプトは修正できる。ただ、今まで過ごしてきた日々が、喪われてきた命が無駄だなんてことは絶対に思わない。全部が全部大切で、全部が全部、きっとこんな泣きたいぐらい幸せな未来のために必要なことだったのだ。

「アスレイ」
「…なんだい」
「うち、今、すごーく幸せやんね」
「……」

 アスレイの顔を見遣りながら、微笑みかける。

「アスレイは?今、この場所にいられて幸せ?」
「――、もちろん、そうに決まっているじゃないか」
「なら、良かった」
「…黄名子」
「ん?」
「大好きだよ、僕も」

 揺れる瞳が、言葉にできない気持ちを痛切に訴えかけている。遅れてやって来た彼の返事に黄名子は顔を綻ばせた。けれど声は出なかった。油断したら、本当に泣いてしまいそうだったから。
 
「ママ!パパ!」

 無邪気なフェイの声が、一瞬だけ霞んで空気に溶ける。ひらひらと振られる彼の掌。温もりを知っている、――ようやく教えてあげられた、あの小さな掌。


『――じゃあ、行くね』


 不意をついて重なったのは、黄名子がずっと大事にしているもうひとりの男の子の呼び声だった。
 黄名子は立ち上がりながらアスレイを引っ張った。サッカーのお誘いだって、アスレイもやろ?そう視線で語りかければ、アスレイもすぐに立ち上がる。言いたいことはたぶん伝わっていた。何も言わなくても、何も伝えなくても、世界に最初から組み込まれていたように自然と通じ合うものがあるはずだった。そう、ずっと前から。


『歴史は変えられるでしょう?フェイ』


 そよ風の向こう、その記憶の果てで、空はどこまでも青く輝いている。



―――――――――――

一周年リクエスト
おかえりなさいと言わせてね/20140120
Title by エバーラスティングブルー
×