*半田視点です
2月22日、猫の日。
河川敷にいつものように向かった俺の視界に一番に入ってきたのは、耳だった。ふさふさした毛が生えていて三角形をしている耳だ。俺はそれから数秒後、あああれはネコミミなんだな、と認識した。
しばらく(といっても河川敷を降りる時のごく僅かな間だが)、そのネコミミについてネコミミのみに限定して考えていたのだが、そのまた数秒後、ネコミミを付けている人物そのものに目がいった。
ツーサイドトップに結んだ薄い茶色の柔らかそうな髪の毛に、つり目でキツそうな印象を与える瞳。薄桃の唇に、女性のわりに鍛え上げられた筋肉のついた細身の身体。――如月まこだった。
「あ、おはよう半田さん」
「……なんで?」
「え?」
「いや、その、耳。」
ああこれですか、と言いながらまこは自分のネコミミをいじくっている。
俺は困惑していた。たしかに似合っている。それにネコミミは正義だ。いくらケモノミミはあざといと言われようが、いつの時代も男はケモノミミ、特にネコミミに萌えるモノであると思う(多分。)ただ、付けている人物が問題だ。
如月まこ、彼女は優秀なコーチだ。練習は厳しいし性格もキツいが、それ以上に真面目でチームの子供達や保護者からの信頼は厚い。俺も気の強い彼女に振り回されながらも、まこには本当に感謝している。彼女がいなければ、やんちゃな子供達の多いこのチームを運営していく事は不可能だっただろうとも思う。
だからこそ、だ。そんな如月まこがネコミミを付けて、いつもと変わらぬ風に練習の準備をしているという光景が信じられなかった。ああ、まだ冬も終わっていないのに明日は気温が37度くらいまで上がってしまうのかもしれない。
「言っときますけど明日の予想最高気温は8度ですよ」
なんで思ってる事が分かるんだよ!とつっこむと、ああ、まだの辺りから全部口に出してました。と返されてしまった、まったく情けない、あれなんだか前がぼやけて見えないや…。
情けない自分を嘆きながら隣にいるまこを見ると、やはりいつもと変わらぬ表情で準備をしていた。考え込んでいるようなので、何も話さない方がいいかと思い、俺も無言で書類の整理を始める。そうして、練習が始まる40分ほど前までゆったりとした重い時間が流れた。腕時計で時間を確認し、そろそろだれか来るだろうかという頃合いに、黙っていたまこが突然話し出した。
「ところでこのネコミミを付けている訳はね」
「ぶはっ!?」
「…半田さん、コーヒーを漫画みたいに噴き出すのはやめてよ」
「分かってるよ…というかびっくりするからいきなり話し掛けるのはやめてくれ」
汚れてしまった机と手をよく拭き、綺麗に片付けた。まったく、スーツが汚れたらどうしてくれるんだ、と俺は文句の一つも言いたい気分だった。
「…で?なんで付けてるんだよ」
周りも自分も落ち着いてから、一息ついて尋ねた。まこは相変わらずの無表情で、ゆっくりと口を開いた。
「気まぐれよ」
まこはキッパリと言い切った。
「…はい?気まぐれ?」
「聞こえた?気まぐれよ気まぐれ。今日って猫の日じゃない。だから猫の耳でも付けたら、半田さん驚くだろうと思ったのよ。そしたら案の定驚いてくれて私は満足よありがとう」
こまで一息で早口にまくし立てられては返す言葉もなかった。如月まこは不機嫌そうにまだぶつくさ言っている。彼女は本当に機嫌の移り変わりが激しい。こうなった彼女の止め方を俺は知らないので、放っておくしかないのだが。
とは言え、このまま彼女の文句に付き合っている隙も無いので、なにか言わなければいけないと思った。先程も素直に感じたとおり、ネコミミはまこにとてもよく似合っている訳だから、多分ここは褒めるべきだと思い、俺は口を開いた。
「だからね半田さん、」
「…似合ってるよ」
「え?」
「その耳、かわいいと思うけど」
なんだか凄く照れ臭くなってしまった。なぜなら、俺が人生でかわいいと言ったことがある女は母だけだったからだ。照れを自覚してしまうと途端にどうしようもなく恥ずかしくなって、まこの方を見る事など出来なかった。
後ろで、彼女ががさごそと動く音がした。彼女はおそらくベンチから立ち上がったんだろう。そして俺にしか聞こえないような小さな声で、それでもしっかりと、こう呟いた。
「…ありがとにゃん」
遠くから、チームの子供達が笑いあいながら走って来るのが見えた。初めの集団が来てしまえば後は早いもので、これからどんどん子供達はやってくるだろう。それを見に行ったまこはいつのまにかネコミミを外している。ふと横をに目をやると、真っ黒な猫が河川敷を歩いていた。黒猫は楽しげに、そして自由気ままにのんびりと歩いている。まったく、猫も、猫よりも気まぐれな彼女も、実に気楽そうで羨ましいと思う。そんな気まぐれに付き合うのも、案外悪くはないのかもしれないけど。
俺は、すっかり赤くなってしまった顔を必死に冷ましていた。
気まぐれ女と、猫。/20110221