藍が、視界の中で揺れる。
近いはずの空野葵との距離は、今の剣城にはとてつもなく遠いもののように感じられた。いつの間にか、意識しなくても目で追ってしまう藍色の頭に、胸元を飾る桃色のリボン。スカートは校則など守る気も無いといった短さで、あともう少しめくれたらその中がさらけ出されてしまいそうだといつも不安に思う。程よい柔らかさを持っているであろう足はすらりと伸びて、彼女の小さな身体を支えている。剣城は、端的に言えば空野に恋をしていた。雪の様に降り積もった想いを、すべて無視することは彼には出来なかった。目を細めて、ぼやかした世界の中に藍色だけを映す。時折風に揺れるそれに、剣城は前からずっと触れてみたいと思っていた。きっと柔らかくてツヤがあって、温かいだろうなどと想像をした事もある。だがそんな事はやはり決して出来ない。触れたい、そう思っては空野の頭に手を伸ばしかけ、その度に何かいけない事をしているのではないかと思い治して引っ込めてしまう。しかし実際は、その程度の事など空野に頼めば、きっと彼女は笑顔で了承してくれるであろうことを剣城は知っていた。空野は人の役に立つ事が好きなうえ、松風や西園としょっちゅう抱き合ったりしている彼女にとって頭を撫でるぐらい今更の事。しかし、それでも剣城は空野に触れることは出来ない。剣城が硬派で真面目な性格だということもあるが、それ以外に強く心の中にあったのは、一度空野に触れてしまったら、もう自分を抑える事が出来ないのではないかという恐怖からだった。
――剣城は空野に恋をしている。変わりようのない、確かな事実。それはもう溜まり積もって相当な想いとなっていた。彼女と出会って、一年ほど。剣城が空野に恋心を抱いてから半年と少しくらいになるだろうか。その間心の中に溜まった想いを剣城が伝えないのには、ちゃんと理由がある。辛くても、吐き出してしまいたくなったとしても、触れてしまえば爆発してしまいそうな想いを抱えても、彼がその感情を態度で表すことは、決して無い。表せるはずが、なかったのだ。なぜなら剣城が溜め込んだ時の倍以上の年月の間、彼女は別の男への恋心を抱き続けているのだから。
視線を上げてもう一度空野を見れば、彼女は朗らかに笑っている。顔に浮かべられたそれからは、剣城には決して向けられる事のない輝きが放たれていた。彼女の瞳に映るのは松風天馬、ただひとり。そんな視線を向けられた彼も幸せそうに、満面の笑顔で彼女だけを見つめている。まさに二人だけの世界、と表現するに相応しい光景だった。松風も空野も、お互いがそこにいることが当たり前で、ふたり出会う為に生まれてきたとでも言うように寄り添っている。剣城はまた目を細めた。眩しくて、仕方がない。常に共にいる彼らは、パズルのピースをかっちりと嵌め合わせたようなしっくりとくる雰囲気を作り出していて、それが真昼の白昼夢等ではなく確かな現実だという事が、一番に剣城を苦しめた。ズキズキと痛むような物ではなく、締め付けて離れない傷が蛇のように彼の心に巻き付く。喉に込み上げてきた熱を無理矢理飲み込んで、浮遊感に近いもやもやとした切なさを消そうとするが、痛みは消える事は決して無い。いつからか、もう忘れてしまったくらい遠くから、剣城はその痛みに抗う事も、想いを無理に捨てようとすることもやめた。そして同時に、いくら空野を想ったとしてもその感情を彼女に伝えることだけは絶対にしないと、心の中で誓った。ひっそりと芽生えてた感情は誰にも告げられる事なく、剣城の中で今も鎖に繋がれたまま眠っている。
「剣城くん!」
「つーるぎー」
直後、大きな声で名前を呼ばれた。不確かな視界をはっきりとさせると、その方向には瞳に剣城を映した松風と空野の姿。先程までの甘さは無いが、それでも二人らしい笑顔を浮かべながらこちらを見て手を振っている。それに対して叫ぶなおまえら、と軽く叫んでから、剣城はすたすたと歩きだした。心地好い風が吹いて、剣城の頭をいくらか楽にさせる。
歩いている間、彼はまるで絵画の中に入っているような気分になっていた。透き通った青い空に霞みがかった白い雲、そして気持ちの良い風が吹き、はらはらと儚げに降る花びらの中、ふたりきりでいる恋人同士はすでに完成されている作品そのもので。剣城はいつもその美しい絵画を額縁の向こうから眺めているただのひとりの人間だった。綺麗な本物の作品の中の空野は、剣城にとっては遠い幻想の世界のことでしか無く。ざらざらとした絵の具の手触りを肌で感じる事は出来ても、その中にいる彼女に触れることは出来ない。近いようで、とてつもなく遠い距離を保つ剣城と空野が交わることは絶対に無い。――そんなどうしようもない現実のなか、絵の彼らがそこから自分の名前を呼んでいると思うと、なんともいえない可笑しさが込み上げて来て。剣城の顔に自然に微笑みが浮かぶ。あいつら二人きりでいればいいのに。なんでわざわざ俺を呼ぶんだ。そう思いながらも、空野に名前を呼ばれて飛び上がるほど嬉しくなっている自分がいるのだから、その呼び掛けに応えないという選択肢は彼の中には無かった。彼らの前に立つと、剣城遅い!という不満げな声と共に、早く行こうと催促される。松風の方はもう我慢出来ないというように気がついたら走り出していた。前方の方には西園や狩屋、影山の姿があり、彼はその集団に駆け寄って何か騒いでいる。おいおい、大事な彼女を置いていくのかよ。と剣城は呆れたのだが、隣の空野を見ると彼女は特に何も感じていなさそうな澄ました顔をしていて、彼はそれに少し驚いた。
「怒らないのか?」
「え?」
ふいに投げ掛けられた剣城の問いに対して空野は間の抜けたような表情になった。あまり見たことの無いその表情に、剣城は少し動揺するが顔にはださなかった。
「……お前ら付き合ってるんだし、彼氏に置いていかれたりして、嫌じゃないのか」
「うーん。まあ確かにちょっと寂しいかなあ。でも男の子ってそんなものじゃない?」
「そうか…?」
「きっとそうなのよ。…それにね、たしかに天馬はデリカシーなんか持ってないし、他にもいろいろ不満はあるけど…」
彼女が松風を想う時に浮かべる微笑みは、剣城が手に入れる事は出来ないもの。色とりどりの絵の具を何層にも渡って重ねるように、ゆっくりと時間をかけて出来上がった想いの結晶。空野はそんな微笑みを浮かべながら、それが天馬だから、別に良いのと嬉しそうに囁いた。多分、剣城自身がそうなように、空野は少々気遣いが足りないなどの欠点も含めて松風の事が好きなのだろう。些細な事など最早気にならないといったように、彼女は松風を愛している。剣城はそれにまた眩しさを感じて、目を細めた。空野は白い光を身体に纏い、スカートを風に揺らしながら笑っている。剣城には彼女の顔が、よく見えなかった。それとも、見たくなかったと言うべきだろうか。俺もつくづく諦めの悪い男だな、と剣城は空野に気づかれない程度に、自嘲するような笑みを浮かべた。
短い間を置いて、空野にジャージの裾をくい、と引かれる。彼女はもう遥か先に行ってしまっている松風達を横目に見ながら、剣城の事を急かした。かなりの差がある身長のせいで生じる彼女の目を上目に遣う仕草は、しまい込まれている剣城の恋慕を意図もたやすく引き出してしまう。ああ、酷い。実際は誰に向けられてもいない不満を心の中で漏らしてから、剣城は空野に引かれ足を動かし始めた。彼女の小さな頭を彩る藍が、また視界の中でふわふわと揺れる。先程の葵の視線のせいか、藍色と同じように揺らぐ自身の心に耐性のない剣城は嘘をつけず、自制心を押し切って手をすうっと伸ばした。保てよ、俺の自制。剣城はそう強く念じる。――その細くもごつごつとした指が彼女の髪に触れるかと思われたその時、急に強い風が吹いてきてそれを逃がした。うわあ、すごい風だねえ、と葵が不満交じりのつぶやきを漏らした。柔らかく艶やかな感触を味わう筈だった剣城の手は、しばらく物欲しげに宙に浮いていたがすぐに行き場を失って落ちる。剣城は葵の声を耳に留めつつ、心の底から触れなかった事を残念がりながらも、同時にこれで良かったのだと安堵していた。この手が触れる事が出来るのは、ざらりとした絵の具の感触だけで、良いのだ。
最果ての呼吸に触れる/2012.04.22
お題:空想アリア様