空野葵が松風天馬にフラれた、という噂が狩屋の耳に入ってくるのにそう時間はかからなかった。その噂にどんな尾鰭がついているのか彼には分からなかったが、その変えようの無い事実に彼は複雑な感情を抱く。彼女が告白をしてフラれた瞬間、というのは想像しただけで胸が痛むし、今彼女が笑って過ごしている事に対しても不安を覚えた。ずっと恋していた相手にフラれるという気分は、想像でしかないがきっとかなりつらいしキツいものがあると思う。狩屋の場合、仲良くはしゃいでいた二人を間近で見ていたのだから尚更そう感じていた。友達と談笑している空野に、仲間とはしゃいでいる松風に、いつもと変わらないようで決して二人でいることのない彼等に、狩屋は何度声を掛けようと思った事だろうか。だが、いくら二人に対して声を発しようとしても、喉元から出かけたそれは言葉にならずに、重い空気の固まりとなって消えてなくなってしまう。自分が二人に必要以上に干渉した所で、何になるのか。声を掛けても、安っぽい慰めの言葉すら言えないのではないか。どろどろした何かが狩屋の心の中で混ざり合って、失恋をしたはずの空野より辛い思いをしているのではないかと思うくらいにひどく悩んだ。
それに加えて、複雑な心境の裏には自身の想いがよく分からなくなっている、という漠然とした不安もあった。自分の感情、特に空野葵への想いが彼を掻き回す。狩屋自身、自分が空野に友情以上の、だが恋とは言えない微妙な想いを抱いているのを知っていた。彼女といると狩屋は自然と楽しくなれたし、彼女の笑い声を聞くと同じように幸せになる。だがそれは恋と呼ぶには非常に曖昧なもので、それに空野の幸せの源やその視線が向けられる先は大体松風へのものだったから、松風ありきの空野に対して狩屋が向けた想いは脆くて不安定だった。俺は、どうしたいんだろう。きっと自分より悩んでいるはずの彼らにどんな対応をすれば、正解なんだろう。悶々と考え込んでも、混沌とした思いが貯まるだけで答えにたどり着くことは無い。そうしているうちにも日々は過ぎ、気がつけば噂を聞いてから一週間の時が経っていた。

「うっわ、雨かよ」
ある日の放課後、下駄箱を出てから空を見上げればぱらぱらと雨粒が落ちてきていて、遠方からやってきている重い黒雲がこれから天気が崩れる事を予想させた。狩屋ははぁ、と重たい息をつく。お日様園までには結構な距離があり、金を使うのは勿体ない気もするが風邪を引くわけにもいかないので、バスで帰るしかない。買い食いしようと思ってたのに…まあお金は後でヒロトさんにでも頼もう。このまま立ち往生するわけにも行かず、少しぐらい濡れるのは仕方ないと思い込ませて走り出した、その時だった。

「狩屋くん?濡れるよ」

うわあ!突然自分に飛んできた声に驚いた狩屋は、小雨に濡れたタイルの床で足を滑らせた。ぐらりと、視界が激しく揺れる。声の主は危ない!と焦りながら言うと同時に狩屋の腕をぐいっと引っ張る。それが吉と出たのか間一髪、尻餅をつく程度で済んだ。もし、段から落ちていたらどこかを怪我していたかもしれない。そう思うと、少しだけ背筋がゾッとなった。
「い、てて…」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫…、って、空野さん!?」
狩屋は伸ばされた腕を掴み立ち上がってから初めて、声をかけて来たのが空野葵だと認識した。最近もっぱら彼女関係で悩んでいたせいか、過剰に驚いてしまう狩屋に対して空野はあからさまな疑問の眼差しを向ける。な、なんでもない。と狩屋は空野に何か質問される前に咄嗟に口を開いた。やはり彼女の不満そうな表情に変化は無かったが、狩屋が何も言いそうにないことを感じたのかそれ以上追求はしてこず、狩屋は内心安堵した。

「で、雨だよ」
「う?う、うん」
「濡れて帰るの?」
「いや、バスだけど」
「そっかあ、…でもバス停まで結構あるよね?」

うっ、そういえばそうだ。狩屋が向かうバス停までは、よくよく考えるとなかなかの道程を歩かなければならなかった。濡れるのは覚悟の上だったが、こうしている間にも雨はどんどん強くなっている。そして今日に限って課題が多く、当然鞄の中の教科書やプリントの量は倍ほどに膨らんでいた。全てが濡れてしまったら、乾かすのにも一苦労だろう。その労力を考えると今から気持ちはどんどん重くなって、肩が下がる。ああ、でもやっぱり仕方ないよなあ。結局帰るためにはバス停行かなきゃいけないんだし。無理矢理自分を納得させようとした時、狩屋の肩にポン、と小さな手の平が置かれた。それにはっとなり彼が顔を上げると、そこには可愛らしい水玉の柄の傘を開いている空野の姿がある。ぱさっ、と音を立てながら傘が広がり、狩屋の視界から暗い空が少しだけ消えて、代わりに鮮やかなブルーの水玉模様でいっぱいになった。空野は傘をきちんと持ち直したあと、狩屋の方に向き直っていつもの明るい笑顔で狩屋に一言放った。

「傘、いれてあげる!」


これはどういう状況なのだろう。もしかして、王道の少女漫画シチュエーションと同じような感じなのだろうか。しんしんと強さを増しながら降り続ける雨を見つめながら狩屋は思う。バス停までの道程を、空野とふたり相合い傘をしながら歩いているのだから、もしこれが他のサッカー部員に見つかったら噂になるかもしれなかったが、空野はそんな事を全く気にしていないようだった。いつもと同じ様子で、時折狩屋に会話を投げ掛けながら歩き続ける彼女は、普段よりも随分と静かだった。そのせいか、子供っぽさが残る顔も少しだけおとなびて見える。
ふたりは次第にほぼ無言の状態になり、バス停までひたすらに歩いた。周りの世界は暗い空の色に混じるように、鮮やかなものでさえ濁って見えた。空の隙間から差し込む光の階段など見えず、雨はどんどん強くなる。ざあざあと大きな音を発てながらふる大雨は空野の傘を打ち付け、その音はふつう煩い筈なのに、今だけはは狩屋と空野の間の静寂をさらに引き立てていた。しばらくすれば梅雨が来てしまうというのに、今からこんなに雨が降っていては憂鬱だ、と狩屋はぼんやり景色を眺めながら考えた。――もっとも、憂鬱の種は他にもあったのだが。歩いている間、狩屋はひとつの疑問を空野に尋ねるかどうかを迷い続けていた。その疑問とはもちろん、松風との関係。フラれたのに、なんでそんなに元気でいられるのか。無理はしていないのか。彼とはもう、普通に話さないのか。どれも狩屋が気になっていて、同時にとても聞きにくい事ばかりだ。いっそ、やはり何も聞かない方が良いのではないか。何度もその方法を選択しようとしたが、それを選ぼうとするたびに狩屋の胸に何かが突き刺さって、酷く痛むのだ。きり、と微かな痛みが走って、その「何か」はやがて重い靄となって心に溜まりつづける。いくら消そうとしても消えない感情を溜め込むには、もう狩屋は限界だった。意を決して、狩屋はすうっと喉をすっきりさせるように息を吸い込んでから、重たくかさついた声を搾り出した。

「空野さん、」
「ん?なあに?」
「…ひとつ聞いても、いいかな」

どうぞ?空野は微笑みを浮かべた。狩屋としては、今から聞く内容的にはあまり笑顔を浮かべてはほしくなかったのだが、それは仕方ない事だろう。狩屋はこの笑顔を消すであろう事にささやかな罪悪感を抱きながら少し大きめの声で話を続けた。声量を大きくしたのは、雨が強すぎて小さな声では掻き消されてしまうからだ。あまり口に出したくない内容だったが、それに加えて声を張らなくてはいけないので、狩屋はさらに胸が痛むのを感じていた。

「…空野さん、天馬くんと、あんまり話してないよね」
「……そうかな?」
「なんか、ぎこちない感じだし。いつもべったり一緒にいたのに、今は別々だし」
「………」
「それ、でさ」
「…なあに?」

「天馬くんが、空野さんの告白、断ったって……本当なの?」

ぴくり。本当に微かな変化だったが、小さく彼女の肩が揺れたのが分かった。狩屋は言ってしまった、という後悔の念と、やっと聞けた、という安堵感とがせめぎあう心から無理矢理目を逸らしながら、返答をじっと待つ。それ以上は何も言えなかった。空野がふうと浅く息をはく。もう春も終わりに近づく頃だというのに、その息はとても白かった。――寒い。狩屋は辺りが冬のように冷えている気がした。本当に寒くて、冷たくて、それに寂しい。その要因は単に気温のせいなのか、それとも他の理由からなのか、狩屋には分からなかった。

「…本当よ」

葵の声色から、想像に過ぎなかった彼女の辛さが狩屋の中で急に現実味を帯びる。空野の顔は空よりも暗く、先程までの明るさなど元から無かったのではないかと錯覚してしまうほどだった。そして空野の表情を見る度に、狩屋の心臓もまたちくりと痛んだ。ああ、やっぱり聞かなきゃ良かったかな。狩屋の心を後悔の念が支配する。後悔以外にも、狩屋がずっと前から彼女に抱いていた感情までもが疼きだしていた。そうだ、聞いたところで自分も彼女も傷つくだけだったのだ。そして本当にただそれだけで、傷を舐め合うことも、空野の悲しみを癒すことも出来ない。全く、無意味じゃないか。辛いし痛いし、苦しいだけ。なんで俺は聞いてしまったんだろう――

「でもね」

そこで狩屋の意識が混沌から現実に引き戻される。はっとなり隣の野を見ると、なぜだかその顔にもう先程までの暗さはなかった。むしろ、どこかすっきりとしたような、晴れ晴れしい顔をしている。空野の瞳は、透き通っていてとても綺麗だと狩屋は思った。

「後悔はしてないよ」

微笑に近い表情を浮かべながら、空野は前を向いてはっきりと言いきった。それに対して狩屋はあきらさまに目を見開いて驚愕した。――なんで。その空野の顔は今の狩屋にはとても眩しいもののように思えて、思わず疑問の意思を込めたつぶやきを漏らしてしまう。なんで。フラれて悲しかったんだろ?辛かったんだろ?もう、前の関係には戻れないのに、なのになんで。もはやこれは空野に向けて言っているのか本人にも分からなくなっていた。彼女はそんな狩屋に視線を移してから、今度は本当に微笑んだ。優しい笑みだった。

「…ちゃんと、気持ちを伝えられたからかな」
「断られたのに?」
「それは…仕方ないよ。それにもともとそんな気はしてたし」
「じゃあ、なんで、告白したんだよ」
「……なんでだろうね、私にも分からない」
「なんだよそれ」

くすり、と自嘲するように空野は笑う。狩屋はそんな彼女を見つめながら、空野が何故ダメだと知っていたのに告白したのかを分かってしまっていた。今の疲れきったような彼女をみたら、一目瞭然も同じ。――片想いをするのに、疲れてしまったのだ。狩屋がもう限界だったように、空野もきっと、限界だった。辛くて、悲しくて、痛くて、それでも好きな気持ちは止まらないから。ただただ募った恋慕は、消えてくれなかったから。だから彼女が出した精一杯の答えとして、告白をした。その先に待っている答えによって、自分も彼も、ひどく傷つく事を知っていても。自分の気持ちに嘘をつきつづける事も、想いを殺してしまうことも、空野には出来なかった。その想いから解放されたのだから、彼女は無理にでも笑うことができたのだろう。たったそれだけの、苦くてどうしようもない真実が狩屋に突き付けられる。それから、狩屋は本当に無言になった。そして空野も、黙ってしまった彼に対して何も言わなかった。

バス停に着いた。雨はピークを通り過ぎ、今はしとしとと静かに降っている。だが辺りの静けさは相も変わらず、古ぼけたポスターや錆びた鉄の匂いと共にふたりの周りを囲んだ。狩屋くん、着いたよ。そんな掛け声と共に空野に誘導されて、狩屋は乗り場の屋根の下にゆっくりと入った。ありがとう。そう一言、小さくだが礼を言うと、彼女はぱっと嬉しそうに笑った。どういたしまして、と返しながら空野は狩屋を置いて歩き出す。水玉が、視界の中で少しだけ揺れた。バイバイ、うんまたね。そんな別れのやり取りを交わしたあとに狩屋は、一人屋根の下、坂道の向こうに消えてしまうまで彼女を見送り続けた。空野の丸みを帯びた小さな背中は狩屋にとってとても脆く、弱く、限りなく愛おしかった。

――好きだ。そこで初めて少年は、生まれて初めての恋心を明確に自覚する。一週間前まで彼が抱えていた感情は、恋心という形ではっきりとその姿を現していた。俺は、空野さんが天馬くんを好きなように、空野さんの事が好きなんだ。心に鮮明に浮かび上がったその想いを、狩屋は胸に深く刻む。この恋は、ずっと大切にし続けよう。大事に箱にしまって、溜めて溜めて溜め込んで、いつか耐え切れなくなったその時に、彼女に伝えるんだ。空野さんが天馬くんに、そうしたように。

雨は降り止まない。不鮮明な世界の中ではっきりと輪郭を示していたのは、少年の密かな決意と、芽生えた恋心だけだった。狩屋は、とりあえず松風と空野にはまたいつも通りに戻って欲しいと、強く思う。時間はかかるだろうけど、それでも少しずつでもいいから。空野は、松風といる時が一番幸せそうに笑えるのだから。願わくば、その相手が将来、自分となっていますようにと、狩屋は頭上の空に祈った。






彼女が誰かを殺した理由/2012.04.20



▼かりんと様へ
なんだか意味がよくわからないうえに暗い感じの話?になってしまい申し訳ないですが一応捧げさせてください!かりんと様の書かれる文章がとても好きです。特にマサ葵が素敵過ぎてなんかこんな私の書いたマサ→葵をあげてもいいのかと数時間ほど悩みました。← もし甘い話とかの方がよければもうダッシュで書き直させていただきますのでいつでも苦情を送ってください…!すみません。でもリクエストありがとうございました!
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