×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


 ホームルームが始まる十分前。朝練終わりの胃袋に収める予定だったおにぎりを忘れてしまったことに気付き、更には弁当も忘れていることに気付いた時には既に遅し。
 昼休みに走って取りに戻ろうと考えていると不意に教室の扉の方がざわついた。人が落ち込んでいるというのに何なんだとそいつは悪いが恨みがましい視線を送ると、ひょこりと顔を出している名前さんがいて。眉を潜め誰かを探している様子。
 もしかして、と淡い期待を抱いていると彼女がこっちを向いたことで視線がかち合う。時間にして数秒。
 俺を見つけた名前さんはすっと表情を和らげ周りの生徒も気にせず俺の下まで来ると持っていた包みを差し出した。

「亮くん。おにぎりとお弁当、忘れてったでしょう」
「名前さんありがとう。助かった」

 これで昼に全力疾走する必要はなくなった。受け取る際にぶつかった指先がじんわりと熱を持つのが分かる。誤魔化すように弁当袋からアルミホイルに包まれたおにぎりを取り出して齧り付く。
 それを見た名前さんは満足そうに一言、授業頑張ってね、と俺の頭を一撫でして教室を出て行った。完全に子供扱いである。
 彼女の姿が完全に見えなくなったのを見計らったように小波と矢部が机を囲む。おにぎりの具は名前さんの実家で漬けている梅干しだ。美味い。

「友沢! お前弁当届けて貰うって名字先輩とどういう関係なんだ!」
「お互い名前呼びでやんしたよ!?」
「教えろ友沢!」
「教えるでやんす!」

 相変わらず騒がしい二人だ。とはいえ周りの男共も興味があるのか視線がちくちくと刺さってくる。

「……おばひひふんべべ」
「食い終わってから話せ!」
「……んぐ。……名前さんは隣に住んでて、たまにご飯を作ってくれるんだ」
「そーなのか。名字先輩の手料理、美味いんだろうなぁ……」
「美味いぞ」
「くぅ! 羨ましいの極みでやんす!」

 たまにというのは語弊があって、本当のことを言ってしまえば彼女はほぼ毎日俺の家へ来てご飯を作ってくれているし、一緒に食事も摂っている。

 きっかけ、というか出会いは二年と少し前に遡る。高校入学を機に一人暮らしを始めた彼女が俺たちの隣の部屋に越してきて、挨拶にと実家で作っているという米を持ってきたのが始まりで。当時の俺は中学二年になろうとしていた時期で、家計は非常に苦しいのでその米には救われた。
 それから友沢家の事情を知った名前さんは俺が野球に専念出来るようにと料理を始めとする家事を買って出てくれた。彼女の実家は所謂豪農というやつで、実家から大量に野菜が送られてくるのだとか。
 しかし初対面の女性にそんなことを頼めるわけもなく気持ちだけと断ったのだが一人で食べるご飯は寂しいからと言われてしまえば断れなくなってしまう。
 お世辞にも綺麗とは言えないアパートだが大家が彼女の親戚と聞けば納得出来る。大家さんは俺の家の事情を知って家賃を待ってくれたりと良くしてくれる優しい人だから、彼女の親も安心して一人暮らしを許しているのだろう。

 話は逸れたが兎に角名前さんとはそれ以来の仲で、付き合ってはいない。付き合えたら素晴らしいとは思うが、付き合ってはいない。
 彼女の中では歳がたった二つしか違わないとはいえ俺は翔太や朋恵と同じく弟的存在としか見られていないのだ。それが悔しくて堪らない。でも俺の個人的な感情でこの関係を崩すわけにはいかないのだ。




 バイトを終えて帰宅したのは午後九時を過ぎた頃だった。そこにはいつものように名前さんがいてちゃぶ台の上には俺の分の食器が用意されている。台所には夕飯が出来上がっており後は盛り付けるだけで食べられる状態になっている。

「兄ちゃんお帰り」
「お帰りなさーい」
「ただいま」
「亮くんお疲れ様。お風呂湧いてるから先に入ってきてね」
「ん、分かった」

 エナメルバッグを置いてサングラスを外し風呂場へ。部室に併設されたシャワーで汗を流してきたとはいえバイトも熟しているので流石に湯船には浸かりたかった。元々翔太や朋恵が入った残り湯なので勿体無いとは思わない、洗濯にも使えるからな。
 身体を洗い流して熱々の湯に浸かればあまりの気持ち良さに思わず声が漏れる。我ながらおっさん臭いと思ったが仕方ない。
 大家の計らいで全部屋に追い焚き機能が付いたのは丁度名前さんが一人暮らしを始める数週間前のこと。今思えば彼女の為に付けたのかもしれない。元々住んでいた我が家は家賃据え置きとなり万々歳。冬でも温かい風呂に入れるのは有り難いことである。

 風呂から上がれば幼い弟と妹は就寝のため部屋に戻っており居間には名前さんだけ。先程までは何も盛られていなかった食器に温かいおかずが盛られていて、俺が出たのを合図にご飯と味噌汁を装うために立ち上がった。

「ん……?」

 いつも通り彼女の厚意に甘えちゃぶ台の前に座ればふと目に入ったのは一枚の紙。名前さんが座っていた場所にあったので彼女のだろう、不躾とは思ったが大きめのフォントで印刷されている文字を見て思わず止まった。

「名前さん、これ……」
「ああそれね、進路希望の紙だよ。明日提出だから書いてたの」
「“あかつき大”って……」
「うん、あかつき大の政治学科行こうと思って」

 そう言ってご飯と味噌汁を俺の前に置く。いつだったかアナウンサーになってニュースを読みたいと言っていたから、その夢のための選択に誰が反対出来るのか。名前さんは頭が良いから合格出来るだろう。
 隣に座って、眉尻を下げながら少しだけ無理をして笑ってみせる名前さんに、心が締め付けられる。

「朋恵ちゃんも料理上手くなってきたし翔太くんも積極的に食器洗いとかお手伝いしてくれてるから。受験のこともあるし、私がこうして世話焼けるのはあと半年かな」
「……」

 彼女の夢だ、勿論俺だって応援したい。でもあかつき大はここから気安く通える距離にはないから、あかつき大に進学するということはこのアパートから引っ越すということ。
 仕方ないといえば仕方ない。元々彼女の優しさに甘えていただけなのだから、この関係を打ち切ることもまた彼女の自由だ。
 俺がすべきことは目の前で所在なげに視線を落とす名前さんにお礼を言うことである。今までお世話になりました、あと半年よろしくお願いします、受験応援するから、名前さんなら立派なアナウンサーになれる、本当にありがとう。
 言わなくてはならない言葉は沢山あるというのに。口を開けようとすると喉が締まって息すらままならない。どうしていいか分からず視線を落とせば鼻の奥がつんと痛くなっていくのが分かった。

「亮くん……?」
「……」 
「早く食べないとご飯冷めちゃうよ」
「……」
「……亮くん?」

 何も言わなくなった俺を心配して覗き込もうとする名前さんにこれ以上迷惑をかけまいと必死に喉をこじ開ける。

「……い、やだ」

 そうしてやっと絞り出した言葉は自分でも驚くくらいにか細く小さくて、しかもたった一言だった。
 最初の一言さえ出してしまえばあとはするすると出てくるものだと思っていたが締まった喉はそれ以上言葉を発せず、代わりに出てきたのは嗚咽だけ。気が付けば視界がぼやけている。

「亮くんっ、どうしたのっ」
「うっ、ぐ……うぅ……」
「そう、だよね……ごめんね」
「ふっ、う、名前さん……」
「……大丈夫だよ」

 俺が泣くところなんて出会った頃に数回見せたかどうかという程度だったので名前さんは驚きのあまりしどろもどろになりながらも俺を抱きしてくれ、ゆっくりと背中を叩いてくれた。いつか母が、試合で負けて泣いていた幼い俺にしてくれたようで。そのぬくもりが余計に切なくてつらい。

「……」
「……落ち着いた?」

 名前さんの言葉に静かに頷く。時間にして三十分も経っていないうちに涙は出なくなり呼吸も安定している。更には泣いたことで頭がすっきりし、ごちゃついていた思考の整理もついた。
 だからこそ言えるのは一つ。俺は彼女ときれいさっぱり他人に戻るなんて、認めたくない。

「名前さん、好きだ」
「……それは姉として、ではないんだよね」
「異性として一人の女として名前さんが好きなんだ。貴女を姉として見たことは一度として無い」

 今朝考えていたことと真逆の行動をとってしまっているが、言うなら今しかないと思ったら口から出ていた。当然、後悔はない。翔太と朋恵には悪いがここで言わなければ一生悔やむことになる。
 俺の言葉を静かに受け止めた名前さんの表情は先程までの柔和なそれとは打って変わって真剣そのものだ。俺の気持ちに、真摯に向き合ってくれている。

「私は……進路を変えるつもりはない」
「……」

 分かりきっていたことだ。俺がプロ野球選手になることを目指しているように彼女の夢も軽いものではない。でも、やはり、面と向かって言われると心が痛い。

「……だからね」
「?」
「え、遠距離恋愛になってもいいのなら、私は亮くんの気持ちに応えたい」
「え……あ……」
「すごい上から目線みたいな言い方になっちゃったけど……ってどうしたの!?」
「嬉しくて……」

 先程とは違う安堵からくる涙が少しだけ頬を伝い、名前さんに拭われる。白いハンカチの柔らかい感触が心地よい反面、何度も泣いて情けないという気持ちで一杯になる。

「名前さんありがとう。絶対幸せにするから」
「あ、ありがとう……」

 俺の言葉に顔を真っ赤にした名前さんは顔を隠すように両頬を抑えて少しだけ下を向いた。そんな名前さんがいじらしくて、あともう何回か言おうとした時、ぐぅと間抜けな音が俺の腹から鳴る。部活とバイトを熟した後に緊張と号泣と安堵を経て俺の腹は最高潮に減っていたのだ。
 それを聞いた名前さんはハッと我に返り、まだほんのり赤いままの頬もそのままにちゃぶ台の上に並べられた夕食に目をやる。

「ご飯冷めちゃったね。温め直そうか」
「いや、いいよ。安心したら余計に腹減ったから早く食いたい」
「ふふっ。召し上がれ」


 翌朝、満面の笑みの翔太と朋恵におめでとうと祝福されて昨日のやり取りをこっそり見られていたことに気付く。つまりそれは泣いている所も見られたということで、考えれば考えるほど恥ずかしさで消えたくなるのでそれ以上は思考を止めた。


戻る