Crying - 213

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「わ、わしに触るな!」
 無言のまま歩み寄る小狼に、領主が恐慌した様子で後退った。
「く、来るなー!」
 狂乱気味に叫んだ領主の背後に、
「そこまでだ」
 妖気を孕んだ声がまとわりついた。長い鋭利な爪が領主の顔を覆う。

 秘妖(キイシム)の背後には、景色を円状に切り開いたような空間が現れ、この場所とは異なる景色を映し出していた。円を縁取るようにコールタール状の液体が垂れている。
「よくも私をこんな城に閉じこめてくれたな」と秘妖が瞋恚の瞳を領主に向ける。
 領主の口から引きつくような声にならない声がこぼれた。

「この領主(ゲス)は私が預かろう。ゆっくり礼をせねばならん」
「い、いやだ!」
 秘妖の真意を悟った領主が、抗うように身を動かす。
 秘妖の細い腕は微動だにしない。

「信用しても大丈夫そうだよー、その秘妖さん」
 未だ厳しい表情をした小狼にファイが後押しした。
「やめろお!」
 円状の景色へと引きずり込まれるように領主の体が浮上する。領主の真後ろで秘妖が不気味に微笑していた。

「安心しろ、秘妖の国で息子共々最高の持て成しをしてやろう」
「いやだぁー!」
 領主が鼓膜を貫かんばかりに絶叫する。
 死にたくないとばかりに涙を流して、必死に羽根へと手を伸ばしていた。

「春香とやらはおまえか」
「……そうだ」
「おまえの母親は良い秘術師だった」
 秘妖は哀愁を帯びた顔で、困ったように笑っていた。

「この領主の卑劣な罠によって亡きものとなったが。私との戦いで己を磨き、おまえが成長して、そんな己以上の秘術師になることを楽しみにしていると言っていた。強くなれ、私と秘術で競えるほどな」
「――なる」と春香が涙を堪えるように手を固く握り締める。「絶対に!」

「では、またな。可愛い虫けらども」
 耳を劈くような領主の悲鳴が、コールタール状の液体に呑まれて遠のいていく。
 円状の景色の中へと消えた二人に、半壊していた球体が完全に砕け散った。
 小狼の手に落ちた羽根が桜の胸の中へと溶け込んでいく。

「――どうして、誰もいないのに……」
 羽根によって戻ってきた記憶に問いかけるように呟かれた声が、対価の存在を指し示していた。
 意識を手放した桜を小狼が抱きとめる。
「羽根、もうひとつ取り戻せた」

 小狼の押し殺されていた感情が表層に浮かんでくる。
 今にも切れてしまいそうな張りつめた糸は、花が咲くことでしか緩むことはないのかもしれない。
 小狼は彼女が二度と昔のように笑ってくれなくても、名を呼んでくれなくても彼女の記憶を取り戻すことを決めた。それは実際目の当たりにしても変わらなかったけれど、自我を取り戻した彼女が選ぶのはどんな答えなのだろう。



 ――――

 春香の家に戻り、手当てを終え、元の服へ着替えて外へ出た頃には既に陽が昇っていた。
 春香の後ろには大勢の町人が集まっている。

「ありがとう、領主をやっつけてくれて」
「おれは何もしてないよ」
 小狼が慌てて手を横に振る。
「あの城の秘術が解けなかったらずっと領主には近付けなかった。だから、小狼達のおかげだ」
「いや、本当におれは何も……」

「こっちこそありがとぉ」と言いよどむ小狼の横からファイが笑いかける。「春香ちゃんにもらった傷薬、良く効いたよー」
 塗った瞬間から痛みが消え、ほとんどの傷がなくなっていた。
「母さんが作った薬なんだ。私にはまだ無理だけど、でも頑張って母さんに恥じない秘術師になる」

 誇らしげに笑った春香の手を桜の手が包み込む。
 優しげに微笑んだ桜は、陽だまりのような温かい眼差しを向けていた。
「なれるわ、きっと」
「うん!」
 桜の手を強く握り返す春香の目にはかすかな涙が浮かんでいた。

 モコナが頭上高く浮かび上がり、
「あ、そろそろ行く?」とファイのゆったりした声が続く。
「行く」
 答えたモコナの背に大きな白い翼が生え、足元に魔方陣が現れる。
 風を纏うモコナに、町人からどよめきが上がった。

 しゃべったり、笑ったり、怒ったり、飛んだり、跳ねたり。感情を持つ奇妙な生物は秘術を知る人間にとっても異なことなのかもしれない。
「なんだ? どこ行くんだ? なんであれ、羽根が生えてるんだ?」と春香が目を瞬かせる。

 強さを増した風が景色を遮り、
「まだ来たばかりなのに!」
 春香の必死な声が遠のいていく。

「やらなければならないことがあるんだ。元気で」
 小狼の声を最後に、視界が暗転した。
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