Crying - 212
そんなに強く頬を引っ張った覚えはないが、彼が嘘をついているようには見えなかった。本当に痛かったのかもしれない。
事実を払拭するように彼の頬をなでる。と、彼がわざとらしくがっかりしたような声を漏らした。
「それだけなんだぁ」
「ごめんなさい」と不本意にも感情のこもってない声がこぼれた。
「どっちかと言うと“お礼”の方がいいかなー」
こっちを凝視している二人を指差すファイの口元が猫のように歪む。
「私に、ファイに手を出せというのですか?」
「そうなるかなー」
「別に怒ってません」
「?」
「巧断の国で私に手を出したことをチャラにしたいのではないのですか?」と名前は小首を傾げた。「私が手を出せばお相子ですし」
「その発言もどうなんだろうねぇ」と思案顔で唸ったかと思うと、ファイは開き直ったように言ってのけた。「それにオレは手を出した覚えもないしー」
つまり、相子ではないと主張したいのだろうか。
――お礼――
――あぁ、忘れていた
身を翻した名前は黒鋼の腕を引っ張った。
「てめぇ、どうゆうつもりだ?」
黒鋼が頬に顔を近づけてきた名前の口を右手で覆い、力づくで押し戻す。
苛立ちと煩わしさが大半を占めるものの、微かな当惑を滲ませる黒鋼に名前の目が三日月型にゆがんだ。
――大切な姫君に会ったら言ってあげよう。彼が手を出したことを。
酷く狼狽する黒鋼が見て取れそうで、名前はない尻尾を振ってしまいそうなほど気分が高揚していた。
「なにしてるのかなー?」
上から降ってきたファイの声に黒鋼の力が緩む。
口から外れた手のひらに名前は淡々と口にした。
「助けてくれた“お礼”です」
ファイの仮面が欠ける音がした。
女が密やかに笑い、名前は黒鋼の腕を放した。
「これで私は自由だ。あの馬鹿な領主親子より、余程気骨がある童達の行く道を塞ぐ気もない。知りたいのは領主の居場所だったな。この城の最上階に奴はおる。一番小さな童は先に辿り着いたようだな」
だいぶ時間を食ったはずだ。もし小狼があの足を酷使していれば、今頃は立っているのもやっとだろう。
「また卑怯な手を使おうとしているな、あの領主(ゲス)は」
女が忌々しげに吐き捨てていた。
女――秘妖(キイシム)――に言われた通り最上階へと階段を駆け上る。
全身傷だらけなのをかまわずふざけ合いながら先を行く二人を、名前は三段遅れで追いかけていた。
ようやく階段を上り切り、重厚な扉を開け放つ。
口を開けた扉の先には、武装した町人の大勢の姿があった。
「あれー? なんだか人いっぱい?」
「三人とも遅いー!」
不満げな声とともにモコナが黒鋼に頭突きする。
「うるせぇ」
「こっちも色々あったんだよー。ごめんねぇ」
ファイがへらりと笑うと、小狼の重く低い声が静かな部屋に反響した。
「羽根を返せ」
円形の広い部屋の奥で領主らしき肥えた男と小狼が対峙している。半歩後ろに桜と春香が寄り添うように立っていた。春香の手には家にあった明瞭な鏡が握られている。
「それはサクラ姫の記憶だ――返せ」
「小狼君……」
桜が見守る中、冷然とした態度で小狼が領主に近づいていく。
尻餅をついている領主の前には、球体だったと思しき透明のガラスが浮いていた。
半壊し至る所に亀裂の入ったそれの中には、見覚えのある白い羽根が収まっている。
小狼の表情は見えないが、穏やかであるはずもないだろう。
領主の顔からは血の気が引いていた。
「ま、待て! これを使えば春香の母親を生き返らせられるかもしれん! わ、わしを傷つけたり殺したりすればそれも出来なくなるぞ! この強大な力を使えばきっと母親は――!」
焦りから吐き出された言葉が虚しく消えて行く。
卑怯な手で誰かを苦しめ続けた相手が――結末がこれなのか。
春香の手が怒りで震えていた。
「おまえが殺したんだろ! この町を守ろうとした母さんを!」
吐き出された声が胸を重くするのか、町人が鎮痛の面持ちでうつむいていた。
「それに、母さん言ってた! どんな力を使っても、失った命は戻らないって! どんなに私が会いたくても、もう母さんには会えないんだ! それなのに、そんなたわごと!」
春香の慟哭が沈黙を切り裂く。
世の摂理に反することは次元の魔女でさえもできない――しないことだ。
誰がどんなに願っても、叫んでも、死んだ人間は生き返らない。
だから、生きているうちに素直になれと、誰もがひたすらに繰り返すのだ。
「春香……、仇を討ちたいか」
顧みた小狼の真っ直ぐな瞳が春香を映し出す。
「それで気が済むならいい。けれど、春香が手をかける価値のある男か?」
ただ茫然と事の成り行きを見つめるしかできない領主は、最早、何もできはしないだろう。城と言う、秘術と言う隠れ蓑を失った時点で彼はもうただの人間で、そして――
「こんな奴……、殴る手が勿体ない!」
振り絞るように言い放った春香に、小狼が領主へと歩を進める。
事実を払拭するように彼の頬をなでる。と、彼がわざとらしくがっかりしたような声を漏らした。
「それだけなんだぁ」
「ごめんなさい」と不本意にも感情のこもってない声がこぼれた。
「どっちかと言うと“お礼”の方がいいかなー」
こっちを凝視している二人を指差すファイの口元が猫のように歪む。
「私に、ファイに手を出せというのですか?」
「そうなるかなー」
「別に怒ってません」
「?」
「巧断の国で私に手を出したことをチャラにしたいのではないのですか?」と名前は小首を傾げた。「私が手を出せばお相子ですし」
「その発言もどうなんだろうねぇ」と思案顔で唸ったかと思うと、ファイは開き直ったように言ってのけた。「それにオレは手を出した覚えもないしー」
つまり、相子ではないと主張したいのだろうか。
――お礼――
――あぁ、忘れていた
身を翻した名前は黒鋼の腕を引っ張った。
「てめぇ、どうゆうつもりだ?」
黒鋼が頬に顔を近づけてきた名前の口を右手で覆い、力づくで押し戻す。
苛立ちと煩わしさが大半を占めるものの、微かな当惑を滲ませる黒鋼に名前の目が三日月型にゆがんだ。
――大切な姫君に会ったら言ってあげよう。彼が手を出したことを。
酷く狼狽する黒鋼が見て取れそうで、名前はない尻尾を振ってしまいそうなほど気分が高揚していた。
「なにしてるのかなー?」
上から降ってきたファイの声に黒鋼の力が緩む。
口から外れた手のひらに名前は淡々と口にした。
「助けてくれた“お礼”です」
ファイの仮面が欠ける音がした。
女が密やかに笑い、名前は黒鋼の腕を放した。
「これで私は自由だ。あの馬鹿な領主親子より、余程気骨がある童達の行く道を塞ぐ気もない。知りたいのは領主の居場所だったな。この城の最上階に奴はおる。一番小さな童は先に辿り着いたようだな」
だいぶ時間を食ったはずだ。もし小狼があの足を酷使していれば、今頃は立っているのもやっとだろう。
「また卑怯な手を使おうとしているな、あの領主(ゲス)は」
女が忌々しげに吐き捨てていた。
女――秘妖(キイシム)――に言われた通り最上階へと階段を駆け上る。
全身傷だらけなのをかまわずふざけ合いながら先を行く二人を、名前は三段遅れで追いかけていた。
ようやく階段を上り切り、重厚な扉を開け放つ。
口を開けた扉の先には、武装した町人の大勢の姿があった。
「あれー? なんだか人いっぱい?」
「三人とも遅いー!」
不満げな声とともにモコナが黒鋼に頭突きする。
「うるせぇ」
「こっちも色々あったんだよー。ごめんねぇ」
ファイがへらりと笑うと、小狼の重く低い声が静かな部屋に反響した。
「羽根を返せ」
円形の広い部屋の奥で領主らしき肥えた男と小狼が対峙している。半歩後ろに桜と春香が寄り添うように立っていた。春香の手には家にあった明瞭な鏡が握られている。
「それはサクラ姫の記憶だ――返せ」
「小狼君……」
桜が見守る中、冷然とした態度で小狼が領主に近づいていく。
尻餅をついている領主の前には、球体だったと思しき透明のガラスが浮いていた。
半壊し至る所に亀裂の入ったそれの中には、見覚えのある白い羽根が収まっている。
小狼の表情は見えないが、穏やかであるはずもないだろう。
領主の顔からは血の気が引いていた。
「ま、待て! これを使えば春香の母親を生き返らせられるかもしれん! わ、わしを傷つけたり殺したりすればそれも出来なくなるぞ! この強大な力を使えばきっと母親は――!」
焦りから吐き出された言葉が虚しく消えて行く。
卑怯な手で誰かを苦しめ続けた相手が――結末がこれなのか。
春香の手が怒りで震えていた。
「おまえが殺したんだろ! この町を守ろうとした母さんを!」
吐き出された声が胸を重くするのか、町人が鎮痛の面持ちでうつむいていた。
「それに、母さん言ってた! どんな力を使っても、失った命は戻らないって! どんなに私が会いたくても、もう母さんには会えないんだ! それなのに、そんなたわごと!」
春香の慟哭が沈黙を切り裂く。
世の摂理に反することは次元の魔女でさえもできない――しないことだ。
誰がどんなに願っても、叫んでも、死んだ人間は生き返らない。
だから、生きているうちに素直になれと、誰もがひたすらに繰り返すのだ。
「春香……、仇を討ちたいか」
顧みた小狼の真っ直ぐな瞳が春香を映し出す。
「それで気が済むならいい。けれど、春香が手をかける価値のある男か?」
ただ茫然と事の成り行きを見つめるしかできない領主は、最早、何もできはしないだろう。城と言う、秘術と言う隠れ蓑を失った時点で彼はもうただの人間で、そして――
「こんな奴……、殴る手が勿体ない!」
振り絞るように言い放った春香に、小狼が領主へと歩を進める。